星が落ちても大丈夫 7


会議室は、と名前が小声で問うと、まあちょっとお喋りしようよと高岡は簡単に言った。
屋上は風がびょおびょおと吹いて寒く、彼女と仕事以外のお喋りをしたい気持ちは少しもない。けれど強風も名前のことも知らぬ振りで、高岡は屋上を颯爽と歩く。
夜の中を歩く彼女は、初めて話した時の物静かな印象とは全然違う、生命力に満ちた圧倒的な存在感があった。

「苗字くんさ、前に彼女いないって言ったじゃん。あれ、ほんとう?」

何故今そういう話をするのか、いないと言ったのに何故疑うのか。わからない。やっと高岡の隣に追いついて、ため息を口の中で飲み込んだ。

「本当です」

全身から、仕事の話は、と言いたげな名前を見て高岡はコミックみたいに大げさに肩をすくめた。

「仕事、好きなんだねえ」
「まあ……はい」
「じゃあ仕事の話からしようか」

仕事のことを話す彼女の口調はゆったりとしている。けれど瞳は異様に爛々としていた。打ち合わせを終えたらすぐに帰らせてもらおうと思い、名前が早口になったのは、本能が恐怖を覚えたからだった。

「苗字くんは、ほんとうに仕事、好きなんだねえ」

しみじみと言う高岡の、瞳孔が開いている。でも、と彼女は続けた。

「ごめんね。仕事、今日で終わりだよ」

言われたことの意味がわからず、瞬きをした。ほんの一瞬の間に喉を手で鷲掴みにされた。
酸素の道をほとんど塞がれて、声が出せない。高岡の手を剥がそうともがくけれど、ほっそりとした彼女の腕のどこにそんな力があるのか、名前の抵抗は無意味だった。人間じゃない。それだけは分かった。

「私、吸血鬼なの」

名前をじっとりと見ながら、きれいな黒髪の、真面目そうな男の子の血が好きなのだと彼女は言った。チャラチャラした男は嫌いで、彼女がいる男も嫌だという。

「苗字くん、吸血鬼の彼女いるんでしょ。この前の飲み会で、噛み跡あるのちょこっと見えたよ」

ああ、彼女じゃなくて彼氏だったりする?
アハハと面白そうに高岡は笑った。
 
「一年待ったのがいけなかったな。キミが入ってきた時にすぐ飲んで殺しとくんだった。私、他の吸血鬼が手つけてる人間の血は、興味ないからさ。残念」

すごい力で喉から引っ張られ、窒息しないためには、名前は高岡についていくしかなかった。
ぴょん、と軽く屋上の柵に飛び乗る高岡。自重で名前の首がさらに締まり、ぐぅ、と小さく唸った。高岡は名前を掴む力をほんのり緩めて、声を出す隙間を作ってやった。名前はケホケホと咳き込んむ。

「誰が吸血鬼?この会社のヤツ?」
「……知って、どうするん、ですか」
「私のテリトリーに居られると邪魔だもん。殺すよ」

風が一層強くなっていた。指先がかじかむ。
名前の足元にはなにもない。遥か下に道路が走っているけれど、夜闇の中、高層ビルの屋上で首を吊られている人間がいることなんて、誰も気づくはずがない。
問いに答えず沈黙する名前を、高岡は揺すった。

「言いなよ。本当にこっから落とすよ」
「言っても、落とす、でしょ」
「あ、冷静だね。だって吸血鬼って知られちゃったら、殺すしかないもん。でも大丈夫だよ、彼女だか彼氏だか知らないけど、そいつもすぐ天国に送ってあげる」

彼女が、天国、と言ったのが意外に思えた。
そういう場所はあるのだろうか。死んだら行けるって、本当だろうか。
名前は、行ったことのないその場所よりも、今の生活を気に入っている。やりがいのある仕事。気にかけてくれる友達。好きな人。
ここがいい。

「一緒に、生きていけば、いいじゃないですか」
「なに?」
「喋りません。高岡さんのこと、誰にも……」
「嘘だね。人間は、ツルんであたしたちを殺す。キミも、今は生きたくて調子のいいこと言ってるだけ。言ってよ。吸血鬼は誰?」

一度は緩められた首が再度きつく締められる。苦しい。酸素が足りなくて、意識の輪郭が歪む。
だらん、と名前は腕を下ろした。

「苗字!」

その時屋上のエレベーターの扉が空いて、千景が飛び出してきた。
名前と高岡が打ち合わせをしようと言うのを千景は聞いていた。会議室で、と聞いた。嫌な気分で各会議室の予約スケジュールを見てみたけれど、このあとの時間に予約されている会議室は無い。予約せずに勝手に会議室を使わないように、と管理部から口を酸っぱくして言われているので、注意しよう、そしてついでに二人きりの密室を散らそう。千景はそう考えて会議室の扉を一部屋一部屋開けていったが、二人はどこにもいなかった。嫌な気分は、嫌な予感に変わった。

柵の上、名前が高岡に喉を捕まれ、手を離されれば屋上から真っ逆さまという状態に追い詰められているのを素早く見やる。緊張と焦りを、奥歯を噛んで堪える。
千景が動こうとする気配を察知して高岡が止めた。

「卯木さん、一歩でも動いたらこの子落っことしますから」

高岡は千景の動向を注意しながら、名前に笑いかけた。

「あーあ、苗字くんがすぐ言ってくれないから、死体が増えちゃう」

それを聞いて、高岡が、千景が吸血鬼だと知らないのだと名前は考えた。千景を人間だと思っているから、簡単に殺せるものとみなしているのだ。

「そろそろ言いなよ、このへんにいる吸血鬼は誰?」

千景は状況を把握する。
あの女は吸血鬼。人型の人外であれだけ力が強いのは、吸血鬼か雪男くらいだ。雪男に女はいない。
彼女は苗字名前の血が欲しいんじゃない。人間を殺すことを何とも思っていない。稀にいる、肉体の強さと寿命の長さから全能感に酔い、すべて思い通りにしたがる吸血鬼だ。下手に煽ってはいけない。

「俺が吸血鬼だ」

ためらうことなく千景は言った。

「え?あ、そういうこと」

なんで言うんだと、名前は苦々しく思った。上手く嘘をついて欲しかった。一人なら助かるはずだった。
千景は自分を守ろうとしてくれている。でも、そんなこと、頼んでない。

「知りたいことは分かっただろう。苗字を離してくれ」

千景が名乗り出ても高岡は名前を離さない。驚きもしていないようだ。この人間の後に殺す吸血鬼がどこの誰であれ、邪魔だから消す。彼女にはそれだけのことだった。
それでも千景は高岡を説得しようと試みた。同族からの呼びかけに耳を貸してくれないだろうかと淡く期待した。または、殺意を完全に自分に向けてくれないだろうか。

「苗字は言わないよ。俺のことも、キミのことも言いふらしたりしない」

吸血鬼と人間は、共生は出来ないのか。キミは人間を少しも信じられないのか。そんな思いも込めて、出来る限りの穏やかな声を出す。

「うける、そんな保証ないですって」

しらけた顔で言う高岡。千景から目を離さず睨みつけたまま、名前をより高く持ち上げた。

名前は酸欠状態の頭を右側に倒して、下を見た。流れる車のライト。真下にはただ暗闇のようなコンクリートの道路があるだけ。下にどれくらい歩行者がいるのかは暗過ぎてわからない。
自分はまず助からない。それで済むだろうか。誰も、巻き添えにらなければいいけれど。
靄がかかる思考。気が遠くなる。目をとじかけながら、名前は千景の名を呼んだ。
うつきさん。
ほとんどうめき声みたいな、掠れた音だ。何か言い残したかったのに、酸素も気力も足りなかった。

「苗字くん、用無しになっちゃった。ばいばい」
「やめろ」

千景は目まぐるしく考える。高岡が手を離して落ちる名前を、ここから走っていって助けられるか。直線距離二十メートル。この女が邪魔をしてこないか。

「やめてくれ」

千景の懇願は無視された。
高岡が、道に空き缶でも捨てるみたいに簡単に名前から手を離した瞬間、落下が始まる。それとほとんど同時に、名前の身体は下から抱きとめられた。
密だった。
飛び上がった勢いのまま密は高岡の腹を思いっきり蹴った。

「ぐぅっ……」

高岡は蹴り飛ばされ、ゴボッと口から血を吐いた。名前にはどうにもできなかった強靭な体に一撃でこれほどダメージを与えるのだから、そして、ビルを垂直に走って飛び上がってくるなんて芸当をするのだから、密も人間ではないと名前も察する。
しばらく狭く押さえつけられていた気道が開放され、咳き込む名前を抱き上げたまま、密は「大丈夫?」と聞いてくれた。いつも眠そうな密がこんなにもハッキリ話すのを、名前は初めて聴いた。

「ひそか、さん、なんで……」
「至に、名前と連絡がつかない。何とかしてって、頼まれた」

至の顔を思い浮かべ、心配をかけたことを芯から申し訳なく思い、胸が痛かった。
至が劇団内の吸血鬼の存在を知っているのか、名前は至に聞いたことはない。そんな話題になったことはなかったし、これからも、聞くつもりはない。
でも、共同生活の中で至には何か思うところがあったのだろう。だから、ゲームの約束をしていた名前と連絡がつかなくなった時、千景に連絡をしてみても繋がらないのをただ事ではないかもと考えた。他の誰でもなく密に助けを求めた。密は、オレ以外には黙ってて、と言って寮の屋根から夜の中に飛び出していった。真っ先に彼らの勤務先に向かった。人間の目では見えなくても、吸血鬼の目には、屋上で首を絞められている人間がよく見えた。

「離せ!離せよ!」

千景は、密が蹴り飛ばした高岡を抑え込んだ。さっき名前が彼女にそうされていたように、喉に手をかける。
殺したい。憎悪が腹の底で煮えていた。これは、自分の大事なものを殺そうとした生き物だ。指が女の喉に食い込む。女も渾身の力で抵抗した。
殺さなければならない。女の抵抗が段々弱くなってくる。

「千景」
「卯木さん……!」

二人に呼びかけられ、ハッとして、千景は吸血鬼の女を絶命させかけていた腕を解いた。女は咳き込みながら、自分の命を脅かす存在である千景から距離を取ろうとした。彼女にとって、吸血鬼として生まれて初めて感じた恐怖だった。足が竦んで、立ち上がれない。
密が彼女を荷物のように担いだ。彼女は密にも怯えたようだった。

「あの、その人を、どうするんですか?」

抵抗もせず恐れに顔を青くしている高岡を見て、名前は密に問うた。

「……とりあえず、どこか遠くに連れてく。名前から遠く離れたところ」

まさか殺すのかと今度は名前の顔色が悪くなる。密には、名前のそういう反応は不思議だった。殺されかけたのはどっちなんだか。

「話を聞いてみる。またそのうち連絡するから。千景にも」
「……悪い。頼む」

千景は千景で顔面蒼白で、千景と名前をここに残していいものかと密は一瞬考えたが、この先は二人の問題だと判断した。至にも早く連絡してあげないといけない。
密は女を担いだまま、隣のビルの屋上まで軽々と飛び移った。

人間じゃあないんだろうなと思ってはいても、人並み外れた身体能力を見るといちいち驚く。でも密の後ろ姿の残像をぼうっと見ている余裕は無くて、名前は立ち竦む千景のほんの少し斜め後ろに立った。横に並んでいいのか、分からなかった。

「あの、来てくれて……ありがとうございました」

千景が来なければ、力では到底敵わず、密が現れる前に地面に叩きつけられていたことは想像に難くない。

「いや……、同じ吸血鬼がしたことだ。悪かった。お前を、怖い目に合わせて……俺のせいで……」

千景から高岡への説得は効果が無いどころか、煽るような結果になった。助かりはしたけれど、死にそうなところまで追い詰められた。女を本気で殺そうとした自分を見せたのも、きっと名前を怖がらせたはずだった。
もう、何を謝っているのか、千景自身わからなくなっていた。ぐちゃぐちゃだ。千景は名前の前で少しもスマートでいられない自分を煩わしく思う。

名前は、千景と二人になると、どう接していいかが今もわからない。
血を飲める人を見つけられたのは千景にとって良い事で、やっぱり自分だけが特別なんてことはなかったんだとショックもあるけれど、もう何も心配いらない。二人見つけられたのなら、三人目もいずれきっと見つけられる。この人は、生きていける。

それなのに、あなたはなんでそんなに苦しそうな顔をするの。
全然、わからない。そばにいられなくても、幸せでいてほしい。どうしたらあなたは笑って過ごせるの。何をそんなに、怖がっているの。

言葉を交わせない二人の空間に、電子音が響いた。千景のジャケットの中で私用携帯が着信を告げていた。今はとてもじゃないがどこの誰とも通話する気にならない。千景は着信を無視する。
しばらく鳴り続けた着信音は一度止まって、また鳴りだした。仕方なく私用携帯を取り出すと、電話をかけてきた相手が分かった。
やっと電話に出た千景の耳に、早く出てくださいよ、と至が不満を口にした。

『密に聞きました。名前も大丈夫なんですよね?』

至に聞かれ、ちら、と千景は名前の顔を見てはすぐに目をそらした。

「ああ。助かった。ありがとう」
『珍しく素直ですね。そのまま素直な心で名前と話したらどうですか』

痛いところを突いてくる。千景は押し黙る。

『ちゃんと名前と話すまで、俺は洗濯しません。いつまでも部屋に脱ぎ散らかします。片付けもしませんよ。カップ麺、食べ終わったら床に放置します』

最悪な脅しだった。千景が返事をせずにいると、電話越しにため息が聞こえた。

『名前に代わってくれますか』

茅ヶ崎だ、と言って千景は名前に携帯を渡した。そうだろうと思っていたので、色々と謝罪しようと名前は口を開く。至は名前の謝罪を先に断った。

『ごめんとかいいから、気の済むまで、先輩と話しなよ』

じわりと目に涙が滲んだ。ずっと激しく動いていた心臓が、ゆっくりと落ち着いていった。

「茅ヶ崎さん。俺、話します。振られてきます。だから、また、飲みに連れて行ってください」

至を心から頼って出てきた言葉だった。
電話の向こうの至も、すぐそばにいる千景も、ぽかんとして聞いていた。