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拝啓ぼくの魔法使いさま


「莇くん、最近時々ぼうっとしてることがあるけど、なにか悩み事?」

監督に何を言われているのか、莇はすぐには分からなかった。たっぷり間をおいて、いや、別に、と歯切れの悪い返事をする。まさに今、通行人を見るでもなく見ながら、莇はぼうっと考え事をしていた。

秋組第十回公演で二度目の主演を務め上げ、つい先日千秋楽を終えて気が抜けたのだろうか。頭をよぎった考えを、監督はすぐに打ち消す。彼の様子は、燃え尽き症候群とは違う気がする。
大勢が住まう寮では、同部屋でない限り二人きりの時間を持つことはなかなか難しい。そこで監督は莇を買い出しに付き合わせた。賑やかな寮の中よりは、夕暮れの小道のほうが何かと話しやすいはずだ。無理に悩み事を聞き出すつもりはないけれど、頼ってくれれば嬉しい。
しかし、莇は何も打ち明けなかった。
ぱんぱんに膨らんだ買い物袋を持ち直し、莇は監督から視線をそらす。

莇には、打ち明けるべき言葉がなかった。監督を信頼していないのではなく、本当に、悩み事はないのだ。

ただ、考え事なら、止むことなく生まれている。
朝食をとっている時。制服に着替える時。あの人は何をしているだろう。もう家を出た頃だろうか。そんなことを考える。
登校中は特にひどく、九門の話の端から端までを注意深く聞いて、九門の口からあの人の名前が出るのをずっと待っている。

苗字名前は九門のクラスメイトで、九門の友人だ。
九門ほど元気で明るいわけでもなく、莇ほどクールで大人びているわけでもない。クラスのまとめ役でもないし、お騒がせ者でもない。九門の隣でにこにこしている、普通の高校三年生だ。莇はその人のことを名前さんと呼んでいる。

九門に用事があって彼らのクラスに何度か通ううちに、莇と名前は自然の成り行きで知り合い、九門を交えて三人で話をするようになった。

「九門は九門なんだから、おれも名前でいいよ」

ある時名前にそう言われ、彼の名前を呼んでみようとしたが、出来なかった。何故なのか自分でもわからない。
今になって思えば最初に違和感を覚えたのはあの時だ。あれ以来、莇はあらゆる時に名前のことを考えるようになった。

「あざみ」

名前は莇をそう呼んだ。ふやふやとした柔らかい声のせいか、莇には平仮名に聞こえる。自分の名前が妙に心地よく響くのが、悪くない。莇が名前を思い浮かべる時、名前は何度も莇の名前を呼んだ。

莇のことをあざみと呼ぶように、名前は、九門のことを「くもん」と呼ぶ。九門にも同じように聞こえているか定かではない。わざわざ確認するのも変な気がして、莇は確かめられずにいた。
もしも九門が自分と同じように、彼に名前を呼ばれることを好んでいたら……そう考えると胸の奥が引き絞られるように苦しくなる。この嫌な感覚を取り去る一番効果的な方法は、やはり、名前を呼んでもらうことだった。

買い出しのために監督と近所のスーパーへ行くと、客の中に、若い男女二人組がいた。葉物野菜のコーナーで立ち止まり、信じられないくらい顔を近づけて話している。
破廉恥極まりないと思い、彼らを避けていこうと莇は大股で歩いた。その時、女性が男を名前で呼ぶのが耳に入った。甘く高い声で名前と呼び、男が応える。思わず振り返った莇に気付くことなく、二人は体を寄せ合って夜ご飯の相談を続けている。
名前。
女性の声が耳に貼りついて消えない。
あの男はあの人じゃないとわかっていても、甘い声であの人の名を呼ばれたことが、忌まわしかった。

黒黒とした気分に苛まれたまま寮に帰ると、臣が玄関へと顔を出した。

「莇、お客さんが来てるぞ」
「客……?」

自分に来客があるとすればケンさんくらいだが、それならそうと言うはずだ。
まさか父親が来ているのでは、と思い莇は玄関に並ぶ靴を見たが、それらしいものはない。
買い物袋を臣に預け、一体誰だと談話室に向かう。談話室にいたのは左京、それに名前だった。
いろいろと思うことはある。なぜここにこの人が。自分ではなく、九門の客ではないのか。どうして左京とちょっと微笑みながら話しているのか。

「あ。あざみ、おかえり」

莇の帰宅に気が付いて、名前が顔を上げた。柔らかに呼ばれ、スーパーから引きずってきた嫌な気分が吹き飛んでいく。これは多分、魔法の一種だ。

「名前さん……こんなとこで何してんだよ」
「あざみの話」
「……そうじゃなくって」

やばい。嬉しいかもしれない。どきまぎする心を努めて殺し、莇は平静を顔に貼り付ける。

「坊は自分から学校の話をしねぇからな。なかなか面白かった」
「はぁ?名前さん、左京に何話したんだよ」
「あざみが授業中そとみてて先生に当てられたこととか」
「授業は真面目に受けろよ、坊」
「……うるせぇ」

いつもの調子で左京に突っかかることができない。莇が授業中に外を見ていたのは名前のクラスがグラウンドで体育の授業をしていたからで、いつも外を見ているわけではないのだが、まさかそう言えるわけもなかった。

左京が部屋に下がり、莇は左京が座っていたソファに腰掛ける。キッチンでは臣と監督が夕食の準備を始めていた。二人の喋り声や野菜を切る音があるおかげで静寂は免れているけれど、二人になった途端、莇と名前の間には何とも言えない空気が漂った。
二人が顔を合わせる時はいつも九門がいて、九門が会話の起点になっている。二人きりでどうしたらよいか、お互いに困っていた。こんなことなら左京を部屋に帰すんじゃなかったと莇はこっそり思いながら、口を開いた。

「九門、今日は草野球しに行ってる。そろそろ戻ると思うけど」
「そうなんだ」
「九門に用があったんだろ?」
「ん?違う違う。あざみに会いに来た」

ぽかんとした莇の顔が面白く、名前はふふと笑う。驚くかもしれないと思って来たが、想像以上だ。ちょっとのことでは動揺を示さない莇の表情を崩し、見たことのない顔を見られたのが嬉しい。
名前はトートバッグから雑誌を取り出した。

「あざみに、服の相談したくて」

一年と三年の教室は離れていて、休み時間だけではゆっくり話せない。名前は莇の連絡先も知らない。だから秋組稽古のない日を九門に聞いて、会いに来たという。

服の相談だろうが、明日の天気の話だろうが、莇には何でもよかった。自分と話したいと思い、ここまで来てくれたことが嬉しかった。
胸を撃ち抜かれるこの感じは、妙に癖になる。相手がこの人だからだろうか。名前を呼ぶように、ふやふやと柔く、しかし的確に射抜かれて、胸にはずっとこの人がいる。
俺も名前さんに、同じことができればいいのに。
雑誌のページをめくる名前の指や伏せられた瞼を見ながら、莇はそう思った。

「これとか、どう思う?」
「ああ……名前さんに似合うと思う」

自分の感情に無自覚な莇は知らない。名前が、莇に名を呼ばれることが好きなことも、その気持ちを何と名付けるかも。



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