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日に日に夜はやわらかく


東が一人暮らしをしている部屋は最低限の物しかなく、良く言えばこざっぱりしているが、生活感が感じられず、寂しい空気を生んでいた。
その部屋のリビングにある、唯一あたたかい色の家具。
このソファは、名前がここに出入りするようになってすぐの頃に東が買い求めたものだ。小さすぎず大きすぎない。男二人が並んで座るのにちょうどよい。弾力がありつつ適度にフカフカで、名前は時々、ここでうたた寝をしてしまう。

「名前。コーヒー、机に置かなきゃ危ないよ」
「あ……すみません」

今日もうつらうつらと眠たげにしてしまっていたら、手に持っていたカップを東がそっと取り上げ、ローテーブルに置いてくれた。
ソファ正面の大きなテレビは、かなり昔に流行った洋画を映している。英語を聞き取れない名前にとって、字幕版の洋画は心地よい子守唄だ。今日は、このまま寝てしまいたい。

名前の仕事終わりに外で待ち合わせ、食事をして、時にはお酒を呑んで、東の部屋でコーヒーを飲む。終電で帰宅する日もあるし、おしゃべりをしながら映画を観ていたつもりがすっかり寝落ちて朝を迎える日もあった。
毎週ではないけれども、不思議と二週は空かない。とりとめのないことでLIMEを送りあっていたら、いつの間にか次に会う約束をしている。そういう風にして、二人はここ数年を過ごしてきた。

東と名前は美容室で出会った。東が通っていたサロンに、数年前名前が新人として勤め始めたのだ。
先輩達に厳しくも丁寧に指導をしてもらい、名前は必死に下働きをしたが、元来手先が不器用だった。同時期に入った新人が一人前と認められ、客から指名をもらってカットをするようになった頃、その同期の補助に入ることも少なくなかった。時に客前でも先輩から小言を浴びている名前を東は見かけたことがある。

名前がカットモデルを探していると知った時、東は頼まれたわけでもないのに、自分にと願い出た。月に一度はサロンへ来る東のことを名前ももちろん知っていたけれど、まともに話したことはない。自分のカットモデルを頼まれてくれる理由が分からなかった。
店にとって東は馴染みの良客である。高額なトリートメントやヘッドスパを定期的に申し込んでくれる、大変ありがたいお客様だ。そんな人に修行中の新人のカットモデルを頼むわけにはいかないと、店長は、言葉を尽くして東を止めようとした。

「でも、苗字くんに切ってもらいたくなっちゃったから」

微笑みを崩さない東に、店長は折れた。絶対にしくじるなよ。店長の眼がそう言って名前を睨む。名前はかちんこちんに緊張して、ぎこちない手つきで東の髪に触れた。
新人によって酷い仕上がりにされてしまうかもしれないというのに、銀髪の麗人はくすくす笑っている。後ろで控えている店長も怖いが、目の前の客もまた底知れない。
あれは人生で一、二を争う地獄の時間だった。親しくなってから、東にそう正直な感想を伝えたことがある。

「名前の思い出に残れて光栄だな」

嬉しそうに言われて、やっぱりこの人は底知れないと名前は思った。

目も当てられないような仕上がりにはならなかったけれども、そう上手くカット出来たわけでもない……と、名前は今も思っている。ところが本人は気に入ってくれたらしく、タダで切ってもらったお礼にと、食事に誘ってくれた。あの日を境に東と親しくなれたので、地獄のような時間も、結局はありがたいものに変わった。

いくつかの季節が過ぎる間に、名前は実家を出た。出た、と言っても借りたアパートは実家から電車で三駅離れた場所なので、いつでも家に寄ることはできるのだが。
東は時々、名前の一人暮らしの部屋にも遊びに来てくれた。特に面白い家具もなく、いたって普通の狭いアパートだったが、東はいつも「ここは居心地がいいな」と言ってくれる。

初めての一人暮らしは時に面倒事もあるものの、気楽で、鮮やかだ。仕事は面白く、職場の人間関係も悪くない。何より、実家暮らしの時に比べると、東と会える日が少し増えた。それに、家族の過干渉もなくなった。終電で実家に帰ると「ついに彼女ができたか」と騒がれ、朝帰りをした日には「あちらの家に挨拶は」などと詰め寄られるので、毎度困っていたのだ。
いつか息子が可愛い彼女を連れてくることを楽しみに待っている両親には悪いと思うけれど、そんな日は訪れそうになかった。むかしむかし、保育園児だった頃担任の先生に初恋をして以来、恋とは無縁になっている。職場で客の女の子と話しても、女の子がいる飲み会に出てみても、ピンとこない。
人生経験の豊富そうな東に相談してみると、恋は無理にするものじゃないよと言われた。確かにそうだと思い、今はゆったり構えている。

添い寝屋という東の仕事のことは、実のところよく分かっていない。怪しい仕事じゃないと言うので信じているけれど、東が知らない人とふたりきりで一晩を過ごしていると思うと、名前は落ち着かない。
部屋にふたりきりなんて、万が一何かあったらどうするのだろう。危ないおじさんとか。妖艶なお姉さんとか。あらゆる意味で心配だ。何かあったらすぐに呼んでくださいと、名前は東にたびたび言っている。

「ふふ。頼もしいな、名前は」
「東さん、笑いごとじゃありませんよ……?」

かなり本気で心配しているのだが、東はにこにこと笑うばかりで、いまいち本気と捉えられている気がしない。

「名前こそ、もしお客さんに嫌なことされたら言ってよね?」

東の声にはどこか迫力があって、ハイ、と名前は頷いた。東が不意に見せる男らしさが、名前は苦手だった。どぎまぎして、まともに向き合えない。


画面の中では若い男女が険しい表情で口論をしている。たしかこの二人、序盤ではキスをしていたのにとぼんやり思いながら、名前は、思い出したように東に話しかけた。

「東さん、本当に付き合ってる人いないんですか?」
「うん?」
「絶対いるって、先輩たちが言うので……」
「そうなんだ」

名前の職場では、東は有名人だ。良客というのもあるが、微笑みをたたえたミステリアスなお兄さんは、とても存在感がある。東が来店すれば今日こそ話しかけたいと誰かが言い、東が帰ればこのあとデートかなと誰かが噂する。
恋人はいない。そう本人の口から何度か聞いているけれど、周りはみんな、あの人に恋人がいないわけがないと言った。東が嘘をついているとは思わないけれども、周りが言うことも理解できる。恋人の一人や二人、いそうなものなのに。

「気になる?」

恋人ができたら、自分とは会ってくれなくなるのだろうか。その事が気掛かりで、つい何度も聞いてしまう。東は時にはぐらかし、時にトランプの賭け事にしたりして、たっぷり面白がってからようやく「いないよ」と答えるのだ。いないと聞くまで名前の心は休まらない。

「気になります」
「いないよ」

初めてあっさりと返事をされて驚く。眠気がどこかへ飛んでいった。

「名前も、恋人はいないよね」

ソファの隣は、こんなに近かっただろうか。
「いません」と答えながら、ふとそんなことを考えた。東と肩が触れている。やわらかな温度に、心臓がどきどきする。最近は、トリートメントをするために東の髪に触れる時も、ひどく緊張してしまう。すごく大事なものを手にしているようで、ただでさえ不器用な手先が震えるのだ。

さらり、と名前の頬に髪が触れた。銀色の綺麗な髪。

「東さん、」

気付いた時には唇が重なっていた。一瞬離れ、もう一度ちゅ、と触れてくる。
間近に東がいて、肩どころか口まで触れて、そこがじんわりと痺れるようだ。

「……ごめんね、名前が可愛くて、我慢できなくなっちゃった」

目の前で囁かれる。胸の奥底から変な熱がこみ上げてくるのを感じた。胸も喉も目の奥までもが熱くなり、泣きそうになる。
三度目に唇が触れた時、キスをしているのだと名前はようやく自覚した。離れたくないという気持ちと一緒に。



short yubisaki