涙の夜
「何やってんだ、手前」
仕事の真っ最中に、背後から声を掛けられた。振り向かずとも彼の不機嫌な表情が目に見える。
「見れば分かるでしょ」
書類整理中、とぶっきらぼうに答えれば、後ろの中原の不機嫌指数も上がったのか、更に声が低くなり。
「またか」
「またで悪かったね」
チッ、と中原の舌打ちが聞こえたかと思えば、執務室の奥に置かれている革張りのソファまで歩み、どさっと腰を下ろした。
「早くしろ」
「はぁ? あんたなんかに言われるまでもないんだけど」
手は止めないままに言い返す。
「て云うか、如何して我が組織の幹部様がこんな下っ端の下っ端を毎日監視しに来る訳」
「ンなモン俺の勝手だろうが」
そりゃ、そうでしょうけど。
「それに__」
まだあんの。
ファイルに綴じられた書類に不備が無いか確かめながら言葉の続きを待つが、その先は中々聞こえてこない。
「……『それに』、何?」
偉そうに足を組む中原に、焦ったくて問えば、「何でもねえ、ほっとけ」と目を逸らされた。
「あ、そう」
気にならないでも無いけど、今は書類の方が大事だ。いかに幹部といえども相手をするのは後回しだ。背中に視線を感じながら、私は書類の山に向き直った。
「あー疲れたー」
日もとっぷり暮れ。やっと整理の終わった棚を達成感と共に眺める。偉いぞ自分。
満足して自分を褒めていたら、ガッといきなり頭を鷲掴みにされた。痛い痛い痛い。
「手前どんだけ時間掛けてやがる……!」
そう、この男は律儀にもこんな時間まで、私の業務終了を待っていた。そんなに暇なんだろうか。
「これでも早いんですー、全部一人でやったんだから」
「他の奴呼べよ!!」
まあ正論だが。
「そんな事出来てたら最初してますぅ」
小さく毒を吐く声が聞こえたが全く気にせずに踵を返し、部屋を出て行く__寸前で今度は肩をがっちり捉えられた。一寸待てやっぱり痛い痛いいってえなチビの癖に握力いくつあんだコイツ。
「…………何のご用ですかァ? 私はこれから帰るんですけど」
「邪魔すんな」と書いてあるに違いない顔でそう言ってやれば、中原の額にビキビキと青筋が浮かんだ。そこらの男なら裸足で逃げ出すようなおっそろしい顔だ。
「真逆手前、俺が何の為にこんな時間になるまで待っててやったか判らねえのか?」
指が肩に食い込み、骨がミシミシ言い始めた。ヒビでも入れたいのだろうか。
「生憎人の心読めないんですよね私。いいからこの手退けてくださ、ってちょっいった、痛い痛い痛いッて折れる!!」
いよいよ本格的に骨がベキンと逝きそうなのでその手を退けようともがく。だが離れない。
私の抵抗など全く意に介さず、中原は一方的に告げた。
「呑みに行くから手前も来い」
「はぁ!?」
「拒否権は無えからな」
抵抗虚しく引き摺られながら溜息をついた。今夜はこの男に付き合うしかなさそうだ。私酒弱いんだけど。
強引に連行されたのは、隠れ家と云うか、普通なら目にも留まらないようなこじんまりとした酒場だった。普通の家かと思うほどに。
意外にも(失礼だが)外装に反して店の中は綺麗で落ち着いた雰囲気だった。嫌々ながら連れて来られたが、まあ此処なら……と一寸気分が上がる。一寸だけ。
カウンターに座り、中原が葡萄酒を二杯注文するのを聞いて、口を開く。
「で、私を此処に引き摺って来てまで中原は何がしたいの。明日も私は仕事なんだから遅くまで付き合えないけど?」
一応そう伝えておくが、中原は怒ったような顔で云う。
「手前がちんたら書類整理なんかしてたからこんな時間になったんだろうが」
「…………、」
じゃあ待たなきゃいい、とか、事前に云っておいてくれれば、とか、色んな反論が浮かんだが、結局口に出せなかった。
無言のまま、目の前に置かれた葡萄酒のグラスを取って一気に煽る。普段滅多に呑まない熱い液体が喉を焼いた。
酒好きの中原が選ぶだけあって、余り酒を呑まない私でも、その葡萄酒は美味しいと思えた。あっという間に呑み干してもう一杯要求する。中原もまた、隣で同じ葡萄酒を呑んでいた。
何か云って来るかと思ったのに、中原はただ黙って、視線も向けずにグラスを傾けている。自分から連れて来た癖に何なの。
「…………仕方ないでしょ、」
長い長い静寂の中で、何杯か目を干した後、ぽつりと言葉が溢れた。
「私だって好きであんな地味な業務してる訳じゃない」
中原が此方を向いたのが気配で分かったが、目を合わせたくなくて、空になったグラスを見つめる。
「でも、私は戦闘なんか出来ない。短刀だって銃だって扱いは人並み以下なの知ってるよね」
役立たずだと罵られた事数知れず。同僚どころか新入りに次々追い越され、上司にお前にはマフィアなんざ向いていないと___判っている事を何度も繰り返された。だが今更表社会になど戻れるものか。
「不要だって処分されない為には、戦闘以外の事で役に立たなきゃ駄目なんだよ」
書類仕事に掃除に情報収集に、雑務を必死にこなして漸く居場所が出来ると云うのだから、私の実力など高が知れている。
「あんな雑用押し付けられるのは嫌だけど、死ぬのはもっと嫌だよ、」
私はこのグラスみたいに空っぽだ。
「まぁ、前線に出てる中原は、死にたくないなんてこの女何言ってやがる、って思うでしょ?」
あはは、と乾いた笑いが店内に虚しく響いた。
中原は何も云わず、何の反応も見せず、私の方に視線を寄越すばかり。
前よりずっと長い沈黙が降りた。
居た堪れなくなって、私は無理矢理もう一度笑顔を取り繕い「折角呑みに誘ってくれたのに御免ね」と席を立つ。
「……なまえ、」
突然呼ばれた名前に驚いて振り向く。中原には初めて呼ばれた。どう云う風の吹き回しだろうか。
「なまえは、凄え善く頑張ってる」
中原は真っ直ぐに私を見つめてそう云った。
実に陳腐な慰めだ。まるで幼子に掛けるような。それなのに目頭が熱くなった。
違う、これは美味しい葡萄酒を呑んだ所為だ。絶対そうだ。中原の声が優しいからじゃない。頭を撫でられているからじゃない。
あやすように抱き締められて背中をさすられているからじゃ、ない。
「他の誰が何を云おうが、なまえは俺に必要だ」
煩いと云う筈だったのに、言葉は出なかった。代わりに堪えきれなかった涙と嗚咽が出てきた。
「…………っう、」
「鼻水拭かねぇんなら貸してやる。ほら、泣け」
その言葉に甘えて、筋肉質で硬い中原の肩口に額を寄せる。
「なんで、そんなに優しいの、」
みっともなく啜り泣きながら、私はやっとそれだけ問う。
「…………自分で考えやがれ」
中原が少し怒ったような声で云った。あんたの行動理由なんか知るか、と思ったけど、黙っておいた。
そんなこと云ったら、きっとこの人は私から離れてしまうだろうから。
涙の夜
きっと私は認めてほしかったのだ。他の誰でもない、この人に。