「着いたぞ。」


貧民区から車を走らせること数刻、俺たちは李道の屋敷へ戻ってきた。

玄関先へ車を着け、俺は運転席を降りて李道の座って居る側の後部座席を開けて中を覗く。口元のキセルから、ゆるりと煙を立ちのぼらせている李道の向こうに、硬直したまま腰掛けているガキ…もとい、猫の姿があった。


「……何やってんだ、あいつ。」
「さて、な。素直に付いてきておいて、自分の置かれている状況の重大さに今頃気づいたのかもしれないぞ。」


そういうと、李道はくつくつと笑いながら車を降りて邸内へ戻っていった。後に残された俺は小さくため息をつくと、もう一度車内に声を投げた。


「おい、…おい猫!」

びくりと肩が震え、おずおずと顔がこっちを向いた。声の出ない口が動いたが、構わず腕をぐいと引くと車から連れ出した。


「馬金兄貴、お帰りなせぇ。」
「おう、表の車片付けておけ。」

邸内へ入ると、ちょうど出てきた下っ端連中に車の片付けを任せる。

「了解です。……で、その連れてんのは?」
「飼う。」
「……は?」

飼う?何いってんだこの人?
ぽかんと間抜け面を晒すやつもいれば、困惑の声も複数聞こえる。ああくそ…、李道の奴、絶対こうなるの分かっていただろう。軽く舌打ちをする。

「このガキはここで飼う。…"李道の命令"だ。文句のある奴はいるのか。」

言いながら周りをギロリと睨みつける。組織のトップである李道、あいつの命令は絶対――それに反することは死を意味している。

「っ、も、申し訳ありません!」
「…分かったなら、さっさと車を片付けてこい。」

慌てて車の片付けへ走っていった奴らを尻目に、俺は猫を連れて行く。
行き先は使用人区画だ。


▼


「王伯母、いるか?」

使用人達はちょうど休憩時間だったのだろう、床に座ってくつろいでいた何人かが慌てて立ち上がる。それを制するように片手を振る。別に咎めに来たわけでもないのだから。

「呼んだかい馬金?」

奥から朗らかな声と共に、ふくよかな老女が現れる。
彼女は王静。李道に幼い頃から仕えており、この屋敷の使用人達を取りまとめている。さっぱりとした気質ゆえ、付き合いの長さ故に俺と李道を平気で呼び捨ててくるが、それが許される位の信頼を俺達は寄せていた。


「王伯母、こいつを洗ってやってくれ。」

挨拶もそこそこに彼女の前に猫を差し出すと、周りの使用人達の視線が一気に集中する。猫は居心地が悪そうにこちらを見上げていた。

「おや、この子はどうしたんだ。新しい使用人かい?」
「違ぇ。…李道の命令で、俺が飼うことになった。」
「…そうかい。それはまた大役だねぇ。」

王静は瞬きをすると、おかしそうに笑う。何がおかしい、そうしかめっ面を向けると受け流すように軽く肩をすくめられた。

「この子、名前はあるのかい?」
「あるんだろうが、どうも上手く声が出せねぇみたいでな。とりあえず猫って付けた。」

言いながら、トンと猫の背を押す。

「猫って、…まあ、馬金は昔から猫が好きだからねぇ。」
「……言っておくが、付けたのは俺じゃねぇぞ。李道だ李道。」

猫が好きの言葉に猫が不思議そうに首を傾げた。その様子を見た王静は、そっと猫の頭に手を添えると耳うちする。

「馬金はね、こーんな外見してるけど、猫が好きなのよ。可愛いところあるでしょ?」
「…王伯母、余計なこと吹き込むな。」

聞こえるように舌打ちをするも、王静には効果があるはずもなく。
はいはい、じゃあご主人様が怖いから早く行くわよーなどと言うと猫を抱えて奥へ消えて行った。
他の使用人達もいつの間にか仕事に戻ったのだろう。区画内は、俺だけになっていた。

「ああ、くそ。」

行き場のない軽い苛立ちを、足元に転がっていた小石にぶつける。
カンッとどこかへ転がって行く軽い音だけが、虚しく響いた。



▼



「どうだい馬金!見違えるようだろう?」

夜になった頃、俺の部屋へひどく満足げな王静が訪ねてきた。
その足元には、見たことのない黒髪の子供がいた。…いや、その瞳は見間違えるはずがない。

「…お前、猫か?」

視線を合わせるようにしゃがみ込むと、王静の服の裾を掴んだままの子供――猫が、こくりと頷いた。

王静の努力のたまものもあるのであろうが、昼間のボロ切れからは想像ができない位の変化を、猫は遂げていた。これは彼女が満足げなのも納得だ。そして何より、

「馬金、口が開きっぱなしだぞ。そんなに驚いたかい。」

にやにやと笑う王静の言葉にはっとして、慌てて口元を引きしめる。…悔しいことに、図星であった。

「…驚いたね。まさか、ここまで化けるなんて、想定してなくてだな。」
「化けた訳じゃないさ。この子、元から良いものを持っていたんだろうねぇ…。私がやったことは、洗ったことと、髪の長さを整えたことと、後は新しい服を用意した事くらいさ。」

そういうと、王静は猫を俺の方へ押し出す。

「食事は、いきなりあんたに合わせると吐いちゃうだろうから簡単に食べさせておいたよ。…李道に見せてやるのは明日にして、今日はもう休ませてやると良い。この子も疲れているだろう。」
「色々と世話をかけたな王伯母。」

猫を抱き上げると、小さくあくびをしている顔と目があった。食事をしたとはいえ、その身体はまだまだ軽い。

「本当に小さいな、こいつ。本物の猫より軽いんじゃねぇのか。」
「栄養をとっていないから痩せてるというのもあるだろうが、…女の子だしねぇ。ちゃんと食事していけば、年相応になるさ。」
「…は?」

女の子?

「……王伯母、こいつ女なのか。」
「え、ああ。この子は女だよ。すみずみまで洗ってるんだ、間違えるはずがないだろう…って、気づいてなかったのかい?」
「……ああ。」

男ならまだしも、女。それを、俺が育てる。改めて、李道にとんでもない事を引き受けさせられたと感じた。もう遅いのだが。

「なぁに、何かあれば私を頼ればいいさ。それくらいは李道も多目に見れくれるだろうさ!」
「…すまねぇな王伯母。」
「いいってものさ。私もこの歳になって子供の世話が出来るなんて嬉しいからねぇ。…少なくとも、この子はあんたのそばを嫌がってないようだし。」

言われて視線を落とすと、さっきまで眠そうにしていた猫が、腕の中で穏やかそうな寝息をたてていた。

「…ただ疲れて寝てるだけだろ。」
「素直じゃない飼い主だねぇ。もう少し喜びなさいな。」

懐かれた方が育てやすいだろう。そう言い残すと、王静は部屋から出て行った。


「…嬉しい、ねえ。」

今日会ったばかりだ。そんな感情がわく程猫には接してもいない。
だが、腕の中の温もりは、確かな存在を俺に伝えてきている。それだけは事実だ。

「猫、お前はこれから俺をどう楽しませてくれるんだろうな…。」

ぽつりとそんな言葉がこぼれるも、一体何を楽しませるつもりなのかと内心自重しつつ、部屋のベッドへ猫をおろしてやる。
穏やかそうに寝息をたてる猫を眺めながら、俺もすぐ隣で横になると瞳を閉じるのだった。



(朝が来ることが、こんなに楽しみだった事があっただろうか。)