今夜はきっと、甘くて苦い
『――っ!』
(?、…なんだろう。)
今日の仕事も終わり、明日のスケジュールの確認ついでに事務所に戻ろうとした俺は、遠くで聞こえた声に足を止めた。
今の声は…、つむぎさんだろうか。屋上で誰かと話しているのか?一応挨拶だけしようと階段を上がり、ドアに手をかけようとした。
『――ったじゃない!』
扉越しに、怒号が聞こえた。
普段、あまり怒ることのない彼女が声を荒げているから、少しだけどきりとして俺は扉を開けるタイミングを見失う。
(……どうするかな。)
今このタイミングで開けたら、誰かと言い争っているつむぎさんと遭遇することになるのは必至だ。
俺としては彼女のプライベート、ましてや他の人に聞かれたくない内容の現場に踏み込むつもりはなかった。…であれば、聞かないふりをするのが正解だ。その場を離れようと踵を返したその時だった。
バシっ、と何かが屋上の床に当たる音がした。少し軽い音から、紙袋か何かが当たったのだろう。
流石にただ事ではない気がする。来た理由は、…物音がしたので顔を出したということにしよう。
「……つむぎさん?」
「う、え、えっ、ほ、北斗くんどうして此処に?!」
たまたま扉を開けたら貴女がいたのでという感じに声をかける。…ほら、やっぱり。誰かの来訪を予想してなかったであろう彼女の表情は驚きで満ちていた。
「事務所にスケジュール確認しにきたら、なにやら屋上で物音がしたもので。……これ、貴女のですか?」
そういうと俺は、床に落ちて少しだけ汚れて歪んだ紙袋を差し出す。つむぎさんの表情が、小さく曇ったのを俺は見逃さなかった。
「それ、処分していいよ。……渡す先、なくなっちゃったし。」
「渡す先?」
「私ね、さっき振られたの。……忙しくて、なかなか会えなくて。連絡はこまめに取ってたつもりだったの。今日も本当は会いに行く筈だったのに、こんな遅くなっちゃって。謝ったけど、こじれて、そのまま、…喧嘩になっちゃって。」
馬鹿みたいでしょ。そう言って笑う彼女の目元は、うっすら赤く腫れていた。……泣いて、擦りでもしたのだろうか。
彼女に恋人がいる事は、知っていた。だから、今の彼女の姿に心がちりっと痛んだ。
「…これ、俺が貰っても良いですか?」
「え、?!それさっき投げたから多分割れちゃってるよ?!」
「好都合ですよ。小さくなってて食べやすそうですし。」
「なにそれ…。」
少し呆れたような彼女を尻目に、俺は屋上のフェンスにもたれるように床へ座り、袋を開いた。中には少し上品なラッピングをされたチョコレートが入っている。飾りが、少しだけ歪んでしまっているのは見ないふりをした。
「これ、あの有名店のですよね。高かったんじゃないですか?」
「少しね。……せっかくだし、特別なことしたいなぁってね。」
「……つむぎさんらしいですね。…ん、美味しいですよこのチョコ。」
美味しいものに値段なんて関係ないと思うが、このチョコレートは本当に美味しかった。彼女が、本気で探したのであろうことが伺えた。
だからこそ、俺は本当の行き先であったはずの相手に嫉妬する。
ーーまただ。また胸の奥が痛む。
「……つむぎさんも食べませんか。」
「私?意地悪なこと言うなぁ…。いいよ、私はいらない。」
「そうですか。……じゃあ、ちょっと動かないでくださいね。」
そういうと、彼女の腕を引き寄せる。
「っ、ん。」
ぐっと引き寄せた勢いのままに俺は唇を重ねた。口に含んで溶かしたチョコレートを流し込むよう、ゆっくり舌を動かす。逃げそうになる彼女の身体を抑え込むように、俺は腕に力を込めた。
頬に添えた手を、つうっと顎へ這わせると、びくんと一際大きく体が跳ねる。その反応が少し愛おしくて、俺は目を細めた。
唇を離すと、お互いの顔の間を甘ったるい吐息が行き交う。少しだけブランデーが混ぜてあったのだろう、ふわりと鼻孔をアルコールの香りがかすめていった。
「ほく、と、君…なん、なん…で…。」
俺に口付けられた直後だ、理解が追い付かないのだろう。つむぎさんは頬を紅潮させ荒い息をしながら、訳が分からないという表情でぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「……ダメだよ、こんな事。好きな人以外にしちゃ。なんで、なんで、私に…。っ!」
溢れる涙を親指でそっと拭うと、俺は彼女を抱き寄せた。
紅潮した頬は暖かかったけれど、ずっと外気にさらされていた身体は、少し冷たかった。
「――貴女の事が、好きです。」
ひゅっと、彼女が息を吸った音がした。
「ずるい男でしょう?…でも、その通りですよ。俺も、今思ってますから。」
我ながら、酷いタイミングで打ち明けたと思う。手が届かないと思っていた想い人が、失恋した瞬間に自分の想いを告げているのだ。…これを最低だと言わないで何だと言うのか。
「……嫌なら、俺を振り払ってください。」
そういうと、抱きしめている腕を少しだけ緩める。本当は離したくなんてなかった。もし振り払われたらなんて考えたくもなかったが、彼女に拒絶されることは覚悟の上だった。
「……ほく、と、君。」
それから少しして、小さな声が聞こえた。顔を上げると、つむぎさんと目が合った。
“――て、”
震える唇が、そう動いたのを観た瞬間、俺の身体を粟立つような痺れが駆け抜けていった。
逸る鼓動を感じながら、俺はもう一度つむぎさんを抱きしめる。
――いつのまにか、空から雪が優しく堕ちてきていた。
(抱きしめたい、貴女を。心も身体も。)
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伊集院北斗『結晶〜Crystal Dust〜』