コトコトコト・・・
鍋の蓋が小刻みに揺れ、小さな穴から蒸気が噴出している。
「もうういいかな」
日曜日の良く晴れた日、リリは朝食のご飯を炊いていた。開け放たれた勝手口の外にいるのは屋敷しもべ妖精の”ガマ”だ。七輪で魚を焼いていて、香ばしい香りが漂ってきている。綺麗に手入れされたラベンダーやハーブなどに囲まれている七輪はなんともちぐはぐだ。
「姫様さすがですな」
魚の方も仕上がったのか、キッチンに入ってきたガマは木のスツールによじ登ると鍋を覗きこんで感嘆の声を上げた。しわしわの声だ。ガマは何故かリリのこと”姫様”と呼ぶ。いつか恥ずかしいからやめるように言った時はそのあと数日は名前で呼んでくれていたが、気付いたら姫様に戻っていたのでリリはあきらめた。きっと父がずっと昔にそう呼ぶように教え込んだのだろう。
「ありがとうガマさん、お父さん起こしてこなくちゃね」
「あのお方は本当によく寝なさる。娘に起こさせるなんて」
「仕方ないよ。昨日もずっと薬の研究をしていたもん」
父親は有名な魔法薬師だ。リリが5歳の時にイギリスに来た時から父はダイアゴン横丁の薬問屋の隣に「カラスマ薬局」を経営している。お客さんは皆父の腕を知っていて、それぞれ我儘な要望を言うので(チョコレート味の薬をくれだのクィディッチがうまくなる薬をくれというトンチンカンな要望もあった)リリが学校から帰って店番につくと父は店の奥の部屋で夜遅くまで薬作りに追われることが多かった。
階段を上がって父の寝室に入ると、ベッドの天蓋のカーテンがしっかりと閉められていた。中からぐうぐうといびきが聞こえている。
「お父さん、起きて!」
リリは天蓋のカーテンを開けて、それから部屋中のカーテンを開けた。ベッドの上の大男はごろんと寝返りを打つだけでまだぐっすり眠っている。だがリリは父がどんなに深く眠っていても必ず起きる方法を知っていた。
スッと大きく息を吸ってーーー目いっぱい甲高い声で叫ぶ。
「キャー!助けて!お父さん!」
叫び終わるのが先か起き上がるのが先か、父はものすごい速さでベッドの上に立ち上がった。手にはベッドサイドテーブルに置いてあったはずの杖が握られている。
「誰だ!娘に指一本でも触れてみ・・・うっまぶしい!」
ベッドから降りると窓から8月のサンサンとした太陽が差し、寝起きの男を容赦なく照らした。
「お父さん、おはよう」
リリは後ろに手を組んで父の前に立ち、にっこりと笑った。
「ああ、夢か・・・ニガヨモギの妖怪にリリが攫われたのかと・・・」
「また変な夢を見たの?いつもニガヨモギの妖怪とか、ニワヤナギの大群とかの夢を見てるよね」
父はその言葉に苦笑いした。リリの父ーカラスマイツキは日本の有名な魔法使い一族の松會で、カラスマ家の人間はもうイツキとリリだけになっている。祖父の代からイギリスを拠点にしていたらしく、イツキは日本の魔法学校には行かずホグワーツを卒業した。結婚してからは病弱な妻の療養のため日本の田舎で暮らし、リリもそこで生まれた、というのはガマから聞いた話だ。イツキはあまりこの話をしたがらなかった。それだけ妻のことを愛していて、その死がつらいことなのだろうと思いリリは母についてはあまり聞かないようにしていた。
「朝ごはんできたよ」
「ありがとう。今は何時だ?」
「朝の9時」
リリは古い振り子時計を指さした。
「もう店を開ける時間じゃないか!!朝ごはんを食べる時間はない!・・・リリ、小学校の制服はどうした?」
気は進まないが姿くらましを使うしかないかとブツブツいいながら慌てふためく父を見てリリはにやにや笑いながら、ポケットから手紙を取り出して父親の顔の前に広げた。
「今日は、ホグワーツ魔法魔術学校入学のために必要なものを買いに行く日、でしょう?」
父はとっても良いことでも思い出したようにパッと顔が明るくなり人差し指を立てた。
「そうだとも!このやんちゃなお姫様にぴったりの杖は見つかるかな?」
「見つからなかったらどうしよう」
「大丈夫、オリバンダーに任せれば必ずリリだけの杖をみつけてくれるさ」
そう言いながらリリをヒョイと抱き上げそのまま階段を下りた。
食卓にはすでにガマの作った味噌汁と焼き魚が3人分並べられている。洋風でアンティークの長テーブルに並ぶそれらは、やはりちぐはぐだ。
「おお、うまそうだなガマ」
「おはようございますイツキ坊ちゃま」
「その呼び方はやめろと言ってるだろう。もうとっくの昔から父親なんだ」
父—イツキはリリを椅子に下ろしながら罰が悪そうに言った。ガマはカラスマ家に昔から使えている日本の屋敷しもべ妖精で、イツキのことも生まれる前から面倒を見ていたのだ。もちろんリリのこともずっと面倒を見ていて、日本からイギリスに引っ越すときにガマも来て欲しいと言うと喜んでついてきてくれた。ガマはリリの遊び相手でもあり、時に叱ってくれる。リリに祖父は居ないが、おじいちゃんがいたらこんな感じだろうと思っていた。
イツキ、ガマが席についたところで、リリの足元からニーと小さな声が聞こえた。小柄な黒猫のシュシュがリリを見上げている。シュシュはイギリスに来た少し後にこの家にやってきた。引っ越してきたばかりで友達ができずに泣いているリリに、父が買ってくれたのだ。
「あっ、シュシュのごはん!ガマさん、お魚ある?」
「網の上です」
リリはお皿に焼き魚をのせ、ボウルになみなみとミルクを注いだ。
「おまたせシュシュ、さあどうぞ」
テーブルに置くとシュシュはテーブル上に飛び乗り、がぶりと焼き魚に食らいついた。
「俺たちも食べよう。そんなにゆっくりもしてられないな。最近のダイアゴン横丁は入学前の親子であふれかえってる。きっと今日も混んでるぞ」
父娘とガマは手を合わせ「いただきます」と声をそろえた。