月夜の下で
洗面台に備え付けてあったボトルのひとつを適当に手にとりキャップを開けて匂いを嗅いでみる。
むせかえりそうなきつい香りに眉をしかめて蓋を閉めた。香りが強いものはあまり好みではない。
その強烈な個性に自分までもかき消されてしまいそうでどうしても好きになれないからだ。
毎回今日こそは気分を変えようと目新しいものに手を伸ばしてはそっと戻し結局はいつもと同じ香りに落ち着いてしまう。なんの変哲もないありふれた香り。
まるで私みたいだ、なんて自嘲とともに泣きそうになってきゅっと眉間に力を入れる。
しゅわしゅわと薄いピンク色の固形物が形をゆっくりと削りながら細かい気泡を纏いお湯の中に溶け込んでいく。
柑橘系の香りが仄かに漂う浴槽に足を滑らせ湯船の中へ浸かってそっと膝を抱える。
ゆらゆらと揺れる泡の水面を見つめているとまたうっかり視界がぼやけてしまいそうになって瞬きを数回繰り返した。
贅沢させてもらっていると思う。それもちょっとやそっとではなく私の年頃の子達と比べたら物凄く。でもそれは愛情からくるものではない。多分、たまたま彼にとっての普通が他の人達より随分贅沢なだけで。わかっている。
わかっているけどどうしても日常の自分とのギャップに戸惑ってしまう。
どうして私なんかに声をかけてくれたんだろう。どう考えても主人公やヒロインなんかじゃなく、どちらかと問うのも馬鹿らしくなるような十把一絡げに括られるその他大勢に分類されるような私に。
幾度となく考えてはみても答えなんか出せるはずもなく、かと言って彼に聞く勇気も持ち合わせていない。
もやもやした気持ちを抱えたまま今日も私は出せる筈もない答えを探している。
*
「随分長かったんですね」
お風呂からあがったら彼が寛いでいた。
まあここは彼の住まいのひとつでもあるし彼が居て何の不思議でもないのだけれど。でもこの時間にここにいるのは珍しい。一体どうしたんだろう。
『うん。今日は少し疲れていたから。』
濡れたままの髪をタオルで拭いながらどうしたものかと悩む。このまま彼の隣に腰をおろすか理由をつけて早々に部屋に引き上げるか。
「座らないんですか?」
ぼんやりと突っ立っていたら不思議そうに見上げてくる瞳とぶつかる。
『髪を乾かしてこようかと思って』
今までの陰鬱とした気分を誤魔化すようにそう答えると、薄い唇を歪めて可笑しそうに目を細めた。私の考えていることなんて全て見透かされていそうで途端に私は落ち着かなくなる。
「僕が乾かしてあげます。ほら、来なさい」
『でも、』
「何です。僕では不満ですか?」
『…乱暴にしないでよ』
「失礼ですね。このくらい僕にも出来ます」
隣に腰掛けようとすると手をとられバランスを崩しかけて反射的にぎゅっと目を瞑る。すっぽりと彼の膝の上に納まっていた。これは…。
対面して座るという何とも恥ずかしい状態な訳だが、そんなのはどこ吹く風。してやったりの顔をしている彼にため息をつくと、がしがしとタオルで乱暴に拭かれていく。人に頭を触られるとどうしてこうも気持ちよくなるんだろう。
リズムよく拭きあげる指の動きにうとうととなりそうになりながら、今日の昼間聞いた話をぼんやりと思い出していた。
親切でお節介な人はどこにでもいるもので、こちらの都合なんてお構いなしに色んなことを教えてくれる。
いつもだったら曖昧に笑ってやり過ごしていた眉唾物の噂話の類いなのだが、今日の話題はそうはいかなかった。
六道骸がダンピールの少女を高値でオークションで落札したという。
ぺらぺらと経緯をこと細かく話してくれる老婦人のよく動く口元を見つめながら知りたくもなかったことがどんどん私の記憶の中に刻み込まれていく。そして聞いている内にどんどん自分の顔が強張っていくのがわかった。最後の方は「あら、どうしたの?随分顔色が悪いようだけど」と不思議そうに首を傾げる老婦人に体調が悪いことを伝え足早にここへ戻ってきた。そしてもう彼はここには来ることはないと思っていた。
それなのに今日彼はここへやって来た。
肌寒くなってきたから彼も人肌恋しくなってしまったのだろうか、それとも別れを告げに来たのかなんて思ってしまう。
今までだったら冬になれば彼がここに来る頻度も多くなっていた。そうやって冬の間じっと互いの熱で寒さを凌いで暖かくなったらまたふらりとどこかへ消えてしまう。でもこれからはそうはならないという予感めいた何かがずっと私の中で声をあげている。
これから彼は私の知らないどこかへ行ってしまうのだろう。ダンピールの少女と共に。
そして何も見つけられずにいる私は春が来たらどこに居るんだろう。
お題:Aコース様
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