テセウスの船



仕事を終え退勤の判を押したのち、着替えを済ませ病院を出る。今日は中々事務仕事が終わらず定時を大幅に過ぎてしまった。と言うのも、入院患者が「痛い、痒い、モルヒネ寄越せ」と一晩中ずっと騒ぎ立てていたせいだ。すっかり中毒になっている、というのが医師と婦長の見立てである。おかげでモルヒネが盗まれぬよう棚の見張り役という新たな仕事が発生していた。ただでさえ人手が足りず仕事が山積みだというのに、だ。

さっさと退院してくれないかな、なんて患者に辟易している私は白衣の天使には程遠い。まぁ、周りが看護婦をなんと持て囃そうと制服を一枚脱げばただのヒトである。そんなささくれだった事を考えてしまうのは疲れている何よりの証拠だ。帰ったらすぐに寝よう、とひとつ溜息をついて病院の門を出たところで、見知った姿が目に入った。

「よう、遅かったな」
「待ってたらすっかり温くなっちまったよ」
「……どうしたんですか、それ」

そこに居たのは第七師団の二階堂兄弟だった。そしてぱっと目に付いたのは、洋平さんの手に抱えられた小玉スイカ。何とはなしにそれに触れてみれば、冷たいどころかじんわり熱をもっていた。じりじりと照りつける太陽にすっかり温められてしまったのだろう。今日はやけに暑いから余計に。まだ朝と言える時間帯でこれだから、昼間はもっと暑くなるに違いない。

「近所の婆さんにもらった。二人じゃ食べきれないから、名前さんも一緒にと思って」
「えぇ、私夜勤明けなんですが」
「食べてから寝ればいいだろ。なぁ洋平」
「でもよぉ浩平、これじゃあすぐ食えねぇよ。川行こうぜ、川」

そう言って洋平さんが踵を返し歩き出す。きっと川でスイカを冷やすつもりなのだろう。どうやら私の意見を聞く気はこれっぽっちもないらしい。「ほら行こう」と浩平さんに急かされて、仕方なしに二人の後ろを着いて行った。

病院のすぐ裏手にある山を三人で登りながら、夜勤明けに私は一体何をやっているんだと考える。ああ、しんどい。眠たい。

「名前さん、遅い」
「浩平、手を引いてやれよ」
「ん」

差し出された手に「まぁ、たまにはいいか」と自分のそれを重ねる。一人先を行く洋平さんがちらりとこちらを振り向いて、ニッと笑みを浮かべた。どうにも彼は変な気を回すきらいがある。その視線の意味には気付かない振りをして、そっと目を逸らした。

逞しすぎるその腕にぐっと引き寄せられながら、彼らの無事を祈るしかなかった日々を思い返す。北鎮たる第七師団、二人はそこに所属する軍人である。それも、多くの犠牲者を出した旅順攻囲戦を生き抜いた兵士だ。病院を通じて知り合った軍人の殆どは戦死して、だけど今、確かに私は生きた人肌に触れている。それがどれだけ幸せなことなのか、それなりに理解しているつもりだ。

今は伝える気のない想いを乗せて、繋いだ手にぎゅっと力を込める。すぐにぎゅっと握り返されて、私はもう、それだけで十分だった。



「わぁ〜、冷たい」

川に辿り着いてすぐに、履いていた靴と靴下をほっぽって、ちゃぷんとそこに足を浸した。キンとした冷たさが足元から身体を這っていく。「冷えたら食おうぜ」洋平さんがスイカを川に沈め、流されないようにと周りを石で囲った。それから二人は褌一丁になって、暑い暑いと言いながら川の中に飛び込んだ。私は川辺の岩に腰を下ろして、二人の軍服を畳みながらその様子を眺めた。

いくら二人が屈強な軍人とはいえ、まだ二十歳過ぎの若者である。年相応にはしゃぐ姿は微笑ましい、なんて言ったら失礼か。私も彼らと殆ど歳は変わらないのだから。

照りつける太陽に爽やかな川のせせらぎ。何だか妙に清々しい気持ちになって、川に足をつけたまま岩の上にごろんと寝転んだ。高くそびえ立つ木々が、風に揺られてカサカサと葉音を鳴らしている。枝葉の隙間からは雲ひとつない青空がこちらを覗き込んでいた。

「あ、だめだこれ、寝ちゃう」
「疲れてんだろ、スイカ冷えたら起こしてやるよ」

目を閉じれば、途端に心地の良いまどろみに包まれる。それに身を委ねてしまえば、眠りに落ちるまであっという間だった。



「おはよう、名前さん」

薄ら開けた瞼のすぐ向こう側に、ぎょろりとこちらを覗き込む目玉が見えて思わずびくりと身体を揺らす。どうやらいつの間にか寝入っていたらしい。寝台横に備え付けられた丸椅子、背もたれもないそれに座ったまま眠るなど、我ながら何とも器用なものだ。とは言え勤務中に居眠りだなんて、婦長にバレた日にはどんな叱責を受けることか。未だ重たい瞼を擦り、なんとか眠気を追い払う。

「疲れてるんでしょ。今日は帰ったらゆっくり休んで」
「……ええ、そうします」

なんて、その原因は他でもない貴方だと言うのに。「痛い痒い」と騒いだ挙句、モルヒネを狙って夜な夜な病院内を徘徊したことをもう忘れたのだろうか。

「今日は暑くなるみたいだよ」
「そのようですね」
「ねぇ、退院したらまた一緒にスイカ食べようよ。ほら、裏手の川でさ。洋平と三人で行ったの覚えてる?」

そう言って私の手に重ねられた浩平さんの右手は酷く無機質で、冷たい。「覚えてますよ」私の言葉に浩平さんがあどけない笑みを浮かべる。

川に行ったことは覚えているけれど、あの時食べたスイカの味は忘れてしまった。温い温いと三人で笑い合った記憶はあるから、そんなに美味くはなかったのだろう。

「ね、洋平も行きたいよね」

ヘッドギアに装飾された耳に語りかける浩平さんを見て、私はどんな顔をすればいいのか分からなくなってしまう。「楽しかったよね」「今度は包丁忘れずに持って行かなくちゃ」酷く小さい、だけどしっかり私の鼓膜を揺らすその声が、やけに遠くに聞こえた。

「名前さんはあの頃が一番よく笑ってた」

紡がれた言葉にどきりとする。浩平さんの視線がふっとこちらを向いて、途端、金縛りにでもあったように身動きが取れなくなってしまう。

「あれからまた仕事が忙しくなりましたから。どうにも疲れが取れなくて」
「ううん、ちがうよ」

そう言ってゆるく首を振る彼は幼い少年のようなのに、その瞳は光もなく真っ暗で、まるで死を待つ老人のそれだ。

「名前さんは洋平が好きだったんだよね」

でも、洋平、これだけになっちゃったから。と、浩平さんはヘッドギアに付けられた自身の耳を撫でる。私は何も言葉にできないまま、代わりに彼の右手をぎゅっと握った。

――――洋平さんといる浩平さんが好きだったんです。

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夢の通い路