秋の香りと惜別の想い



「おつかれ、名前ちゃん」

 午後2時過ぎ、予備校から出た私にそう声をかけてきたのは見覚えのあるジャージを着たやたらデカい男…、もとい私の彼氏だった。

「え、どしたの!?待っててくれたの?」
「あったりー」
「部活は?」
「今日は午前だけ」

 勉強お疲れ様。そう言って私の目の前に及川は立った。いつものことだけど、真正面に立たれると彼の顔を見上げる時首が痛くなる。及川もお疲れ様、と労いの言葉をかければくしゃりと笑いながら私の頭を撫でてくれた。

「時間ある?」
「あるけど…いいの?もうすぐ春高の予選始まるんでしょ?」
「たまには休息も必要だし。午前きっちり練習してきたから」

 純粋に嬉しかった気持ちと、少しの違和感。高校最後の大会。最後の春高。バレー命で部活部活部活な3年間を送ってきた彼が、こんな大事な時期に休息なんて言うのが少し不思議に思えた。それでも学校のない日にこんな早い時間から2人で出掛けられることがなかなかないから私は及川の誘いに易々と乗ってしまった。

「どこ行くの?」
「んーどこ行きたい?買い物とかカラオケとか行きたいとこある?」
「いや別に」
「じゃあちょっとブラブラしよ」

 そっと手を握られ、目的地もなく歩み出した。最近は少し肌寒くなってきたからマフラーを持ってきても良かったかもしれない。先週東京の親戚が遊びにきた時に、仙台はもう肌寒いしすっかり秋模様ねと言っていたのを思い出した。学校と予備校の往復ばかりであまり気に留めていなかったけど、木々が徐々に赤や黄色に染まってきていたことに今初めて気づいた。そろそろ朝家を出る時に息が白くなる季節にもなるのかと思うと少し憂鬱だけど。

「名前ちゃん寒い?手冷えてるね」
「うん…ちょっと寒くなってきたよね」
「まだ手袋もマフラーも俺持ってきてないんだよねー」
「いいよ大丈夫。及川と手繋いでるとあったかい」
「ほんっとに名前は……俺を殺す気ですか」

 そんな簡単に及川が死ぬわけないのに、もし死んじゃったらどうしようと考えたとき自分はもう生きていけないんじゃないかと思ってしまう。及川と付き合ってもうすぐ2年。部活が忙しくてなかなか会えないのに文句を言わずにいる私に彼は感謝していると言うが、私からしたらバレーの次に私のことを考えてくれている彼に感謝しかなかった。及川の中で自分がそんなに大きな存在でいられることに、感謝しかなかった。

 何度か2人で食べたことのあるたいやき屋さんでたいやきを買い、食べ歩きしながらアーケード街を抜け、定禅寺通りを抜け、仙台の街中をブラブラと歩いた。部活のこと、受験勉強のこと、友達のこと、家族のこと、最近見たテレビ番組のこと。話す内容はいつもの如く大した内容ではなかった。でもこんなささいな日常の会話をしながら及川と笑っているのが、私は好きだった。

「ねぇ見て、芋煮してる」
「ほんとだ」
「今年は無理そうだよね。でも来年あたり、したいよね」

 広瀬川のほとりで東北の秋の風物詩、芋煮会をしている人達を見ながら最後の一口のたいやきを頬張った。一年の時はクラスのみんなでやった芋煮会に部活後の及川が急いで途中参加で来てくれた。あまり話したことなかった及川とたくさん話せて、ぐっと距離が近くなった。去年はうちの家族が開催した芋煮会に及川を招待した。家族公認の付き合いができていることが、すごく嬉しかった。来年、及川が県外の大学に進んだとしてもこの時期に帰ってきてくれたらまた芋煮会できるかなぁなんて考えていると、少し声のトーンを落とした及川に「名前ちゃん」と呼ばれた。

「来年…無理かも」
「え?なんで?」
「俺もう…宮城にいない」
「そ、か…東京の方とか?そっちに進学するの?」

 いつも及川に進学先のことを聞いても「まだ決めかねてて」と眉を八の字にして答えるばかりだった。とりあえずバレーが強いところに行くというのは言われなくても分かっていた。それを県内だけに絞ると選択肢が狭まることも分かっていた。私は県内に留まるつもりだけど、東京ぐらいならそう遠くないし私も一緒に行きたいと実は思っていた。でも、彼の口から出た言葉は私の予想を遥かに超えるもので、

「…アルゼンチン。行くことにした」

 あまりの衝撃で、その後及川と交わした会話も、どうやって家に帰ったかも、もう何もかも思い出せなかった。


  ◆

 その後、青葉城西は烏野に敗れ県代表にはなれなかったと岩泉くんから聞いた。そしてあの日以来、及川と会ってないことも心底心配された。「クソ川の子守は俺じゃ無理だから早くなんとかしろ」となんともまぁ上から目線で命令口調なその言い方に若干イラッとしたが、彼の高校生活最後の大会が終わった今、声をかけないなんてことは流石にできなかった。

「おつかれ、及川」

 いつの日か私を予備校前で待っていてくれたように、私はバレー部の部室の前で及川を待っていた。片付けのため今日の放課後は部室に寄ること、ひっそり岩泉くんに聞いておいた甲斐があった。及川は久々に見る私の姿に目をぱちくりとしていた。

「名前ちゃん、なんで」
「及川も岩泉くんもマッキーもまっつんも…部活お疲れ様でした」

 及川の後ろにいたいつもの3人はサンキューなんて手を上げながら言った後、及川の頭や肩や背中をそれぞれバシンと叩いてからその場を去っていった。去り際に岩泉くんと目が合い、口パクで何か言われた。多分あれは、「たのんだぞ」って言ったんだと思う。

「…ちょっと歩こうか」

 そう言って及川は私の前を歩き始めた。隣に並んで手を取られることもなく、ただ彼は私の前を歩いた。さすがにもうマフラーを巻いて学校に行くようになった。前に及川にプレゼントしてもらったベージュのチェック柄のマフラーを今一度ぎゅっと締め直してからそっと彼のブレザーの裾を握る。

「…なに?」

 優しくて、でもちょっと不安の色も感じる及川の声。心なしか震えている気もした。

「…アルゼンチン、絶対行くの?」
「…うん。行く」
「そっか……もう決めてるんだね」
「うん。どうしても行きたい」
「うん…分かってる」

 うん、うんと自分を無理くり納得させるように私は何度も頷いた。そうしているうちに鼻の奥がツンと痛んできたけど、それすらも誤魔化すように頷き続けた。でも及川が名前ちゃん、と私の名前を呼びながら抱きしめたところで我慢していた涙がこぼれ始めた。

「アルゼンチンなんて…行けないよ、わたし」
「うん分かってる…、ごめん。本当ごめん名前ちゃん」
「はなれたくないよ、及川……行かないで」
「俺も離れたくない!けど……どうしても、行きたいんだ」

 及川を困らせたいわけはないし、彼のバレーに対する熱意や夢はずっとずっと応援したいと思っている。でもそれはね、及川。ずっとずっと隣で応援していたいっていう意味なんだよ。試合で勝った時は一番に顔を見ておめでとうって言いたいし、思い悩む時はそばで手を握ってあげたいの。それができないような場所に行くなんて、ひどいよ。

「…名前ちゃん。これは俺の我儘だけど、アルゼンチンに行くまでは今までどおり…ううん今まで以上に一緒にいよう。受験勉強で忙しいと思うけど、なるべく名前ちゃんの都合に合わせるから」

 今までずっと俺の部活に合わせてもらってたから今度は自分が合わせる番だと彼は言った。別れようと言われなかったことに安堵しつつも、あと彼と居られるのは半年もないのかと現実を突きつけられた気分にもなった。

 卒業して、アルゼンチンに旅立つ日が来たら私たちはお別れするのか。それとも超遠距離恋愛をするのか。そこのところはハッキリさせたかったけど聞くのが怖くなり、私はただ及川の腕の中で頷くことしかできなかった。

「ありがとう名前ちゃん。大好きだよ…ずっと、ずっと」

 木枯らしが吹く中でも、及川の腕の中にいれば暖かかった。この温もりを忘れないように、私も力一杯彼の背中に腕を回した。
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夢の通い路