いつの日か、愛せるように



 ぶるりと寒さを感じて瞼を開けると、開けっぱなしの襖のせいで冷たい風と乾いた落ち葉が室内に舞い込んでいた。机の上に置いてある読みかけの書物は風に遊ばれたせいで何処の章を開いていたのか分からない状況になっているし、せっかくあたたかい緑茶を淹れたはずの湯呑みもすっかり冷たくなっている。庭にある木々から葉は落ちてはいるが、そこには柔らかい陽射しが降り注いでいた。

「すっかり冬だな。陽射しはあたたかいが、日陰にいれば寒い」

 我が物顔で机の上に頬杖をつきながら話す彼の姿に私はあからさまに眉を寄せる。

「呼び鈴、ちゃんと鳴らしました?」

「庭から転寝している君を見つけたので、必要ないと判断して上がって待っていた」

「それもどうかと思いますが」

それが何か?と言いたげの彼に対してやれやれと思いながら私が立ち上がろうとすれば肩からずるりと何かが落ちる。真っ白い生地に裾だけ炎のような柄が描かれているそれに彼の羽織だと気がついた。

「お気遣い、ありがとうございます。ですが、まずいと思いますよ」

「任務でいつも着ているものだ。鼻がきく者に咎められたとしても特に問題はないだろう。それよりも、君が風邪を引かないか心配になってな」

「私が風邪を引くことはありませんよ」

「無論、知っている。だが、俺の気持ちの問題だ」

彼に羽織を渡すと、彼は頬杖をやめて羽織を受け取りすっと隊服の上から着る。

「ご用件は?」

私は今度こそ立ち上がってから彼に尋ねると、彼は藤色の風呂敷に包まれた荷物を取り出して机の上に置いた。微かに匂う藤の花の香りに頭が痛い。相変わらず、好きになれない匂いだ。

「お館様からの使いで来た。これを君に渡すよう命じられたのでな」

彼の言葉を聞きながら私は棚から薬箱を取って彼の元へ戻る。彼の頬や手にほんの僅かに切り傷があるせいで血の匂いが鼻につく。

「分かりました。あとで目を通しておきます」

おそらく、風呂敷の中身は文献資料だろう。産屋敷さんから届く書物はあまりにも情報が少ない鬼舞辻無惨について記された大層貴重なものだ。山の奥に住んではあまり麓の町に出歩かない私にとってありがたいことである。
 それよりも、まずはこの匂いを何とかしてほしい。

「その傷口、いつも消毒液をぶっかけてから来るよう言っているはずですが?」

「すまんな!忘れていた!」

ハッハッハッとあっけらかんと笑う彼に対して私は思いっきり顔を顰めてやった。

「大した怪我ではないが、どうせここに来れば君が手当してくれるから。ついな」

「嫌がらせですか。まったく」

はあと溜息を吐いてから薬箱を開けて脱脂綿と消毒液を取り出す。脱脂綿にたっぷりの消毒液を含ませてから彼の頬と手の切り傷に消毒液でびたびたの脱脂綿をぐりぐりと押しつけてやった。

「お願いですから、次からはやめてください」

もう何回繰り返したか分からない言葉を彼に向けるが、彼からは反省の雰囲気を全く感じない。

「善処しよう!」

彼の返事に信用できないなあと思いながら薬箱や使用済みの脱脂綿を片付ける。
 ふと、一際冷たい風がまた室内に舞い込んだ。

「そうだ。君に伝えておこうと思ってな」

 彼はその場から立ち上がり縁側に移動して腰を下ろす。私は縁側からなるべく離れた室内側に座る。

「本日、お館様から正式に柱になるよう仰せつかった」

彼は庭に広がる景色を眺めながら話している。私も、同じように庭に視線を向けたまま返事した。

「それは凄いですね。ご活躍を応援しております」

「これからは、より一層責務を全うしなければならない」

うんうんと一人納得している彼の背中に視線を移動する。腰から下がる彼の日輪刀に目がいく。

「では、もうここへ来てはなりませんよ」

私の言葉に反応したのか、ぐるりと彼が私の方を向いて目が合う。彼は数回瞬きをしてから、ゆっくりと瞼を伏せた。

「嫌だ」

はっきりと言い切る彼の言葉に私は眉を寄せる。しばらくの間、お互いに無言になる。
 かさりと地面に落ちている葉が鳴った。それに反応するかのように彼が瞼を開ける。何かを決意した表情に私の背筋が震えた。

「風呂敷、また産屋敷さんにお返しくださいね」

 これ以上この話題に触れないように私はその場から立ち上がって室内にある机の元へ行く。藤の匂いに顔を顰めながら風呂敷に手を伸ばそうとした時、後ろから伸びてきた長い腕に身体を抱きしめられてしまった。

「やめてください」

 私が拒絶しても彼は腕を解かない。寧ろ、抱きしめる腕にさらに力を入れてくる。私は瞬時に腕を振り解こうとするが、首筋に甘えるように押しつけられた彼の体温に驚いて固まるしかない。

「お館様も君の存在を知っているし、使いだって常々俺に命じられている。それを、今更。何故、俺が来てはならないという話になるのだ」

「それでも。あなたは、柱です。一、隊士である今までとは違う」

「では、こうしよう。柱になったのだから、君が悪事を働かないか俺が見回りに訪れることにする」

「何を、バカなことを仰っているんですか」

「何とでも言えばいい。俺は、ただ、」

そこまで言ってから、ぎゅうと再度きつく抱きしめられる。私の背中に伝わるどくどくとうるさい彼の心臓の音が私の心臓と重なった。

「君に、会いたいんだ」

普段の彼から想像つかないほどそれはそれはか細い声だった。私は息を呑む。目頭が熱くなる。私は手を伸ばして彼の腕に触れた。

「私は、お会いしたくありません」

そっと彼の腕を外した。彼の腕がだらんと重力に従って落ちる。彼に背を向けたまま、涙を必死に堪えた。

「そうか。すまなかった」

 彼が私から距離を取る気配がした。彼は縁側から庭に出る。じゃりと地面を踏んだ。

「今年の冬も、寒いな」

彼がそう言った直後、ふっと音が無くなる。私が庭を見た時にはそこに彼の姿がなかった。
 私は縁側に足を進める。屋根越しに空を見上げるとあたたかい陽射しが相変わらず庭の木々に降り注いでいる。だけど、草木を揺らす風は何処までも冷たかった。

「知ってますよ」

 私にはずっと、終わりのない冬が待っている。今はまだ、鬼舞辻無惨によって作られた呪いがこの身体全てを支配してはいない。だけど、いつか必ず私の心は私の意思と関係なく死んでいくのだ。産屋敷さんと共に鬼の始祖やその後の鬼の在り方について研究しても、それが無駄に終わる確率の方が高い。どんなに冬の寒さに負けないあたたかい陽射しが庭に降り注いでも、私には、寒い日陰から出ることを許されないのだ。好きな人と、寒いねと笑いながら寒空の下を歩くことなんぞ、夢のまた夢だ。
 ぺたんと縁側に膝をつく。いよいよ溢れた涙をそのままに瞼を閉じた。不意に、藤の花の香りがして頭が痛くなる。

「春なら、俺が連れて来てやろう」

顔を上げるとどうやら山の麓から手折ってきたらしい藤の花を一つ手にして微笑む彼がいた。彼は私から視線を外して空を見上げる。

「寒空の下を歩きたいなら、俺が傘をさして共に歩く」

そう言ってから彼が再び私と目を合わせた。ゆっくりと、眉を下げて。それはまるで、彼が泣き出してしまうのではないかと思えるほどの、悲しい微笑みだった。

「今年の冬も寒いですが、それもまあいいかと思えるようになりたいものです」

 彼の手から藤の花を受け取る。この匂いを好きになれる日が来るよう、そっと願いを込めた。


(お題:chocolate sea)


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夢の通い路