夕立ち


及川徹という人は、この学年では、いや、この学校では、もといこの地域ではちょっと名の知れた人物だった。その人は容姿端麗、成績優秀、フットワークが軽くてコミュニケーション能力があって……それより何より県内でも有数のバレーボール強豪校の名セッターとして有名だった。そんな彼は、その他大勢の中の大勢、特別目立たない自分のクラスメイトだったりする。


「おっ、と、おはよ苗字さん」

「及川くん。おはよう」



朝、特別早くも遅くもない時間に登校した私はいつものようにささめきのこぼれる教室へ向かった。入口の扉を潜ろうとすると正面に人の影。見上げると及川くんが今日もきれいにセットされた髪を少し揺らして、視界に現れた障害物(私)にぶつかるまいと慌ててブレーキをかけた。新調して間もないのだろうか、それとも割りとこまめなタイプなのだろうか、高校生活三年目にしてはあまり汚れていない上履きがキュ、と教室の床の上にグリップ音を鳴らした。


にこり、と効果音がつきそうな爽やかな笑顔とともにその大きな体をひらりと翻す。にこにこと無言で私が先に通ることを促す視線と気遣いは、彼のファン(たしかファン倶楽部があると聞いた)からすれば黄色い声を上げるようなものなのだろうが、私は少し居心地が悪い。


「ありがと」

「どういたしまして」


ずっと笑ってて、疲れないのかな。そんな問いはたぶん一生この人に聞くことはない。私の隣をすり抜けたその大きな体は早朝だというのにすでに制汗剤のにおいがした。きっと朝練を終えたばかりなのだろう。通り過ぎたその人を僅かに視界の端で追うと廊下の向こうで隣のクラスの岩泉くんの怒声が聞こえた。あの二人、ずいぶん仲がいいなあとぼんやり思う。そんな私にかかる友人からの「おはよう」の言葉に私の思考はすぐに及川くんへの興味を置き去りにした。










その日は夕方から雨が降ると朝のニュースで天気予報士が告げていた。昼休み、教室から見上げた窓の外の空は今にも雷を連れてきそうな曇天で、湿気を孕んだ生ぬるい風が期末考査を目前にした生徒たちの鬱屈とした胸の内を煽るようだった。
弁当箱のナフキンをほどき、蓋を開けると顔を出すのは特別代わり映えのしないおかずたち。けれども彩りの良いそれらは栄養バランスを考えられていて、小さな小さな箱の中にせっせと毎朝詰める母親を思うとやっぱり残さずに食べたくなる。そんな三年間の母親の苦労ももうすぐ終わる。夏を目前にして高校生活の過ぎ去る早さに今さら困惑するように私たちの心は晴れなかった。


「ねえ、聞いた?男バレ、今年は全国行けないって」

「えっ、だって……及川くん、今年最後なのに」


その日の教室の話題はそんなことで持ち切りで、「及川くん」その名前を出す直前に伺うように周囲を見回した友人の視線に、そんなに気にするなら話題にしなければいいのに、なんてことを思ってしまう。
彼女が心配する当の本人は今この教室にはいなかった。大方例の隣のクラスの幼なじみ(らしい)や部活のメンバーとお昼ごはんでも食べているのだろう。

クラスのみんなが及川くんを応援していた気持ちは本当だろう。けれどその誰もが彼に直接訊ねることもなく、残念だ、かわいそう、最後なのに、とささめくその空気はまるでこの梅雨の季節の鬱陶しさとおんなじで、かと言って何を言うでもない自分自身にもまた苛々が募っていった。


「なにそれうまそう一個ちょうだい」


「………デザートのスイートポテト……って一個しかないのに一個って」


別にいいけど、その返事とともに(冷凍の)スイートポテトは遠慮もなく背後から伸びた大きくてきれいな手にさらわれる。周りの友人たちは突然の話題の中心人物の登場に、それよりもやはり目立つ存在であるその人、及川くんの登場に彼の名前を呼ぶ声がワントーン上がる。
あ、うま。どうやらたった一個の私のデザートは無事に彼を満足させたようで、そんな及川くんはたったそれだけの出来事が終了するとお礼を言ってこの場を立ち去った。再び教室を出ていく後ろ姿を見送るとその手にはジャージが握られていた。まさか今から自主練でもするのだろうか。男バレのみんなと。全国大会、今年は行けないっていうのに。


なんだかその姿がムカついて、呑気に盛り上がる友人たちも、クラスの同情的な視線や声も。少しくらいうるせえんだよって、声を荒げるところを見せてくれてもいいのになんて、ただの一介のクラスメイトがとんだ見当違いのことを思った。









天気予報士の予報はまんまと的中し、下校時刻にはタイミング良く、または悪く雨が振り始めた。その雨脚は次第に強まり、みんなそれぞれ部活やバイトや家路へ着くために教室を後にした。雷鳴の間隔が徐々に短くなってきている。
雨音に混じってシャープペンシルが文字を羅列する音がする。黒板の前では大きな背中がするすると左右を行き来し、板書された英文は上から徐々に消えていった。偶然にもこの日私は及川くんと日直の当番だった。背の高い彼が黒板を消して、その傍らで私が学級日誌を書く。たったそれだけのこと。けれど雨の音が満ちた誰もいない放課後の教室は案外居心地が良かった。それは普段お喋りな彼が珍しくも静かであることも要因の一つかもしれない。



「あとどのくらい残ってる?」

「…うーん、三分の一くらい。もしかして部活ある?」

「いや、引退したよー県代表戦敗退したし」

「そう」


「もしかして慰めてくれる?」


「……なにそれ」


前言撤回。黒板は再びまっさらなグリーン(という言葉はおかしいが)へと戻り、そんなことをのたまう及川くんはやはりあのいつもの笑顔でこちらへとやって来て私の前の席に座った。向かい合って、初めて間近で見たその人はやっぱり整った顔立ちをしていて、これは女の子たちが騒ぐのも無理はないと思わせる。
けれどもその表情や、彼が嘯く言葉はいつも私の心を波立てる。慰めてくれだなんて、そんな心にもないことを言わないでほしい。彼が周囲へ見せる笑顔や気遣いは本物なのだろうが、たぶん彼の本当の興味はどこにもない。彼が怒りや嫉妬や涙や、本音をぶつけるのはきっとバレーボールだけなのだ。



「………私、及川くんのそういう飄々としたとこ苦手だ」

「あはは、そうだと思ってた」

「及川くんって結構いい性格してるよね」


「え?ありがとう」

「褒めてないよわかってるでしょ」



シャープペンシルの動きは止まらない。雨脚は盛りを過ぎて徐々に弱まっている。雷雲は風の強さに早足で頭上を通り過ぎてゆき、この日常から切り取られたような時間にも終わりが近づいている。この教室で過ごすことも、友人と弁当を食べることも。ふとすれ違うときに感じる制汗剤や、時折り汗のにおい。目の前のこの掴みどころのない男が見せるバレーボールへの真摯な表情。
それらが私の日常の片隅にないということに、ほんの少しの寂しさを感じる。けれど特別私がこの男を引き止めることに意味を感じない。伝える言葉もない。それはたぶん及川くんも同じだろう。だったらこの晴れ間にある一時の激しい雨のような一瞬の感情をなんと呼べばいいのだろう。


「……あ、雨やんだね」

「うん。私も日誌終わった」

「じゃ俺出してくるよ。職員室の前通るし」

「ありがと。それじゃ」

「また明日」

「うん」


雲の切れ間から太陽の光が差し込んで、さきほどの雨が嘘のように校庭の水たまりを照らす。窓の外では下校途中の生徒たちが差していた傘をたたみ、吹き込んだ風はほんの少し夏の青葉のにおいがした。


私が書いた学級日誌を持って教室を後にした及川くんの背中を追うように、入口の方、視線を寄越して少しの間、誰もいない放課後の教室にぼんやりと立ち尽くした。それから及川くんがどこか海外へ留学すると風の噂で聞いたのは三年の終わり頃だった。その約十年後にまさかオリンピックの舞台で、それもまさか相手チームのセッターとして彼の姿を再び見ることになるとは思いもしなかった。
けれど、梅雨と夏の狭間に、雨が降ると今でも彼のことを思い出してしまう。






夕立ち


15052022
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夢の通い路