午前9時の特別でありふれた朝


聴き慣れたアラーム音に起こされる朝、布団から少しだけ出た肌がひやりとした空気を感じ取る。ふるりと小さく肩を震わせて、毛布と掛け布団を手繰り寄せた。寒い。休みだしもうちょっと寝てようかな。あーでもいい加減起きないと、行きたかったパン屋さんのパン売り切れちゃいそうだなぁ。そういえば昨日の夜洗濯機回してないや。外は寒そうだしどうせ乾かないだろうから浴室に干しちゃおう。目を閉じたまま、布団の中で縮こまりながらそんなことを考えていると再びアラームが鳴った。つい寝過ぎてしまうから休みの日でも10分おきに設定しているアラームを止めて、もう10分も経ったのか、とスマホの時計をまだ完全には開ききらない目で見つめる。今のわたしは世界一不細工な顔をしていると思う。

「さむ…」
「あ、ごめん」

隣で眠る千冬くんの背中が布団から出ていた。多分わたしがさっき引っ張ったからだろう。布団をかけ直すと、中でもぞもぞと温かい手が動き出す。するりとパジャマの中に入り込んでお腹の辺りをさわさわと撫でる手に「こら、だめだよ」なんて言ってみる。するのはだめじゃないけどパン屋は行きたい。

「んー…うん」
「あっ、もう、だめだってば」
「名前さんなんでブラしてないの」
「誰かさんが脱がせたからでしょ」
「ふ、誘ったのはそっちじゃん」

寝ぼけているのかいないのか、ふにゃふにゃしたまま喋る千冬くんが小さく笑う。布団の中で向かい合って、「おはよ」って言って軽く唇に触れるだけの口付けを落とされる。甘い空気に朝から胃もたれしそうだ。背中を上から下へと行ったり来たりしていた手のひらがやわやわと膨らみを揉んで、甘い刺激にうっかり流されそうになる。

「お腹空いたし、パン屋さん行きたいからもうおしまい」
「あとちょっとだけ」
「ふふ、なにそれ」

手の動きを止めて、腰に回した腕でぎゅうっと抱きしめられる。このまま二度寝したくなるのをどうにか我慢して、「続きはまたあとで」と暖かい腕の中から抜け出した。


「パン屋行くだけなのに化粧すんの?」
「うん、5分で終わらす」
「すっぴんかわいいのに」
「そんなこと言うの千冬くんだけだよ」

わたしよりあとに布団から出てきたくせに既に出かける準備を済ませた千冬くんがソファの後ろから話しかけてくる。いつもよりかなり手抜きのメイクをして、去年買ったお気に入りのニットとよく履いている黒のタイトスカートを合わせた。その上から今年買ったばかりのベージュのチェスターコートを羽織る。履き慣れたスニーカーに足を入れて、お財布とスマホしか入らない小さなカバンを持って家を出た。

「そのコート初めて見た」
「この前ぽちっとしちゃった」

へーかわいい、と言って首元にはいつも使っているストールを巻いてくれた。玄関の扉を開けるときんと冷えた風が晒された肌を撫でる。寒い寒いと言いながらじゃれつくように千冬くんと手を繋いでパン屋さんまでの5分を歩く。たった5分、されど5分。真夏と真冬はこのちょっとの距離が果てしなく遠く感じる。ついこの前まで近くのお家の庭の金木犀から甘い香りがするなぁと思っていたのに。すぅっと息を吸い込むと、冷たい空気が身体の中に流れ込んできて冬の匂いが鼻を掠めた。隣を歩く千冬くんが鼻をすんと鳴らし「冬の匂いがする」と言って「わたしも思った」と返すと、「真似すんなよ」なんて言いながらも繋いだ手にきゅっと力が込められた。

冬の匂いをかき消すような香ばしいかおりが漂う小さなパン屋の、可愛らしい青い扉をくぐる。あまり広いとは言えないお店の中はもうお客さんでいっぱいだった。今日のお目当ては焼きたてのカレーパン。いつも通りならこれぐらいの時間に焼き上がるはず。まだ残っていたらカスタードクリームたっぷりのフルーツデニッシュと、なにかサンドイッチも買いたい。でもあんまり買いすぎるとお昼ご飯入らなくなりそうだなぁ。あ、カフェオレもテイクアウトしよう。そんなことを考えながら店内を見回していると、千冬くんが焼きたてでーすと言って運ばれてきたカレーパンをふたつトレーに乗せた。

「名前さん、これでしょ」
「よく分かったね」
「いつも買ってるし」
「ふふ」
「なに?」
「んーん、千冬くんはこれでしょ?」

こんななんでもないやりとりに、胸の奥がそわそわと擽ったくなる。希望通りのものを買って、カフェオレと、暖かい千冬くんの手に片手ずつ塞がれる帰り道。陽が出てきたからか、さっきよりも冬の朝の張り詰めた空気がいくらか解けたように感じる。やっぱり洗濯物は外に出そう。

ただいま、と玄関を開けると、南向きのリビングはすっかり明るくなっていた。テイクアウトしたカフェオレも熱すぎずぬるすぎずちょうど良い温度。小さなダイニングテーブルに向かい合って、買ってきたばかりのパンを袋からお皿へと移した。「千冬くんの塩パンひとくちちょーだい」と言えば「ん、」と差し出されたそれに齧り付く。

「ん、おいしい」
「俺ここの塩パン好き」
「知ってる」

わたしは大きな口でパンに齧り付く千冬くんが好き、とはさすがに恥ずかしいから言わないけど。「カフェオレ冷めた?」と聞かれてもぐもぐと口を動かしたまま小さく頷く。わたしの近くに置かれていたカップを手に取ると「もう半分もないじゃん」なんて言いながらそれに口をつけた。

「今日どっか行きたいとこある?」
「えー買い物」
「それ以外で」
「じゃあ映画」

最近始まったやつ観たい、と言えばすいすいとスマホの上に指先を滑らせて上映時間を調べてくれているらしい。その様子を眺めながら、フルーツデニッシュに手を伸ばした。

「昼からの予約しちゃっていい?」
「いいけど、午前中はもう予約埋まってた?」
「そんなことはないけど」
「けど?」
「さっきの続き」
「え?」
「続きはまたあとでって、名前さんが言ったんじゃん」

思わずごくんと飲み込んだデニッシュが喉につかえる。すっかりぬるくなったカフェオレでそれを流し込むと、「腹一杯になった?」と口元に手が伸びてくる。口の端についたクリームを指先で拭って、それをぺろりと舐める様子を思わずじっと見つめてしまった。「あま」と顔を顰めた千冬くんが「洗濯機回してくるから早くそれ食べちゃって」と席を立った。こういうストレートなところが千冬くんの良いところであり、悪いところでもあると思う。もう何年も一緒にいるのに、どれだけ経っても心臓に悪い。

「…布団冷たいのやだからあっためといて」
「ふは、りょーかい」

照れ隠しに投げつけた言葉には笑って返されて、余計に恥ずかしくなった。デニッシュを食べ終えて、冷たくなり始めたカフェオレをひとくち。ふぅ、と吐き出した息がほんの少し震える。もうそういうことに緊張するような間柄でもないくせに。そろそろと寝室へ向かい扉を開けると、ベッドの上で寝そべりながらスマホを見ていた千冬くんがこちらに気付いた。布団を捲り、「名前さん、おいで」と自分の隣をぽんぽんと叩いた。おいでって、ずるいよなぁ。抗える気がしない。暖かくなり始めた布団の中にするりと潜り込む。体温の高い千冬くんの身体が心地良い。

「映画の前にどっか飯行く?」
「んー、食べたいものあるの?」
「グラコロ」
「それなら普通にグラタン食べたいな」

ぽかぽかと暖かい室温と、カーテンの隙間から差し込む陽の光。のんびりとした会話は、今からそういうことをするような雰囲気には到底なりそうもない。やっぱりしないのかな、と思うと途端に眠気が襲ってくる。このまま昼までだらだらするのもいいかも。「ねむそ」と笑う千冬くんの指先が目元を撫でた。

「このまま寝ちゃいたい」
「だめ」
「んっ、ぁ」
「カフェオレの味がする」

角度を変えて何度か触れる唇とするりとニットの中に入ってきた手に、さっきまでののんびりした空気が徐々に甘いものに変わっていく。名前さん、と甘えるような声を出されると胸がきゅうっとなって、思わずそのふわふわの髪に手を伸ばした。

「俺このニット好き」
「いつもすぐ脱がすくせに」
「うん」

こっちのスカートは脱がしやすいからあんまり、なんて冗談ぽく笑いながら続けた千冬くんの頭を「こら」と小突く。やっぱりそういう空気にはなりきらない休日の午前10時。身体はもうすっかりその気だけど、あんまり煽ると映画を観に行けなさそうだなと思ってやめておいた。
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夢の通い路