猫箱の中身


「猫箱って、ご存知ですか」

戦争が終わって初めて故郷に帰ったその日、戦地で病死した弟の骨の一部を持って名前の元を訪れた。親族ではないけれど、きっといずれは義妹になっていたはずの彼女も弟の帰りを待っていると思ったのだ。

藤次郎のそれを見て、彼女はさめざめと泣くのだろうか。それとも涙をぐっと堪えた顔で気丈に振舞ってみせるのか。そのどちらも容易に想像ができた。その時俺は何と言ってやればいいのだろうと、いくつかそれらしい言葉を用意してなまえの前に立ったのだが、しかし彼女は顔色ひとつ変えずにただ冒頭の言葉を落としたのだった。それも、遺骨を丁寧に包んだその小さな布をちらりとも開けることなく。

「猫箱? ……猫の寝床、か?」

世間話をするような至っていつも通りの名前に少々面食らいながら、なんとかその問い掛けに答える。なんだっていま猫の話なんか、とは思っても口にするのは憚られた。

俺の答えに名前は「はずれです」といたずらっぽく笑った。幼馴染の、それも恋人の遺骨を手にした者の表情とは思えないほど自然な笑みだった。弟が死んだのに何も思わないのか。彼女の笑みを前に、途端に心がささくれ出す。

「お寺さんが教えてくれたんです。不安な時は、曖昧にしてしまえばいいって」
「……?」
「箱の中に、猫と毒を一緒に入れるんだそうです。毒が効けば猫は死ぬし、効かなければ生きている。箱を開けるまでは、猫の生死は分からないんです」

「ねぇ、杢太郎さん」名前の視線が手元の布に移る。

「この布を開かなければ、藤次郎さんの生死は分からないままなんですよ」

ざわついていた胸がみるみる落ち着いていく。そうして今度は無性に虚しくなった。確かに死んだはずの藤次郎は、彼女の中でだけその生死が曖昧になるのだ。

「そうか……そうだな」

俺はこの目で遺体を確かに見たんだぜ。そんなことは言えるはずもなかった。だって彼女のそれを否定したが最後、本当に弟が死んでしまうような気がしたのだ。



深々と雪の降り積もる中、地面を覆ったばかりの白の絨毯を踏み締める。一歩踏み出す毎に茶色く濁る足元は、北海道の積雪に比べれば随分とましであることを知らしめた。しかし雪は雪でしかなくて、この程度であろうと好きにはなれないし慣れもしない。いくつになっても冬は嫌いなままだ。早く春が来ればいいのにと、煙草の煙に見紛う息を吐く。

雪が溶けて染み込んだせいで靴はすっかり濡れそぼり、足先から着実に体温を奪っていく。もうつま先の辺りなんかは殆ど感覚がないし、手袋の中だって同様である。

「あーっ寒ィ!」

ようやく目的の家に辿り着いて、肩に積もった雪を払うのもそこそこに、少々建付けの悪い引き戸を力任せに開く。ガタガタと激しい音がしたのを合図に、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「まぁまぁ、寒かったでしょう。早く上がってください」
「これ、お袋から」
「わぁ、こんなに」

差し出された手拭いの代わりに風呂敷いっぱいに包まれた蜜柑を手渡せば、名前の表情がぱっと明るくなった。「なまえちゃんに」と託されたその蜜柑は、近所の人から山のように貰った中でもいっとう綺麗なものをと母自らが選り分けたものだ。母にとって名前はもはや娘も同然なのだ。だからこそたまの帰郷の時でさえ「なまえちゃんのところにも顔出しておきなさい」とこうして送り出されるのである。

「温かいお茶、淹れてきますね」

そう言って台所へ向かった名前に「悪いな」と一言返して、居間の隅に置かれた火鉢の前を陣取った。すっかりかじかんだ手を焔にかざすとじんとした痛みが走る。そうしてぱちぱちと手元で爆ぜる炭の音を聞きながらちらりと飾り棚の方を見れば、十年前に渡した布の包みが、渡した時の姿のままそこに鎮座していた。

十年経っても尚、名前の中で藤次郎の生死は不明なままだ。あくまで彼女の中だけに存在するその尺度を、正そうと思ったことは一度もない。だって本来彼女の心を守るためのそれは、俺にとっても救いであったのだ。

実家の仏壇に飾られた弟の遺影は、否応なくその事実を突き付ける。しかし彼女と二人でいる時だけは、弟の生死はあやふやになるのだ。それは雪が全てを覆い尽くして、何もかもの境界を曖昧にする様によく似ていた。



「あの、ちょっと出てきてもいいですか」

身体も十分に温まり、二人で蜜柑を食べながら談笑している時だった。名前が遠慮がちに「実は灯油がなくなりそうで」と苦笑った。なんでも、十分蓄えがあると思っていた灯油が実は殆ど底を尽きそうなことに今朝気付いたのだという。

「急いで買ってくるので少しの間留守を頼めますか?」
「そういうことなら俺が行く」
「そんな、流石に悪いです」
「何のために顔出したんだってお袋にどやされちまう。それに、雪道なら俺の方が慣れてる」

名前は困った顔でうんうん考えたのち「では一緒に行きましょう」と言った。そして帰りに団子屋にでも寄って帰ろう、と。何もこんな寒い日にわざわざ、とは思ったが、久方ぶりに聞いた団子屋の名前に少しばかり気持ちが揺らいでしまう。まぁどうせこのままではお互い譲らないだろうし、存外良い案かもしれない。そう思って結局は二人一緒に家を出ることになった。

「すみません、昨日の内に気付いていれば良かったのに」
「いいんだよ、こういう時のために顔出してんだから。女の一人暮らしは何かと苦労も多いだろう」
「ふふ、近所の方に良くしてもらっているのでそうでもないですよ。杢太郎さんのお母さんには特に」
「昔から世話焼きなんだよ」

言葉が可視化するみたいに、喋る度に口から白い息が漏れる。生乾きだった靴は再びぐっしょり濡れて気持ちが悪い。凍てついた空気に晒された耳たぶはキンと痛みを訴えた。それでも彼女の家に向かう時より幾らかましに思えるのは、こうして喋りながら歩くことで気が紛れるからだろうか。

そんな事を考えながらひたすらに歩を進めていれば、隣から突然「ひゃっ」と小さな悲鳴が上がった。

「おっと、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。すみません」

足を踏み出した先が凍っていたのか、つるんとすっ転びそうになった彼女を咄嗟にその手を掴んで支える。どうにか持ち堪えた彼女が「びっくりしたぁ」と安堵の息を吐いた。

「気ぃつけろよ」
「……ありがとうございます」

ただ、なんとなく。ここで手を離すのは違う気がして、繋いだ手をそのままに歩き出す。少しだけ妙な空気が漂って、しかしそれには気づかない振りをした。どうせこの分厚い手袋とかじかんだ掌では、繋いだ感覚などないに等しいのだから。どうにも足元の覚束ない彼女を支える以上の意味など持ち得るはずもない。

しかしいい大人が手を繋いで歩くだなんてやはり不自然でしかなくて、おかしな空気は一向に離散しなかった。それを誤魔化すように、というより勘違いするなと言い聞かせるように、とある話題を口にする。

「お袋、あんたに変なこと言ってないか」
「……変なこと?」
「帰る度に言われるんだよ。嫁に貰ってやれって」

藤次郎が死に、日清戦争が終わり、日露戦争が終わってもまだ彼女は独身のままだ。それはきっと、彼女の中で藤次郎の死が確定していないから。俺の母親はそんな彼女を哀れに思って、藤次郎の代わりになってやれと俺に言うのだ。まぁ、未だ結婚の気配がない俺に痺れを切らしていることもあるのだろうが。

「……ええ、そういう話は何度か」
「勝手に言ってるだけだから、悪いが上手いこと躱しといてくれ」

返事のない彼女を振り返って「頼むぜ」と念を押す。視線の先で、頭と肩に雪を纏わせた彼女がはっと白い息を吐いた。

「杢太郎さん、私は―――
「なまえ」

彼女の言葉を遮って、「その先は言うなよ」と視線を逸らし再び前を向く。

「歳とると臆病になっちまうもんだな」
「…………」
「不安な時は曖昧にしてしまえばいい……あんたが教えてくれたんだぜ」

果たして勘違いするなと言い聞かせたのは彼女に対してか、それとも自分自身に対してか。そんなことも全部ひっくるめて曖昧にしてしまえばいい。歳をとると臆病になると同時にずる賢くもなるのだから。



どうして今になって、あの時のことが頭に思い浮かぶのだろう。

「これが何かわかるな? 菊田特務曹長」

見覚えのある小さな紙を手にした死神が、光のない目で俺を射抜く。撃たれた腹は焼けるような痛みを放ち、自らの失敗が死神の鎌となってそこを抉っているようだった。否、それはいずれ俺の頸に宛てがわれるのだろう。確かな死がすぐそこまで迫っていた。

どくどくと流れ出る血液は着実に思考力を奪って行き、強烈な睡魔に襲われるように意識が遠くなっていく。掠れていく視界の中に、彼女の姿が見えた気がした。

俺の死が中央に伝わるのを遅らせるために、きっと死体はどこか山奥に埋められるか海にでも沈められるのだろう。藤次郎の時と違って、俺は骨のひとつも残らない。とんだ親不孝者である。

そして骨と言えば―――自然と思い浮かぶのは飾り棚の一番上、そこに鎮座するあの小さな白い布。

嗚呼、きっと俺も弟のように猫箱の中に入れられてしまうのだろう。口を開けて手招きするその箱が迫り来る今、強烈な拒否感を覚える。生死を曖昧にされるということはつまり、死の間際にこうして彼女を思ったことすらないものにされてしまうのだ。

しかし俺には拒む権利などない。だって彼女が藤次郎の死をそうしたように、自分も彼女の想いを箱の中に仕舞い込んでしまったのだから。

杢太郎さん、私は───

あの続きを聞いておけば良かったと、今更箱の中身が気になって仕方がない。あの時赤く染まっていた彼女の頬は、凍てつくような寒さのせいだったのか、それとも。
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夢の通い路