曖昧を楽しんで


「ねぇ、あれから松川さんとどうなったの」

勤務終了後の女子更衣室にて、名前がロッカーから自身の鞄を取り出した所で隣にいた同僚が声を掛けてきた。その顔にはにやにやと言って差し支えない笑みが浮かんでいる。

「……どうって、何も」
「えーうっそ、2人で帰っといてそれはないでしょ」
「本当に何もなかったんだってば」

昨日は社内の数人で飲み会だった。週の半ばに開催されたということもあり、一次会の解散は早かった。とは言え殆どのメンバーはそのまま二次会に向かったのだけれど。帰ったのは「明日朝早いから」とその日残った仕事を翌日に回した名前と、「じゃあ送っていこうかな」と言い出した松川だけである。

そこにいたメンバーがそわりと一種のむず痒さのようなものを覚えたのは言うまでもない。いい歳した男女が飲み会後に2人になるだなんて、つまりはそういうこと、だから。わざわざ口にする者は誰もいないけれど、お誘いを受けた名前もその微妙な空気の変化には目敏く気付いた。そして少し、期待した。何せ松川のことはずっと良いなと思っていたのだ。好き、というと違う。良いな、と言うのがぴったりの感情である。

しかし先程述べた通り、何もなかった。見事に何も起こらなかったのだ。あけすけに言えばホテルへのお誘いも、「2人で飲み直そう」なんて言葉も、日を改めての約束すらもなかった。ただ駅まで送られて「じゃ、気をつけて」と手を振られただけ。

どうやら本当に、純粋に、帰りたかっただけらしい。と、名前は駅のホームでぽつんと一人理解した。とんだ肩透かしである。これはあれだ、全くの脈ナシらしい。はぁ、とどこか惨めな気持ちになりながら深いため息をついたのが、昨日の飲み会の結末。

「えー、おもしろくなーい。恋バナ聞きたかったー」
「これさ、変な噂だけ立つっていう最悪のパターンだよね」
「二次会はその話で盛り上がったよ」
「ほらもうやだ!」

バタンッと勢いよくロッカーを閉めた名前が「帰る」と一言呟いて踵を返す。その背中に「あ、傘忘れないようにね」という声が掛かる。更衣室を出る直前に扉横の傘立てから自分の傘を引っ掴んで、それからドアノブを捻った。この更衣室は2階にある。下まで降りて傘を忘れたことに気付いてまた戻る、というのはよく彼女がやらかしていることだ。ちなみに取りに戻らず置き傘と化したものがロッカーに2本あるのはまた別の話である。



階段を降りて外へと続く自動ドアを潜れば、外はザアザアと雨が降りしきっていた。今日は昼からずっとこの調子だ。名前はいつもより広がっている自身の髪を何度か撫で付けてから、バサリと傘を開いた。コンビニで売られている何の色気もない半透明のビニール傘である。本当は可愛らしい傘が欲しいと思うけれども、すぐに失くしてしまう悪癖が治らない限りは買う気になれなかった。

「お、今帰り?昨日はお疲れさん」

ふと掛けられた言葉に振り向けば、そこには松川の姿があった。若干の気まずさを感じつつ、名前は軽い会釈と共に「お疲れ様です」と返す。

「昨日はありがとうございました。駅まで送ってもらって」
「いやいや、俺も帰りたかったしむしろありがたかったわ」
「あの後3時まで飲んでたらしいですよ」
「うわ、やっぱ帰って正解だった」

「若いなー」と眉を下げて笑う松川に、名前は少しどきりとして咄嗟に視線を外した。当たり前だが、彼はいつも通りだ。自分だけが妙に意識してしまっている。このままでは不自然に会話が途切れてしまいそうな気がして、慌てて話題を探した。

「……か、傘」
「ん?」
「傘、ないんですか?」

名前の差している傘はパラパラと雨を弾く音を奏でている。松川はまだ屋根の下で、その手元には鞄があるだけで傘はない。

「何、入れてくれんの?」

にやり。からかうような笑みに名前は傘の柄を握る手にぎゅっと力を込める。彼のこういうところが"良いな"と思っていたのだ。まぁ、もう望みはなくなってしまったのだけれど。

「……駅までなら」
「お、まじ?さんきゅ」

松川は名前の傘の中に入ると、彼女の手からするりと傘を抜き取った。「ん、行こ」彼の顔がさっきよりも近くにあって、至近距離で見下ろされて、身長差なんか意識してしまったりなんかして。名前は「はい」と返事して歩き出すだけで精一杯だった。そうして2人同じ歩調で歩き出して、向かい合って会話するより幾分かマシかもしれない、なんてことを考える。ただ、左肩が彼の右肩にぶつからないよう気をつけなければならないけれど。なんというか、ぶつかったが最後変な声を上げてしまいそうだった。つまり、名前はそれくらい色んな意味でぎりぎりなのである。

だけど彼女も負けてばかりではない。「更衣室行ったら傘ありますよ」そう言ってやらなかったのは明確な下心によるものだ。自分で自分の首を締めた気がするのは、今は置いておくとして。

「苗字さ、彼氏できたりしてない?」
「えっ、できてない……ですけど、なんでですか」
「や、昨日送ったのマズかったかなーって、家帰ってから気付いた。ほら、彼氏と駅で合流とかさ」
「あぁ、そういう……」

松川という男は、実にずるい男である。ネットや雑誌に書いてあるような「脈ありサイン」を至る所で見せてくるのだ。例えば飲み会で隣に座ってくるだとか、こうして傘の中に入ってくるだとか、彼氏の有無を聞いてくるだとか。

決して昨日今日の話だけではない。自販機の前で出くわせばコーヒーを奢ってくれたり、ちょっとしたお菓子を分けてくれたり、自分の好物を覚えていてくれたり。ひとつひとつは大したことがなくても、塵も積もればなんとやら。流石に気になってしまうというものである。それでいて本人に全くその気がないというのだから、とんでもない奴である。思わせぶりにも程がある。これが女性に対するアプローチではないなら一体なんなんだ。妹か。

名前は脳内に突如浮かんだ「妹」のワードがやけにしっくりきてしまい、がくりと肩を落とした。こちらに関しても思い当たる節は大いにあった。それもこれも何かと抜けまくっていてドジを踏む自分のせいである。

「珍しく一次会で帰るとか言い出すし」
「ほんとに仕事ですよ、仕事。今日2時間も早く来たんですから。昨日全然仕事終わんなくて、無理やり飲み会行っちゃったもんで」
「珍しい、いつも始業ぎりぎりなのに」
「……いつも5分前には来てます」
「ファンデしかしてなーい!って言いながら?」
「あっ、アイブロウもしてます!」

松川は「すげー必死」と肩を震わせて笑った。からかわれた、と名前はムッとして松川を見る。そして再び距離の近さを自覚して、すぐに前を向き直した。もう駅はすぐそこだ。

「あ、コンビニ寄りますか?」

駅前のコンビニを通りかかって名前がはたと歩みを止めると、それに合わせて松川も立ち止まった。そして「いや、いいよ」とコンビニを素通りしようとした松川に釣られてなまえも歩き出す。

「え、でも傘……タクシーで帰るんですか?」

松川の家はこの駅から徒歩十五分くらい、と前に聞いたことがある。それくらいであれば初乗りでいけそうだとは思うけれども。

「まさか。金が勿体ねー」
「ですよね。……えっ、もしかして彼女さんとか!?」

さっきの会話はこのためのフリだったのだろうか。なんて思った所で松川が「ちげーよ」と自身の鞄をごそごそと漁り始めた。そこから取り出したのは、真っ黒な折り畳み傘。

「…………は、はぁ!?」
「これあるから大丈夫」
「いや、え、傘ないって……」
「ないとは言ってねーよ。入れてくれんの?って聞いただけ」

騙された。名前は信じられないとでも言うような目で松川をまじまじと見つめた。その当の本人はいたずらが成功したような顔で笑っている。これはあれだ、酔い潰れた同僚の寝顔を本人のスマホで連写している時と同じ顔である。

「入れてくれてありがとな」
「……どーいたしまして」
「すげー怒ってんじゃん」
「怒ってません」

駅の屋根の下に辿り着くと、松川は差していた傘を傾けた。通行人達との間に半透明の薄い壁ができて、2人が僅かに切り離される。

「あ、髪。うねってる」

松川は持っていた鞄を傘を持つ手に移すと「ここ」と名前の前髪を掬いとった。

「……雨の日はそうなるんですよ。何しても治らなくて」
「分かる。俺も天パのうねりが2割増しになる」
「…………2割増し」
「3割かも」
「いやどうでもいいですけど」

ていうか手退けてください、そう言えないのは何故なのか。思っていたより大きな彼の手にどきりとしてしまったからかもしれない。松川の手が1回、2回となまえの前髪を撫で付けて、3回目で目を覆われた。

「えっ」

と急に視界を奪われたことに驚いて声を漏らしたと同時に、頬に感じる確かな熱。ちゅ、というリップ音がやけに耳に響いた。

「え、……え?」
「じゃ、気をつけて」

戸惑う名前を他所に、松川は折り畳み傘をさっさと開いてそのまま雨の中へと足を1歩踏み出した。「また明日」と軽く手を上げる彼は、やっぱりいつも通りの彼で。
名前は呆然とその背中を見送って、頬に宿る微熱を手で覆うことしかできなかった。

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夢の通い路