それはただ、雨が降っていたから。
声をかけられて振り返ると、その姿が目に飛び込んできた。
「お疲れ、様です」
六月初旬。夕方。天気は雨。降り始めて、もう数日になる。こういうのを走り梅雨っていうんだっけと考えた。しとしとと空気を濡らしている。彼女は、雨が好きだ。
「どうしたん?」
ビニール傘の下、柔らかい声が聞く。チャコールグレーのパンツと、ダンガリーシャツ、中に白いTシャツを着ている。よく似合っていると思った。
「紫陽花が……」
彼女が佇むそのすぐそばに、水色と紫が滲む紫陽花が咲いていた。
「好きで」
雨に溶けてしまいそうな小さな声でそう答える。ビニール傘に隠れて、顔はぼんやりとしている。なのに口元だけは傘から覗いていて、その動きがはっきり見てとれる。石垣の心臓は早鐘を打っていた。
「そうか」
石垣はそれだけ言って、そのまま立ち止まっていた。何をするともなく。
「あの」
「え?」
珍しく彼女から声をかけられ、少々面食らう。
「紫陽花、が、好きなんです」
それは聞いた。彼女なりに会話をひろげようとしているのだとわかる。彼女はいつも、自分の前ではおたおたと落ち着かないのを石垣は気づいていた。
「毒が、あるって聞いたこと、あるかも知れんのですけど」
彼女が、左手で握った傘のハンドルを少し回す。溜まっていた雫が、つるり、と落ちた。
「でも、すごい、育てやすいらしいんです」
言葉が少しずつ滑らかになっていく。覗いた口元と声がほんのり笑みを含んでいる。
「自分を喰らうものには噛みつくけど、愛でる相手には優しくしてくれる強さが好きです」
心臓がまた、大きな音をたてた。こんな静かな雨音など切り裂いてしまいそうだと不安になるほど、大きな音。
「時間が経つと色が変わるから、移り気とか浮気とか、良いイメージのない人もおると思うけど」
今日の彼女は随分と饒舌だ。雨音と一緒に漂うその声。気づくと、石垣は紫陽花よりも彼女ばかり見ていた。
「変わらんもんなんかないから」
傘を握る指がその白いプラスチックを弄んでいる。
「それに抗わんと、しなやかに生きてる紫陽花が好きです」
石垣の顔がカッと熱くなる。
今日、なんでそんなに「好き」って言うんや。
それを聞く度に心臓があの音をたてた。
「色によって」
とにかく彼女の言葉を止めたくて、紫陽花に関する最大限の知識を放り投げる。
「花言葉が、違うんやったっけ」
しまった。言った瞬間そう思った。自らロマンチックな話をふっかけてしまったと思った。今日はなぜか、それをさせる空気がある。
「よう知ったはりますね」
彼女の関西弁は半端だ。大阪の出だが京都の学校に通っていたために京訛りがある。石垣は彼女がたまにふと零す京言葉が懐かしくて、それを聞くと嬉しい。そう言えば、標準語を作った時、京言葉を少し取り入れたんだっけ、なんて関係のないことを考えた。
「ピンクは強い愛情」
彼女の、長靴を履いた足がじりっと地面をすった。
「青は冷淡とか、清澄」
「なんか御堂筋みたいやな」
思わず言うと、彼女はほんまや、と笑った。
「それから紫は、謙虚」
それは山口のようだ。
「あと白は、寛容、と」
彼女が、石垣が聞き慣れた落ち着かない声を取り戻す。少し居心地が悪そうにくぐもる言葉。
「ひたむきな愛情」
そしてまた、あの心臓の音。
「それは」
この、深く考えずに言葉にしてしまう癖はどうにかしたい。
「苗字さんみたいやな」
「え?!」
彼女が勢いよく振り返ると、持っていた傘の先が空を切る。弾かれた水滴が少し、石垣の手と服を濡らす。まるで、そこに触れられたみたいだと思った。初めて目が合う。彼女の目が、石垣の胸を打つ。
「あ」
言わなきゃ良かった。
「あ、ほら、自転車、めっちゃ好きやから」
どうしようもなく、笑って誤魔化した。言い訳の声が上擦る。「好き」なんて、言ってしまった。今日はこの言葉に乱されっぱなしだ。
「あ、はい」
そうとは知らず、彼女はまるで焦がれるように微笑んだ。
石垣は雨が好きではない。それなのに今は、もっと強く降ればいいと思った。鳴り止まない心臓の音を隠して欲しくて。
「石垣さん」
また顔をふせてしまった彼女が、また細くした声で名前を呼ぶ。
「お誕生日、おめでとうございます」
尻すぼみの、なんとも締まらない祝辞だ。
「……知っとったんか」
「ええと、はい」
嬉しい。
そう思ったのと同時に驚いて、ぽかんと開いた口を慌てて閉じる。
「……ありがとう」
石垣は傘を握る手にぐっと力を込めた。
このまま、帰りたくない。
「……今帰り?」
今更ながらに、ありふれた質問を投げかける。こんなの、顔を合わせてすぐに聞くようなことなのに。
「はい」
なにか言わなければ。もう少しだけ、一緒にいられる言い訳。
「家まで、送ってもええかな」
……は?
自分の口から出た、なんとも馬鹿正直な言葉に冷や汗をかく。自分で自分の言葉に、気分が引いた。
いや、もっとなんかあるやろ。帰り道同じ方向やったよな、とか、せめて一緒に帰ろうとか。なんでわざわざ一番ハードル高いやつ選んだんや。
先輩からこんなことを言われたら、嫌でもきっと断れない。ただ家を知りたいだけだと思われたらどうしようか。下心があるとか。自分はもう少し彼女の話を聴きたいだけなのに。いや、それも下心ではあるか。まだ外は明るい。わざわざ送ってやるような時間帯ではない。自分の阿呆さ加減にため息が出た。
「ええと……」
何言ってんねんって思うよな! 俺も思う!
顔から火が出るような心地だ。もう、いたたまれない。今日のところは諦めようかと、思った時だった。
「……はい」
その答えに、当の石垣が驚く。まさかそんな。しかしそれを必死で隠しながら一歩足を踏み出した。
「……そうか」
もう、間抜けすぎて笑い話だと思った。聞き返してやっぱり嫌だと断られるのを避けたくて、黙って歩き出す。彼女はそれに続いた。
濡れた舗装道路。住宅街。早々に点る街灯。傘が触れ合わないほどの微妙な距離。
「……帰ったら、紫陽花のこと調べてみよかなぁ」
石垣が言うと、彼女はすぐに反応した。
「歴史が面白いので、是非」
彼女は、好きなことになると本当によく喋る。高校生の時も、自転車の話なら乗ってくれた。当時から彼女は石垣の前に限ってそわそわとしていた。けれど、自転車の話には、よく乗ってくれた。
「中には、新種に愛人さんの名前をつけようとした学者もいるらしくて」
笑いながら彼女が言う。そんな言葉を彼女が口にすると、随分とセンセーショナルな響きになると思った。
「大胆というか、奔放というか……」
笑いを隠さない。呆れているという感じだろうか。嫌悪ではないと思う。変わらないものなんてない、と言ったのは本音らしい。少し意外だった。
「苗字さんは」
また口が、勝手に動いた。
「好きな人おる?」
「ひぇっ?!」
「え、あ……ごめん、忘れて」
今日はおかしい。雨が自分達を二人きりにしてくれたみたいな気がして、言葉が少し行き過ぎる。沈黙を静かに埋めてくれるから、ただ歩いているだけでも平気なのに。
「あ、あの」
「ん?」
「さっきの……」
彼女に顔を向けると、同時にそらされる。
「白い紫陽花、なんですけど」
傘を両の手でいじりながら、彼女が続ける。こういう時は下手に相槌をうたないほうが話しやすいようだということを石垣は学んでいた。
「私は、石垣さんやなって思ってました」
「え?!」
今度は石垣が大きく取り乱す番だった。
「なんで?!」
彼女が教えてくれた。白い紫陽花の花言葉は「寛容」と「ひたむきな愛情」。
「最後のインターハイ、三日目」
その言葉で、あの暑い日が思い出される。
山中湖の登り。斜めになる視界。遠ざかっていく四枚のゼッケン91。芝生に叩きつけられる体。赤いアンカー。
「石垣さんは、あんなところまで、たった一人で、御堂筋のこと引っ張ってくれました」
してくれた。
彼女はいつもそう言う。まるで一緒に走ったかのような表現をする。石垣はそれが好きだった。
「御堂筋のことも、他のみんなと同じように関わって気にかけて、一生懸命理解しようとしてました」
よう見ててくれてたんやな、と言いかけてやめる。さすがに赤信号が点った。同じ轍は踏まない。
「京都伏見のチームを本当に好きなんやなって、ずっと思ってました」
彼女が立ち止まる。いつの間にかアパートに着いていたらしい。
「だから、あの花言葉知った時に思たんです」
相変わらず目は合わせない。
「石垣さんにぴったりやなって」
そこまで言うと、彼女は同じ方を向いて隣り合わせていた肩を少し内に入れ、顔を隠した。
「……苗字さん」
気づくと手を、肩にかけていた。
「あの」
ヴ──………
石垣のポケットの中で電話がなった。いっそ無視した、いと思ったが観念する。彼女の肩に触れた手を外し溜息をつく。発信者は井原だった。彼女は向こうを向いたままだ。
「……もしもし」
『あ! 石やん? 今大丈夫か?』
大丈夫なわけあるか!
……と言いたいのは我慢した。
「……おう」
『今日誕生日やろ? おめでとう! 辻もおんで!』
良い奴なんだ。井原も辻も。三年間一緒にやってきた。大切に思ってる。離れても誕生日を祝ってくれるなんて本当に嬉しい。
でも!今じゃない!!
如何ともし難い感情が石垣の中でぐるぐる回った。 見ると彼女が彼に振り向いていた。井原の声が届いたのかもしれない。彼女は少し笑って会釈をし、踵を返した。
行ってしまう。
思うより先に、左手が傘をおろして彼女の手首を掴んだ。驚いた彼女がまま振り返り石垣の強い視線を真直ぐに受け止めてしまった。石垣の足元で、開いたまま置かれた傘が拾われるのを待っている。
待って。そう言うように石垣の目が彼女を捉えて離さない。無防備になった髪や肩に雨が降り注いでいる。彼女は咄嗟に、一歩近づき傘を差し出した。石垣の口は電話の相手との会話を続けたまま。彼女は目を逸らして瞬かせる。距離が近い。いつもハンドルを握っている手。掴まれた肌が汗ばんでくる。振りほどけない。
「……ああ、苗字さんとおるけど」
そう言うと途端に井原が慌てだした。
『え?! あ、そっか! ごめん! じゃあ苗字さんによろしく言うといて! ごめん!』
井原は早口にそう言うと、一方的に電話を切った。自分からかけておいて何なんだ。石垣はちょっと呆れて電話をしまった。 気づくと、ひとつの傘の下、石垣は彼女の手首を掴んだままだった。
「あ、ごめん」
そっと離すと彼女は小さく首を降った。雨の中、また二人きりが戻ってくる。
「苗字さん」
石垣はもう、揺れていなかった。
「お祝い、してくれへん?」
いつもの優しい笑顔で彼女を見る。
「今日じゃなくていいから、今度、何かで」
何か? どうやって? いつ? なんで?
今度は彼女の頭をあらゆる疑問が巡ったが、結局、はい、とだけ答えた。
「ありがとう」
そう言って石垣は傘を拾った。
「あ、こっち、使ってください」
彼女が慌てて自分のそれを差し出す。
「中、濡れてもたから」
「……うん」
石垣は傘の柄を握る。どさくさに紛れて、彼女の指の先に短く触れた。
「ちょっ……」
「ありがとうな」
それだけ言って傘を受け取り、石垣はあっさり帰路に着いた。彼女は、その背を見ながら代わりに受け取った傘をさす。内に溜まっていた水滴が、ぽたり、と惚けたままの、彼女の頬を、撫でて落ちた。