きみの瞳を撫でている


 愛しいその名を口にしてみた。


「⋯⋯千冬」


 ちいさく掠れたその声は、この季節のように寂しく聞こえた。紅葉も終わり落ちゆくだけの葉。日に日に冷えていく空気。時折吹く木枯らし。世界が冷たくなっていく気がして、心細い。

 冬になってしまえばまた違うのにな、と思いながら、ベッドの上で静かに眠る千冬の顔を見つめる。

 何度見ても綺麗な顔立ちだ。
 ベッドの傍らに膝をついた体勢のまま、彼の瞼に掛かった前髪をそっと払う。


「千冬」


 今度はもう少しはっきりと呼ぶことができた。しかし千冬は動かない。シーツの上で脱力しきっている彼の手が目に留まり、触れようとした、その時だった。


「⋯⋯何、さっきからオレの名前ばっか呼んで」
「へ、」


 驚いて視線を戻す。さっきまでぴくりとも動かずに閉じていた瞼が開いていた。寝惚けているふうでもなく、しっかりと名前を捉えている。


「わ、え、なに、起きてたの?」
「ん」
「なんで最初に声掛けたときに返事しないの」
「なんか気分じゃなくて」
「気分⋯⋯? なんか今日の千冬変だよ、具合悪いの?」
「や、平気。別に変でもねぇし」


 実は熱でもあるのかと心配になり額に触れようとした手は、さり気なく躱されてしまう。

 こんな千冬は珍しい。


「⋯⋯では問題です。今朝、『今日会えねぇ?』って連絡してきて、『大丈夫だよ』って返信した瞬間にわたしの家のチャイム鳴らして、お互い朝ご飯もまだだっていうのに朝からわたしを抱いて、そのまま電池が切れたみたいに寝ちゃった挙動不審な子は誰でしょう」


 千冬は考えるようにして視線を天井あたりに彷徨わせ、ああ、と再度わたしを見る。


「⋯⋯それオレだわ」
「はい正解です! ね、変でしょ」
「悪りぃ」
「わたしは全然いいんだけど⋯⋯そういえば千冬、わたしのことすごいきつく抱きしめたまま寝ちゃったから、抜け出すの大変だったんだよ。ふふ」
「ハハ、そっか」


 やっぱりなんだか、元気がない。その気の抜けた笑いは何だ。名前は眉根を寄せる。

 ──千冬は、強い。

 何があっても一人で頑張るし、頑張れてしまうのだ。絶対に弱音を吐かず、自分がどんなに辛くても自分が守りたい大切な人のことを一番に考える。信じ抜いて、そして、巻き込もうとしない。

 そんなところが好きだ。尊敬している。憧れてもいる。見合う彼女でいたいと思う。

 しかし同時に、少し寂しくもあるのだ。

 力にはなれないかもしれないが、千冬の憂いに近づかせてほしい。信頼されていないわけではないと思いたいが、ふとした拍子に「わたしってそんなに頼りないかな」と口を衝いてしまいそうになることがある。

 全てを話してほしいわけではない。話したくないのであれば何も聞かない。だからただ、傍に寄り添わせてほしい。

 守られるばかりでいたくないのだ。

 喧嘩もできないし、千冬のような強い心も持ち合わせていないが、それでも。名前だって千冬を守りたい。

 そんな想いを込め、千冬の目尻を撫でる。束の間心地よさそうに目を閉じてから、千冬は柔く名前の手を引いてベッドの上に引き上げた。


「なあ名前、ちょっと」
「わ」


 突然背後から抱え込まれるかたちで千冬に抱きしめられた名前は、首だけを捻って千冬を振り返る。が、うまく身動きが取れず顔を見ることができない。


「⋯⋯千冬?」
「名前はさ、なんでいっつもそんな優しいの」
「⋯⋯え、優しいって誰が」
「? だからオマエだって」
「⋯⋯? 千冬じゃなくて?」
「は? なんでオレ?」


 ワケがわからず、千冬の腕の中で首を傾げる。千冬もワケがわからないようで、名前の後頭部のあたりで首を捻っているようだった。

 そのうち互いに首を傾げているこの状況に耐えられなくなり、どちらともなく笑い出す。


「ハハ、なんだこれ」
「わかんない、笑わせないでよ」


 一頻り笑ったあと、千冬は名前の後頚部に顔をうずめながらぽつぽつと話し始めた。


「オレさ、いっつもは大丈夫なんだ。思い出しても『ソッチでは元気してますか』って笑っていられるし、前を向く力にだって変えられる」
「⋯⋯?」
「でもたまに、どうしようもない気持ちに襲われる時があんだ。それでも今までは大丈夫だった。どうしようもなくても何とかなった。なのにオマエと出会ってからは全然ダメ」
「⋯⋯ごめん」
「や、違くて。その⋯⋯オマエに会いたくなっちまうんだよ。ただ隣にいてくれるだけで、不思議と何とでもなるんだよな」


 名前を抱きしめる腕にきゅ、と力が篭もる。


「⋯⋯今日はさ、命日なんだ。俺の大切な人の。一番の憧れだった」
「⋯⋯そっか、今日だったんだ」


 枕元の棚の上に置かれている電子時計を見上げる。十月三十一日。去年のこの日の千冬は、どんなだっただろう。記憶にない。まだ付き合い始めたばかりだったし、名前には何も悟らせなかったのだろう。


「あとで一緒に来てくれるか?」
「うん」
「⋯⋯どことか聞かねぇで来てくれんの?」
「え? うん。千冬がいてくれるならどこだって行くよ」
「⋯⋯そっか」


 それはお墓なのかもしれないし、想い出の場所なのかもしれないし、千冬のお気に入りの場所なのかもしれない。どこだっていい。

 それよりもただ、千冬が名前に対してそんなふうに思っていてくれたことが嬉しい。胸のあたりが震えている。気を抜くと涙が滲んでしまいそうで、唇に力を込める。


「ペヤング買ってってさ、はんぶんこすんだ」
「ふふ、ペヤング?」


 いつか聞いた話だ。

 千冬には、憧れの人がいるという。中学生の時に亡くなってしまったその人は、千冬にとって本当に大切な人だった。

 彼のことを話す千冬の瞳はいつだって、心からの尊敬にきらきらしていて、信じ難い温もりを湛えていて、そのくせ誰にも触れられないような深い深い寂寥に満ちている。その瞳の深淵を覗くたび、名前は、千冬を抱きしめたくなる。

 千冬は、本当にひたむきだ。


「⋯⋯ところで千冬クン」
「あん?」
「さっきからこの手はなあに?」


 ふにふにと名前の胸を触っている千冬の手を示してみせる。数秒の沈黙。そののちに千冬が口を開く。


「ほんとだ。なんつーかさ、無意識に触っちまうんだよな。触り心地最高だし、なんか落ち着くし」


 けろりと答える千冬を、もう一度身を捩って振り返る。今度は顔を見ることができた。


「落ち着く⋯⋯って、なんか腰のとこに硬いものがあたってるんですけれども」
「ハハハ」


 千冬の腕の中。そのあたたかさに溺れるように、世界の寒さから隠れるように、瞼を閉じた。


 高校生になった千冬のおはなし。千冬にも甘えられる誰かがいたらいいなという願望を詰め込みました。ちょっと言葉足らずがかわいい。


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