迷子の子猫が踊る遊歩道


 新しいバイトの子だから、慣れるまで面倒みてあげてね。

 そう店長に声をかけられ、名前は「はーい」と振り返った。そして固まった。理由はその人物を視界に収めたからに他ならないのだが、だって彼ときたら金髪にピアス、そしてお世辞にも愛想がいいとはいえない目つきなのだ。店のエプロンとのちぐはぐ加減がすごい。その風体に気圧され、もう一度「⋯⋯はい」と今度は神妙に頷く。

 目の前の彼は、しかしはっきりと「松野千冬っス、よろしくお願いします! (たぶん)動物と話せます!」と口にした。

 名前はこの時点で反省した。外見で彼を判断してしまったことを。恐らく雰囲気で彼にもそれが伝わってしまったに違いないのだが、それを意に介さず挨拶をし、そして謎の特技──なのかは不明だが──も憚らずアピール。

 きっとすごく動物が好きで、きっとすごくいい子だ。というかギャップが可愛い。思わず笑みが溢れる。


「え、な、何スか」
「ううん、何でもない。苗字名前です、よろしくね」


 これが名前と千冬の出会いだった。


*

 千冬は要領がよかった。動物の扱いにも慣れており、聞けば「ウチ猫飼ってんスよ。ペケJっつって⋯⋯ほらこれです! 超可愛くないスか?!」と携帯の画面を見せてくれた。しかも大量に。名前も猫を飼っていたのでそこから話が発展し、呆気なく意気投合。人間って中身なんだよなあ、と自戒を込めてしみじみとしているうちに、千冬の数日間の研修はあっという間に終わった。

 そして迎えた正バイト初日のことだ。


「痛っ⋯⋯もう、爪出さないの」
「!」


 名前の言葉に反応した千冬が近寄ってくる。そのエプロン姿にも大分見慣れてきたところだ。


「かっちゃかれたんスか?」
「本人はじゃれてただけなんだけど⋯⋯まだ加減がね」
「傷は?」
「ん? ちょっとだけだよ、大丈夫」
「見せてください」


 有無を言わさず手を取られる。

 ──男の子の手だった。

 これまで千冬を異性として意識していなかった名前の中で、急速にその認識が膨れ上がる。

 どうしよう。心臓が速い。だってこんな、急に。急に男の子にならなくたって。

 どぎまぎと視線を逸らし、数センチばかり足を引く。身体が防御反応を取っていた。これ以上近づくと、名前の中で何かしらの変化が起こってしまいそうだった。


「⋯⋯ほら、ね、大したことないでしょ」
「ダメっスよ! ばい菌入ったら大変だし、綺麗な手なんだからちゃんと手当しないと。救急箱的なのどこですか? コッチ?」


 これまた有無を言わさず手を引かれ、店の奥へと連れて行かれる。強引なくせに、優しい手つきだった。


「あの、松野くん」
「千冬でいーっスよ。その呼ばれ方慣れないんで」
「えっと⋯⋯千冬くん、心配してくれてありがとう。ちゃんと処置するから、仕事戻って──」
「? でもソッチ利き手じゃん。オレやりますから」


 いちいち痛いところをついてくる。咄嗟に切り返すことができない。断る理由を探しているうちに、千冬は棚にあった救急箱を探し当て手際よく準備をし始めた。ここまで来てしまえば諦めるしかないか、と名前は大人しく千冬に従う。

 傷口を流水で丁寧に洗い、清潔なガーゼで水分を拭き、大きめの絆創膏を貼る。流れるような動作だった。


「なんていうかすごく手慣れてるね、手当て」
「あー、まぁ、オレ少し前までやんちゃしてたんで、こんなの日常茶飯事だったんスよね」
「やんちゃ」


 その一言で合点がいった。
 彼から滲み出る全てはその名残りだ。絶対に。間違いない。名前は内心でぶんぶん頷く。


「はい、終わり。どうスか? 痛みます?」
「ううん、ありがとう⋯⋯」


 皺ひとつなく綺麗に貼られた絆創膏を見つめる。怪我をしたはずのその手は、千冬に触れられたことで名前史上最も美しく見えた。

 ああ、だめだ。
 こんなのもう、意識するなと言う方が難しい。

 その後の仕事をどうやって熟したのかは、あまり記憶にない。ただ惰性で動いていたのかもしれない。とにかく気がつくと閉店の時間を過ぎており、着替えを終え、店の前で千冬と話していた。

 千冬は研修期間中は早めに上がっていたので、バイト終了の時間が一緒になるのは今日が初めてだった。

 心臓がうるさい。なんだか真正面から顔を見ることができない。ので、適当に視線を泳がせながら差し障りのない会話をする。

 仰いだ先は春の夜空だ。

 街の灯りで星はほとんど見えない。それでも、微かに朧のかかる綺麗な春夜だと見て取れた。少しだけ、心が穏やかに凪ぐ。細く息を吐き、千冬へと視線を戻す。


「じゃあ、そろそろ帰ろっか。また明日、気をつけて帰ってね」
「は? 何言ってんスか」
「え、シフト間違ってた? 明日だと思ってたけど⋯⋯やば」
「や、シフトは知らねぇけど。当日しか見てねぇし。じゃなくて、何一人で帰ろうとしてんですか?」
「??」


 もしかして記憶がないうちに一緒に帰る約束でもしていたのだろうか。もしそうだとするのなら、先の自分は無意識に何てことをしてくれたんだと思う。

 首を傾げる名前に、千冬はふうと溜め息をついた。この直後、名前の疑念はただの杞憂だったのだと知る。


「こんな時間に女の子がさ、一人で帰るとか危ねぇから」
「あ、そういうことか⋯⋯ふふ、千冬くんは優しいね。大丈夫大丈夫、今まで一回も危なかったことないし」


 胸の前で横に手を振る。名前のその反応に、千冬はぐいっと食いついた。


「ちょ、知らないんスか?! 春の芽吹きとともに変質者も芽吹くんスよ?!」
「え?」


 何を言ってるんだろうこの子は。確かに全国的にそういった傾向はあるのかもしれないが、変質者相手に芽吹くなんて単語を使わないでほしい。もしかすると意外と阿呆の子なのかもしれない。

 そして名前を見つめるこのジト目である。


「な、なに?」
「⋯⋯信じてねぇなその目は」
「そういうわけじゃないけど⋯⋯あはは、千冬くんて可笑しいね」
「全然可笑しくねぇっスよ! ったく人がマジメに話してんのに⋯⋯」
「あはは」


 笑って揺れた髪先が春風に吹かれる。擽ったい。名前は自分の気持ちをはっきりと自覚した。


「ありがとね、でも大丈夫だよ。いっつもこうして一人で帰ってるワケだし、それに違う方向でしょ。千冬くんも早く帰って、ちゃんと学校行くんだよ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯うっす」
「ふふ、沈黙長い」


 後ろ髪を引かれる素振りを見せつつ「⋯⋯じゃあ」と軽い会釈をした千冬に手を振り、踵を返す。

 優しい子だ。

 ぶっきらぼうにも取れる口調でも全然隠せない、根本的な優しさがある。年下なのに随分と出来た子だな、なんてふわふわと考えながら、人が疎らになった帰路の途中の遊歩道を歩いていた、──その瞬間だった。


「──っ?!?!」


 本当に突然のことだった。

 背後に人の気配を感じる間もなく、突然誰かに羽交い締めにされたのだ。「だーれだ」みたいな可愛いノリのそれではない。異様な力も、雰囲気も、息遣いも、その場の何もかもが危険だと告げている。

 逃げなければ。大声を出さなければ。そんなことわかっているのに、できなかった。

 余りにも急な出来事に、頭の中が真っ白になる。焦れば焦るほど、世界の輪郭が目眩のように歪む。そして何よりも、怖かった。嘗てないほどの恐怖に襲われ、全身が竦み震える。耳鳴りのような音しか聞こえない。息をしているのかさえ定かではない。それでも何とかしなければと四肢をばたつかせるが、力が上手く入らない。

 どうしよう。どうなっちゃうんだろう。怖い。どうしよう。そんな単語ばかりが脳裏を飛び交う。その無意味な単語の合間で、不意に先程の言葉が浮かび上がる。


 ──こんな時間に女の子がさ、一人で帰るとか危ねぇから。
 ──春の芽吹きとともに変質者も芽吹くんスよ?!


「っ⋯⋯ち、ふ」


 千冬くん。

 呼んだところでどうなるわけでもないのにそう呼んでしまいかけたのと、──ほぼ同時だった。


「オイテメェ、何してくれてんだコラ!」


 その声とともに、名前を羽交い締めにしていた身体が物凄い速さで剥がれるのが。


「⋯⋯!」


 枷を失いふらつく身体。縺れる足。放っておけば地面に倒れ込んだはずの名前の体躯はしかし、しっかりと抱きとめられる。

 全然ちがう。

 同じ男の人なのに、全然ちがう。筋肉質なくせにやわらかく、守るようにして胸に抱えてくれる。


「⋯⋯千冬くん」
「すんません、遅くなりました。クッソ、やっぱ一緒に帰っときゃよかった」


 千冬により放り投げられたのだと思われる男は、逆上からか拳を振り上げこちらに走ってくる。名前は千冬にしがみつき、ぎゅっと目を閉じた。

 何故ここに千冬がいるのかとか、何故そんな簡単にひっぺがすことができたのかとか、聞きたいことはたくさんある。しかし何よりもまず、目の前の拳が千冬に届かないようにしたかった。

 冷静に考えると名前では千冬の盾になどなれない──その上しがみついていれば却って足手纏いになる──とわかるのだが、何せこの時の名前は冷静ではない。とにかく目の前で千冬が傷つくところを見たくなかった。

 だから、すっかり失念していたのだ。

 千冬が嘗てやんちゃをしていたということも、あんな手当てができるようになるほど数々の喧嘩をしてきたのだということも。


「ヴッ、?!?!」


 きつく目を瞑っていた名前の頭上で、聞いたことのない鈍い音。そしてくぐもった声。どさりと重たい何かが地に落ちるのがわかった。加えて名前に一向に訪れない殴打の衝撃。名前は恐る恐る瞼を持ち上げる。

 持ち上げて、感嘆した。


「⋯⋯⋯⋯わぁ」


 眼前の状況を整理し、最初に発した言葉がこれだった。なんて間の抜けた声だ。

 男は数秒ノビていた直後なのか、顔面中央を抑えながらよったよったと起き上がろうと努めているところだった。そっか。千冬くんって、強いんだなあ。暢気にそんなことを思う。

 とにかく頭がついていかず呆けていると、「ちょっとここにいてください」とそっと身体が離れる。そこでようやく認識する。千冬はずっと名前を抱きしめてくれていたのだ。

 男に近づいた千冬は、やっとの思いで上体を起こした男の胸ぐらを掴んだ。


「オレもう不良ヤンキーじゃねぇからさ、何でもかんでも喧嘩はしねぇつもりだけど⋯⋯正当防衛ってどこまで許されんだろうな?」
「ひ、っ」


 千冬の剣幕に、男の顔色が失われていく。「大した根性もねぇくせに、よくあんなクソみてぇなことできたな」とにじり寄る千冬に、名前はただならぬ気配を感じ慌てて抱きつく。こうでもしなければ止められる気がしなかった。名前なりに必死だった。


「まっ、まって千冬くん! ありがとう、千冬くんが来てくれたからわたしは大丈夫! 何も怪我してないし! だからこれ以上は」
「けど名前ちゃん、こういうのはちゃんとシメとかねぇと」
「これもう十分シメられてないの⋯⋯?」
「え? 全然」


 その認識に驚く。男は恐怖からかもう半分泣いているし、完全に腰が抜けている。まるで名前にしたことが全て返ってきたかのような反応だ。十分なように思う。

 否、そんなことより、何より。

 ⋯⋯初めて名前呼ばれた。

 先刻からの怒涛の展開に鼓動は早鐘を打ちまくりだが、そこにもう一因が追加されてしまった。勘弁してほしい。


「⋯⋯と、とにかく、あとはお巡りさんに任せて。千冬くんも怪我しちゃうよ」
「オレ? オレは別に⋯⋯」


 ぽけらとした表情を見せる千冬の手を取る。

 人を殴ると、殴る方も痛いと聞く。名前はその痛みを知らない。肉体的にも、精神的にも。千冬は慣れているのかもしれないが、それでも。

 この手を痛ませないでほしかった。


「⋯⋯名前ちゃんがそう言うなら」


 名前を見つめ、千冬は言った。





 警察の対応が終わるまで側にいてくれた千冬と、今度こそ帰路を辿る。


「怖い思いさせちまってすみません。やっぱ最初から一緒に帰ればよかった」
「⋯⋯なんで千冬くんが謝るの?」


 名前を助けてくれた。守ってくれた。千冬が謝ることなどひとつとしてない。


「きっと初めてだったんスよね、殴ったり殴られたりを見んの。だから──」


 千冬の言う“怖い思い”の意図を理解した名前は、咄嗟に手のひらで千冬の口を覆った。


「そんなの謝らないで。むしろ謝るのはわたし。千冬くんの忠告に耳貸さなくて、ごめんなさい。千冬くんが来てくれなかったら、わたし⋯⋯本当にありがとう」


 千冬はどこか擽ったそうに目線を逸らした。男と対峙していたときの彼と同じ人物とは思えない。


「そういえば、どうしてこっち来てくれたの?」
「ああ、連絡先聞くの忘れてたなーって思って。何かあったときとか何もなかったときとか、連絡できたら楽しいだろうなって思ったんスけど」


 まあそんなことより、と千冬は穏やかに笑って続ける。


「もう大丈夫だから。我慢しなくていいっスよ」
「⋯⋯⋯⋯え、」


 自分でも驚いた。

 千冬の言葉を聞いた途端、涙がぼろぼろと零れ出したからだ。動転し反応できていなかった心が、千冬の安堵感に包まれ追いついたからに他ならなかった。

 怖かった。最悪死ぬかと思った。なぜ、千冬の言葉に耳を貸さなかったのだろう。結果は変わらなかったとしても、標準装備として周囲への警戒心を持っておくべきだった。


「⋯⋯──っ」


 滲んだ視界で且つ俯いていた名前は知る由もないが、ちいさく嗚咽を漏らす名前を見て、千冬は何度も逡巡する素振りを見せていた。

 無論、名前に触れるか否かだ。

 本当なら抱きしめてしまいたいが、そういうわけにもいかない。ならせめて涙を拭うくらいは。いや、突然顔に触るなんて。などと考えるたび、腕を上げては下ろし、再度上げては下ろし、を繰り返す。

 結局名前が落ち着くまで、千冬は何も言わずにただ隣を歩いた。“この根性なしめ”と自身を恨む声と、“よく我慢した”と讃える声とが千冬の中でせめぎ合っていた。


*


「名前ちゃん、グー出してください」
「ぐ、ぐう?」


 全くわけはわからなかったが、言われるがままにグーを出す。すると千冬は手のひらを広げ、いわゆるパーを作った。


「はいオレの勝ち! ってわけで好きな飲み物奢られてください。どれがいいっスか?」
「⋯⋯? わたしが奢るんじゃなくて? 負けたのに」
「ちょっとマジでオレの渾身の作戦棒に振んないでくれます?」


 首を傾げた名前に、千冬はあからさまな仏頂面で答えた。その表情がまるで幼子のようで、笑ってしまう。

 ──ったく、普通に言ったら断られそうだからこうしたってのに台無しじゃん。

 そう言って自販機に向き合う千冬の袖を引く。


「ごめん、千冬くん」
「⋯⋯何笑ってんスか」
「ううん、ありがとう⋯⋯ふふ、ごめん」
「もういいっスよ。でもその代わりオレの言うことひとつ聞いてください」
「? なあに」


 チャリン、チャリン。
 硬貨が投入口に吸い込まれていく。夜に光る自販機の照明に千冬の横顔が照らされている。


「今度ウチのペケJと遊びに来てくださいね。あと連絡先教えてください」
「あははっ、ふたつだ」


 後日「え、ほんとに話せるの?!」「ほら今『ごはん』っつった! これ好きなんであげてください!」と戯れる名前と千冬とペケJのおはなし。


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