夜のむこうの朝のむこう


 “東卍の”場地さんと出逢ったときと同じ。

 その人は、突然オレの前に現れた。


「もう、何してるのこんなところで。すっごい邪魔ですー」


 第一声がコレだった。

 せっかく気分良く場地さんとダベり始めたところだったのに。見も知らずのヤツに水を差され、尚且つ生意気な態度。オレの気分変調パラメータは瞬時に不機嫌ゾーンへと突入した。


「あぁ? んだテメェ」


 ヤンキー座りのまま見上げる。

 このとき初めてその人物を視界に収めたわけだが、想像とは異なっていたその姿に、オレは不覚にも言葉に詰まる。

 オレらと同じ中学の制服を纏う一人の女子生徒。背後には深藍の夜空。団地の共用階段の一階、郵便受けの前でのことだった。


「あ、初対面のくせにそんな態度取るのよくないよ。ただでさえ見た目がおっかないんだから、愛想よくしなきゃ」


 オレの言動にまるで動じた素振りもなく、むしろ驚くほどの馴れ馴れしさでこんなことを言われ、面食らう。


「よく人のことそんなふうに言えんな⋯⋯そんなのアンタもだろ」
「わたしはいいの、不良じゃないし見た目も普通だもん」
「はぁ? 無茶苦茶だろ⋯⋯つーか愛想のいいヤンキーがどこの世界にいんだよ」
「そんなのキミがなればいいでしょー、他人任せにしないの」
「いや意味わかんねぇし⋯⋯てかいい加減お前誰だよ? いつの間にか和気藹々と話しちゃってんじゃねーかよ」
「⋯⋯和気藹々の意味知ってる? ちゃんと辞書引いてから使おうね」
「ああ"?!」


 ずっと傍観していた場地さんの肩が、ここでついに動き出した。女といえどこんなふうに突っかかってきては、どうなるか分かったものではない。終わったな。

 なんて思ったのも束の間。


「ぷっくっくっ」


 場地さんは肩を揺らしながら、憚りもなく笑っていた。こんなにあどけない笑顔を見るのはもしかすると、いやもしかしなくても、初めてかもしれなかった。


「⋯⋯な、何笑ってんスか場地さん」
「お前ら面白ぇな、てか千冬ちょろ過ぎ⋯⋯ぷ、ははっ」
「ば、場地さん⋯⋯?」


 呆気に取られて場地さんを見遣る。場地さんは笑みを残したまま、ちいさく小首を傾げた。うわ、なんスかその角度。かっけえ。

 ではなくて。


「名前、あんま虐めんな。オレんとこの可愛い副隊長なんだからよ」
「わあ、じゃあこの子がいつも話してるちふゆ?」
「あ、場地さんの知り合いっスか⋯⋯てかおい今ぜってぇオレの名前平仮名で発音しただろ」


 まるで三歳児が発するような発音に、オレは透かさず反応した。自分の名前をこれほど阿呆みたく発されたのは初めてだった。


「だって圭介漢字教えてくれなかったし。ていうかきっと書けないんだよ、ちふゆって」
「バッカお前、そんくらいオレだって書けるっつーの」
「ですよね場地さん! 勉強頑張ってますし!」


 てかオレの名前だし!

 それを聞いて、名前、と呼ばれたその人がやおらしゃがみ込む。不意に近づく距離。彼女からは嗅いだことのない甘い香りがした。


「じゃあ教えて教えて。千冬? それとも知冬かなあ」


 彼女の人差し指が地面に“千”と“知”の文字をかたどる。滑らかな所作だった。

 そうそう、最初の漢字っスよね場地さん、千って書くんスよね、と思いながら隣を見る。その直後、信じ難い台詞が飛び込んでくる。


「ちっげーよ、“ち”っつったらオメー⋯⋯えっと⋯⋯これかこれじゃね?」


 男らしい指で地面をなぞり、場地さんはこう言ってのけた。

 ──“血”か“乳”だろ。なあ?

 にかりと笑ってオレを見返してくれた場地さんに、オレは心の中で白目を剥いた。否、実際にも少し白目だったかもしれない。

 言葉を返すことが出来ない。

 いや、たかだか名前の漢字が違っていたくらい。いやでも、いつも一緒にいる自分の副隊長の名前くらい。いやいや最近まで“虎”も書けなかった人だし。や、でも千なんて三画だしほぼ直線だし小一で習うんじゃねぇの。

 とかなんとか。

 それらの葛藤をコンマ数秒で乗り越えて、「でもそんなとこもかっけーっス場地さん!」と意気揚々と告げると同時。

 ちいさく膝を抱えしゃがんでいる目の前の彼女が、我慢できないといった様子で笑い出す。


「あはははっ、ぷ、くくく、⋯⋯血に、乳⋯⋯て言うか乳じゃあ“ちふゆ”じゃなくて“ちちふゆ”じゃん⋯⋯ひ〜〜〜お腹痛い」
「ん? そーかこれだと“ち”がひとつ多いのか」
「ふ、ふふ、可笑しい⋯⋯どーする、ちふゆ、圭介ったらこんなこと言ってるよ」


 笑い過ぎて涙目になっている彼女に問われ、オレはキリリと顔を上げる。


「場地さんが乳冬っつーんなら、オレはもうちちふゆでもいいっス!」
「あははっ、何言ってるのこの子、もう無理⋯⋯腹筋壊れる⋯⋯」


 彼女だけならまだしも、場地さんまで腹を抱えて笑っているのだからなんだか腑に落ちない。

 ⋯⋯けどまあ、場地さんが楽しそうだから何だっていいか?

 そうして暫く笑いに悶絶する二人を釈然としない心地で見遣り、漸く笑いの波が引ききった頃。彼女はオレの顔を覗き込むようにして首を傾げた。


「それで、本当はどれなの? 漢字」
「あ⋯⋯千、最初の」
「ふふ、そっか」


 やっぱり千冬だった、と。

 呟いた彼女の言葉が、粒立って宙に浮かぶ。彼女のなかで、“千冬”という名と“オレ”が明確に結びついたのがわかった。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、スカートの後ろをぱたぱたと払う。


「はー笑った。じゃあわたしはそろそろ帰るけど、あんまり皆の邪魔にならないようにするんだよ。喧嘩もふっかけないこと」
「うっせーな、とっとと帰れ」
「はいはい、またねー」

 
 さらりと手を振り階段を上っていく彼女を何となく見送る。腿の後ろで揺れるスカートの裾に自然と目がいった。


「⋯⋯誰っスか? 今の」


 彼女が見えなくなって少し経ってから、今更ながらに問うてみる。

 家族以外で場地さんを名前で呼ぶ人に、オレは初めて出逢った。総長たちですら名前で呼んでいないのに。それに加えてあの態度だ。

 そこには確かに、オレの知らない関係が築かれているように思えた。


「ああ、アイツはなんつーか、たまたま家が隣の腐れ縁みてーなもんだよ」
「へぇ、幼馴染ってやつですね。付き合ってるんスか?」


 深い意味はなかった。というか、深く考えてはいなかった。何となくそう思ったからそう問うてしまっただけで、それが場地さんにとってどういう意味を持つのか、そしてオレにとってもどういう意味を持つのか。

 オレは、まったく考えていなかった。


「⋯⋯は、はぁ?!?! どこをどう見たらそうなんだよ」
「え、今さっきのやりとりの全部っスけど⋯⋯」


 二人の間にだけ流れる空気や、何となく、本当に何となく感じる場地さんの雰囲気の変化、表情の些細な差異にそう思った。のだと思う。

 場地さんは一瞬だけ唇を結んでから、すぐにいつもの笑みを口元に浮かべた。


「バーカ、そんなんじゃねーよ。つーか名前のヤツ、毎回会うたびに口煩いったらありゃしねぇ。オメーはオレのお袋かっての」


 そう話す場地さんは、口調に見合わず穏やかな表情をしていた。

 ──ああ、あの人は。

 肩書はどうであれ、場地さんにとって大切な人なのだと。本能で理解する。

 そしてそれならオレも、大切にしなければ。そう思う。


「なあ千冬ぅ、そんなことより腹減らねぇ?」
「そっスね、オレなんか買ってきますよ。いつものやつにしますか?」
「ああ。一緒に行こうぜ」
「え⋯⋯いいんスか」
「たりめーだろ。何言ってんだ」


 人で溢れかえった東京の、二畳分もないかもしれない隅っこ。ここで更けていく場地さんとの夜は、オレの記憶に生涯刻まれることになる。


*


「うそ⋯⋯何してるの」


 そんな声が掛かったのは、あれから何時間後のことだろうか。階段を下りる足音が止まった直後、聞き覚えたばかりの声が頭上に降り注ぐ。場地さんと揃って見上げる。予想通りの人物をそこに認め、場地さんは口を開いた。


「何って⋯⋯ダベってるだけだけど。お前こそどーした?」
「どうもこうも、もう朝ですお二人さん⋯⋯」
「「?」」


 今度は逆方向へと場地さんと揃って顔を動かす。最初に彼女がここにやってきたときに空を覆っていた深藍が、今や目映い光に溢れている。眩しい。目を細める。


「マジだ。確かに明るくなったな。気付かなかったわ」
「そういやスズメもチュンチュンしてますね」
「いや、あの⋯⋯こんなところで夜を明かしたっていうのに、二人ともすごく暢気だね、驚くほどに。ていうか一睡もしてないの? ご飯は? 誰にも迷惑かけてない?」


 驚き、そして呆れ、心配、懐疑と続く。なるほど、場地さんが「オレのお袋かっての」と言うのも分からなくはない。

 そんなオレらの会話など知らぬ彼女が、「えっやだ、もしかしてお風呂も入ってないんじゃ」などと言い出したところで、場地さんがオレを振り返り、告げる。


「な。名前のヤツ、口煩ぇだろ?」


 口角を上げたその表情には。

 紛うことなき、愛情とでも呼ぶべき何か──オレには最適な言葉が分からない──が宿っていた。

 不思議と胸のあたりが、ぎゅっと締まる。大切な人が本当に大切にしているものに邂逅したからかもしれない。自分にとって大切なものが、ひとつ増えたからなのかもしれない。


「つーかお前は何してんだ?」
「わたしは朝練」
「部活か、ご苦労なこって。てか早くね? まだ五時とかじゃねぇの」
「もう六時半です⋯⋯」


 これにはオレが「いや、はっや! 朝練ってそんな時間からすんの」と反応してしまった。朝を迎えたことにも気付かずいつの間にか七時近くになっていたことよりも、そんな時間に学校に行く人間の存在に驚いた。

 本当にいるんだな、そういうヤツ。

 純粋に感心していると、「なあに、変な人種見つけたみたいな顔して」と窘められる。


「ほら、二人も早く帰って学校行く準備して」
「や、オレこれから寝るし」


 透かさずそう答えたオレに、場地さんも透かさず答える。


「? オレは行くからな、千冬」
「えっ?! じゃあオレも行くっス!」


 そうだ、場地さんはもうダブれねぇ。何言ってんだオレ。馬鹿か。

 背筋を伸ばしそう口にしたオレを見て、彼女は「あはっ、忠犬冬公」と笑った。


「じゃ、わたしは行ってきます。遅刻しないんだよ」
「あーもう分かったっての、早く行け」
「はいはい」

 
 笑いながら手を振りオレらの横を通り過ぎて行くその背を、昨日同様何となく見送る。華奢なラインが見えなくなると、場地さんはよっこらと立ち上がった。


「んじゃーオレらもそろそろ行くか、千冬」
「っス! ありがとうございました!」


 勢い良く頭を下げ、場地さんが立ち去るのを待つ。やや暫くののち、顔を上げ自宅へと足を向ける。見慣れた玄関の扉に手をかけ、そこで、はたり。


「そういやオレ⋯⋯ちゃんとあの人の名前聞いてねぇな。てか場地さんの幼馴染なんだからオレは敬語のほうがいいのか?」


 そんな呟きが、朝ぼらけの中に浮かんで、消えた。まさか近い未来にあんな悲劇が待っていようとは、このときのオレらは──夢にも思わない。


 結局このあと「ちょっとだけ⋯⋯五分だけ⋯⋯」と言いつつペケJと昼まで寝てしまった千冬と、何とか学校には行ったものの放課後まで爆睡した場地とのおはなし。もう一話続く予定です。


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