そう呟いた自分の声が震えているのがわかった。
墓石の前でひとり座り込むその姿は、酷く濡れていた。制服の中に着ているニットパーカーのフードを目深に被ってはいるものの、まるで役目をなしていない。
こんな雨の中、傘も差さないで。滴る雨粒も厭わずに。
これではその濡れた頬が何のせいなのか、わからないではないか。
声が届かなかったのか微動だにしない彼の名を、もう一度呼ぶ。
「千冬」
「あ⋯⋯、っス」
名前に気が付き顔を上げた千冬は、ごく軽く頷くように会釈をした。前髪の先からぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。その隙間から覗く双眸の下には、色濃い隈が存在を主張していた。
何を言ったらいいのかわからなくて、ただ、こんなことを口にする。
「濡れてるよ」
「⋯⋯いいんス、そんなの」
千冬の翳った瞳に、心臓のさらに奥が痛いくらいに切なく締まる。初めて会ったあの日、社宅の入り口で。場地に向けていた輝かんばかりの瞳が嫌でも思い出されてしまって、名前は唇を結んだ。
少し躊躇してから、千冬の隣へと足を運ぶ。その足までもが震えていて、名前は傘を持つ手に力を込める。千冬は何も言わず、視線を墓石へと戻した。
雨が降りしきる。
透明なビニール傘を叩く鬱陶しい音が、沈黙が横行するこのときばかりは幸いだった。
互いに口を開かぬまま随分と時間が過ぎ、そうして漸く名前がぽつりと呟いた。
「⋯⋯千冬」
「⋯⋯はい」
「圭介は、ほんとにいなくなっちゃったの?」
葬儀を終えた今でも、現実とは思えなかった。名前の知らない場所で、名前に別れさえ言わさずに。
場地はあまりにも突然に逝ってしまった。
突然の訃報。親に手を引かれるように参列した葬儀。現実を受け入れられず、ただ呆然と“日常”に流された。起きて、寝る。そんな日常。一秒だって眠気は感じないのにいつの間にか寝ていて、そして必ず覚醒めるように作られている人間の身体は、──残酷だと思った。どうせならそのまま、夢にでも溶けてしまえればいいのに。
しかしそんなことが叶うはずもなく、場地との想い出を浚っては天井を見つめ続ける時間。名前は確実に生きているはずなのに、生きているのか死んでいるのか定まらない感覚に苛まれた。そんなあるときにふと、──千冬の顔が浮かんだのだ。
千冬。松野千冬。
場地がずっと傍に置いていた壱番隊の副隊長。場地のことを、誰よりも尊敬していた。
そして、場地も。千冬は知らないかもしれないが、千冬のことを本当に大切にしていた。いつも話を聞かされていた名前には、それがわかる。
千冬。千冬はどうしているだろう。葬儀にもいたはずだが、殻に閉じ篭っていた名前は周囲を気にかけることができなかった。東卍の面々を見た気がするし、誰かに声をかけられた気もするが、まったくと言っていいほど覚えていない。
千冬の存在を思い出してしまえば、会いたくて仕方がなくなった。無性に会わなければならない気がした。
だから、抜け殻のような足を引き摺って。ここに来た。
「⋯⋯あの日のこと、東卍の誰かに聞きましたか」
「ううん。⋯⋯何も、誰にも」
聞いていない。会ってもいない。一度マイキー──場地と幼馴染だと、自然とマイキーと関わる機会も多かった──が家を訪ねてきたことがあったが、とても会う気になれなかった。母が玄関で丁重に断っている声が、扉の向こうから微かに聞こえた。
「⋯⋯そっスか。じゃあ、オレが話しますね。⋯⋯全部」
幼い頃から知っていた。
良いところも悪いところも。大人に近づくにつれその素行は決して褒められたものではなくなったが、それでも、彼という人間の根幹は変わっていないと思っていたし、会えばそれを再確認することができて、都度どこかほっとしていた。
幼い頃から、知っていた。
根っこは凄く、優しい人だと。どんなに口が悪くなっても、生傷絶えない喧嘩ばかりでも、例え車を燃やしてしまったりなんかしても、それでも。
場地は、──優しい人だった。
睫毛を伏せる名前を見て、千冬は唇を噛む。きっとこの人は、まだ、実感が沸かないのだ。永遠に目を閉したあの人を目の前で見た千冬ですら、
──オレが、守れなかった。オレがこの人から場地さんを、そして場地さんからこの人を。奪ってしまった。
そんなことを思う。
名前には、知る権利がある。あの日のことを。場地の最期を。名前が知ることを望むなら、その役目は自分だ。
千冬は強くつよく、拳を握る。
「名前ちゃん、ごめん⋯⋯オレが、守れなくて」
「⋯⋯千冬、」
「オレの腕の中で、場地さんは」
「千冬」
「──っ、場地さんは」
「千冬!」
ピシャリとした名前の物言いに、千冬ははっと顔を上げる。さっきまで空虚だった名前の瞳に、凛とした彩が灯っている。いつの間にか自分の上には傘が差し出されていた。
無色透明が、千冬を守る。名前が濡れる。名前と千冬の間に、透明な膜に弾かれた水滴が佇む。ずぶ濡れの千冬を、これ以上濡らさないように。
「ごめん。違うの。そういうことを聞きに来たんじゃないの」
「ちょ⋯⋯名前ちゃん、濡れちまう、オレはいいからちゃんと傘差して下さい」
「うるさい。そんなずぶ濡れっ子にわたしが濡れる心配する権利はありませーん」
「は⋯⋯」
フードの下で目を丸くする千冬を真っ直ぐに見つめ返し、名前はそっと、「だめだよ」と呟く。
「だめだよ。ちゃんと、大事にしないと。圭介が大事にしてた千冬を、千冬が大事にしないと」
「⋯⋯?」
傘を持っていない手を、硬く握られた千冬の拳に重ねる。秋の雨に打たれ冷え切ったその手には、しかし確かに、生きている者の温度が宿っていた。
「⋯⋯前の日の夜にね、突然圭介が来たの」
十月三十日。
血のハロウィンの前日のことだった。
寝る支度も終えた頃だ。突然場地が訪ねてきたのだ。そんな時間に年頃の娘の部屋に同じく年頃の男子を通すな、と言いたいところだが、これが幼馴染の宿命とでも言うべきか。とにかく突然、部屋の扉が開かれた。
五里霧中。唖然とする名前をよそに、ずかずかと部屋に入り込んだ場地は、我が物顔で名前のベッドに腰をかけた。「こんな時間にノックもしないでレディーの部屋開けないでよ!」と言いかけて、口を噤んだ。怖いくらいに真剣な瞳をした場地が、そこにいたからだ。
『え⋯⋯どう、したの?』
『なあ⋯⋯名前』
『⋯⋯ん?』
『お前、千冬のこと好きか?』
『は?』
名前はあんぐりと口を開けた。急に来たと思ったら、真剣な眼差しで次は何てことを言い出すんだこの男は。
勘違いをしていたのは自分だけか。昔からなんだかんだで想い合っていると思っていたのは、自分だけなのか。
悔しいやら悲しいやら、ふつふつと怒りが込み上げた。
『な、なにそれ⋯⋯』
ぎゅっと眉を寄せた名前を、場地はにやりと見上げた。
『まぁ、オレの次にって意味だけど』
『は、⋯⋯はい?!』
『はははっ』
してやられた。これだから場地という男は。頬を真っ赤に染めあたふたと視線を泳がせる名前の髪をくしゃりと撫で、場地は笑った。
いつもそうだ。この笑顔を見せられると、いつも許してしまうのだ。いつも、場地のことが好きなのだと再確認してしまうのだ。
徐にベッドから腰を上げた場地が、部屋の扉へと足を向ける。名前は慌てて声をかけた。
『え、か、帰るの? そんな思わせぶりなこと言っておいて? ちょ、おーい圭介くーん』
『⋯⋯名前』
敷居の上で、場地は足を止めた。振り返らずに声だけが告げた。
『千冬のこと、よろしくな』
『え⋯⋯?』
場地はそれだけを言い残し、そのまま姿を消した。なんて奴だ。次に会ったら絶対真意を問いただそう。そう思っていた。思って、いたのに。
場地は、二度と戻っては来なかった。
「圭介は⋯⋯こうなることわかってたのかな」
思えばあの日の場地は、壊れそうなくらいに綺麗だった。否、決して容姿の話ではない。人間として、美しかったのだ。
今ならわかる気がする。
名前には到底届かぬ諦観の際で、名前に別れを言っていたのだろう。場地にしかわからぬ、あまりにも一方的な別れだ。
「ズルいよね。わたしに“好き”も言わないで、千冬のこと⋯⋯よろしくなって⋯⋯っ」
傘を持つ名前の手が酷く震えているのを見て、千冬は咄嗟にそれを支えるように手を重ねた。冷たくて。細くて。壊れそうなほど頼りない手だった。縋るように傘を握る手を、千冬は必死に包む。
「圭介、は、ほんとに⋯⋯死んじゃったんだね」
「⋯⋯名前ちゃん」
「⋯⋯千冬が、最後まで⋯⋯隣にいてくれたの?」
名前の頬を、ぼろぼろと雫が転がる。雨粒より数段美しいその粒を、雨粒と見紛うことなど不可能だった。
名前の姿が雨に霞んで見えて、どこかに消えてしまいそうで。千冬は傘を投げ捨て、名前の身体を抱きしめた。ここに繋ぎ止めるように。溶けて無くなってしまわないように。
ちいさな身体を抱きしめながら、千冬は硬く目を瞑る。場地が名前に遺した言葉を心の中で繰り返す。それは、千冬にはこう聞こえた。
──千冬。名前のこと、頼むな。
千冬の頬を、温い涙が伝う。
──ずりぃよ、場地さん。アンタが愛した人を、オレに守れって言ってくれてんのかよ。誰よりも尊敬してたアンタのことさえ守れなかったオレに。
それはあまりにも重たく、そしてあまりにも名誉なことだった。
千冬は誓う。この先何があろうとも、この先どんな人生が待っていようとも。
この人だけは、幸せにしようと。
「⋯⋯かっけぇな」
「⋯⋯え?」
「場地さん。かっこよすぎんだろ」
「⋯⋯っう、ん」
ひとりでは、とても抱えきれない。受けとめきれない。けれど、二人なら。
受け入れられないことを受け入れ、認めたくない現実を生きて、そして。泣くことを許された気がした。
だから名前はこのとき、はじめて涙を流せた。報せを聞いたときも。棺を見たときも。自分はこんなに冷たい人間だったのかと思うほど流れなかった涙が、堰を切ったように溢れる。
止まることを知らぬその涙が尽きるまで、雨が止むことはなかった。
夜のむこうの朝のむこう、の続き。強くて弱くて凛々しくて脆い彼らの、共依存みたいでそうではないおはなし。