そんな声が店内に響いたのは、閉店した間際のことだった。ガラガラ、とシャッターが重たい音を立てて閉まったその瞬間、ぷりぷり怒った名前が近付いてくる。
最早茶飯事となっているこの光景に、千冬は溜め息をついた。
「あ? また喧嘩か? 店内で喧嘩はご法度だって何回言えば分かんだコラ!」
「っいたい! なんでわたしが! 悪いのはこの人なのに!!!」
人差し指第二関節でこつりと額を打たれた──千冬にしては随分と可愛らしい小突きだった──名前は、額を擦りながらもう一方の手で真っ直ぐに指差した。
もう一人の従業員、羽宮一虎を。
「この人だ? ナメてんのか小娘」
「ひぃ! て、てんちょ〜〜〜! 助けて〜〜」
名前にこの人呼ばわりされた一虎が睨みを効かせる。その剣幕に圧された名前は、慌てて千冬の背中に隠れた。涙目になっているところを見ると──千冬には分からないが──、相当に怖いらしい。
シャツの後ろ身頃を必死に掴んでくる名前を肩越しに見下ろしてから、千冬は呆れて一虎に向き直る。
「⋯⋯一虎くん。何でもかんでもスゴまない。って、何回言えば良いんスか」
「いて」
千冬の拳が、今度はぽかりと一虎の頭頂を打つ。
性というか習性というか癖というか。ふとした拍子に不良をしていた頃の自分が顔を出してしまうのだ。それは、千冬も理解る。口調、表情、空気感。自分を纏うすべてがあの頃に戻り、気が付くと無関係の人間を萎縮させてしまっていたりする。
勿論もういい大人だし、普段は制御ができる。だからこそ“ふとした拍子”と言っているわけだが、如何せん一虎はその制御があまりない。いや、少し語弊があるか。制御する必要性をあまり感じていない、というほうが近いのかもしれない。
それでもぱっと見の物腰は柔らかいしルックスも良いから、女性客には人気だったりするのだが。
「なんでオレが怒られんだよ⋯⋯悪いのはコイツだろ」
悪びれた様子もなく親指で名前を示す一虎に、千冬が「何が悪かったんスか」と問う。だいたい毎回一虎が悪いわけだが、一応双方の主張は聞いている。
「毎日毎日うるせぇんだよ、ペットシーツはすぐに取り替えれだの、客には愛想良くだの、拭き掃除はもっと丁寧にだの」
「それは出来てない一虎くんが悪いっスね」
「やろうと思えば出来んだって。面倒なだけで。それをいちいち言われるとさー、やる気なくすじゃん」
「いや、子どもかって。つかそれが仕事っス」
千冬が呆れて言い返すが、一虎はしれっと続ける。幾度打てども響かない。分かってはいたが、こと仕事に関してはもう少し真面目にやってもらいたいものである。
「そんでさー、あまりにもうっせーからちょっと口塞いでやっただけだよ。まぁそしたら余計うるさくなったけど」
一虎の唇の端から、真っ赤な舌先がぺろりと覗く。それを見た千冬の瞳孔が縮瞳する。一虎の言葉を今一度脳内で再生して、千冬の口が“は”のかたちに開く。
──⋯⋯は?
それはつまり、口で口を塞いだということか。
「⋯⋯は?」
今度は声に出ていた。事の詳細を確認しようと振り返る。名前は頬を紅潮させ、困ったように眉を寄せていた。
「⋯⋯っ、セクハラで訴えます、店長に!」
「あーもー、キスのひとつやふたつでピーピー騒ぐなよ。それとも何、もしかしてキスしたことねぇの?」
「なっ、⋯⋯っ」
背にしがみついていた名前の手がふるふると震えているのが分かる。怒り。恐怖。いや、これは。
千冬への懺悔か。
「なんで、羽宮さんはわたしのこと⋯⋯いっつも虐めるんですか」
「だってさー、なんかムカつくじゃん。年下のくせにオレより動物に懐かれるし、年寄りからガキまで客にも可愛がられるし、⋯⋯──笑ったら可愛いし」
ぼそりと呟かれた最後の一言は、たぶん名前には聞こえていない。それくらいの小声だったし、それをかき消すように、すぐに「だから苛つくんだよ」と些か声量を増した台詞が追いかけてきたからだ。
「そんな理由あってたまりますか!」
「たまるんだよなぁ、これが」
ああ言えばこう言う一虎に、名前はいつも丸め込まれてしまう。毎度繰り広げられるそれは子どもの喧嘩に違いなく、呆れた千冬が適当に仲介するのが常だった。常だったのだが。
今回に限ってはそうもいかない。
数秒何かを思案した千冬は、背に張り付いたままの名前の頭を撫でてから一虎に向き直った。
「⋯⋯なんだ。やけに名前につっかかると思ったら、一虎くん、名前に惚れてんスね」
「はぁ? 誰がこんな女」
「けどダメっすよ。一虎くんがここに来る前から、名前はオレの女ですから」
「⋯⋯は」
──チリン。一虎のピアスがちいさく揺れる。ミャア、と鳴いたのは本日成約が決まったロシアンブルーだ。カリカリ。誰かが餌を噛んでいる。
人間の声が静寂を破るまで、こうして十秒は時が流れた。
「⋯⋯千冬オマエ、そういうことは早く言えよ。手ぇ出しちゃったじゃん」
しかし一向に悪いとは思っていなさそうに小首を傾げる一虎と、「そーいうワケなんで、一虎くん、ちょっと裏行きましょーか」と告げた千冬。両者の間に鳴り響いたゴングを確かに聞いた名前は、その身を呈して二人の間に滑り込ませる。
「待って! ちふ⋯⋯違った、店長! お店での喧嘩はご法度なんでしょ?! ていうかわたしに惚れてるなんて羽宮さん一言も言ってないし、絶対ありえないし、千冬の勘違い──」
まさか千冬が、こんなふうに怒るなんて。名前は想像もしていなかった。「またっスか一虎くん⋯⋯今度こそクビにしますよ」くらいの、いつものやり取りが待っていると思っていた。
思っていたのに。
「名前は黙ってろ。キスした時点でアウトなんだよ。オイ、面貸せや」
「上等だコラ、さっさとかかってこいよ千冬」
これまで千冬が嫉妬する場面など訪れなかった。だから知らなかった。こうも感情を荒げてくれるということも、こうして怒ってくれることを“嬉しい”と思う自分がいることも。
──否、暢気に嬉しく思っている場合ではない。
喧嘩を生業としていた二人の、大人になってからの喧嘩だ。お互いタダでは済まないこと明白だし、こうなってしまえば名前では止められない。誰に助けを求めようか必死に考えつつ、名前は人生最速の走力を発揮しスマホを取りに走った。
火花を散らしながら裏へと消えていった二人と、千冬のかつての仲間へ手当り次第に電話をしながら、一虎に舌を入れられたことなど口が裂けても言えないと焦る名前のおはなし。