愛を結うひと


 それは衝撃的な出逢いだった。

 時は遡ること二年。名前が小学六年生の時だ。それまであまり話したことはなかったのだが、ひょんな事がきっかけで仲良くなったクラスメイト、佐野エマと遊ぶ約束をし、放課後に彼女の自宅を訪ねた。空手道場を兼ねているというその家は、名前の想像より大きく、そして古風なものだった。

 噂では複雑な家庭事情があるらしいが、まだ仲良くなったばかりの名前は詳しくは知らなかった。

 表札に「佐野」と表記があることを確認し、呼び鈴を鳴らす。応答があるまでの間、頭の中で“エマが出た場合”と“その他の人物が出た場合”の台詞を反復した。

 しかしなかなか応答がなく、台詞を二回ずつ唱えたところで、もう一度呼び鈴を鳴らす。

 しかし出ない。まあ誰も出ない。

 もう一度鳴らそうか。待とうか。帰ろうか。迷う。確かにエマとは約束をしたし、それを反故にされるような喧嘩もしていない、はずだ。まだ帰ってきていないとか。のっぴきならない急用が出来たとか。様々な可能性が巡っては、考えあぐねる。

 そうして何分が経っていたのだろうか。

 突然、門の向こうの玄関が開く。
 玄関の暗がりに、人影。エマが出てきてくれたのだろうか、としかけた期待は、その人物が暗がりから一歩を踏み出した瞬間に打ち砕かれる。

 真黒な布地に金の刺繍。白いブーツ。派手なピンクゴールドの髪と服の長い裾を靡かせて、気怠そうな雰囲気を醸した男が、そこにはいた。

 だって。これではまるで。


「⋯⋯っ」


 まるで、不良ではないか。

 名前は言葉を失い、呆然と立ち尽くす。しかも目が合ってしまった。まさに絶体絶命である。親には「こういう人たちには近づいちゃダメ」と教えられてきたし、もちろん名前だって近づかない。怖いから。

 そうして生きてきたし、これからもそうして生きていくはずだった。そのはずが、なんと友人の家から出てきてしまったのだ。


「⋯⋯ん? オマエ誰?」


 彼の発したその言葉が自分に向けられているのだと理解するまでに、少し時間がかかった。そして理解した瞬間、名前は弾かれたように背を伸ばした。

 名前のことを見定めるような視線。彼に見られているというだけで失神してしまいそうなのに、名前は視線を逸らすことができなかった。逸らしてしまえば、それこそそこには死が待っているのだと、本能的に思ったからかもしれない。


「えっ⋯⋯と、わたし、」
「⋯⋯何?」
「その、エマ、ちゃんの」


 果たしてエマの名前を出すことが正解だったのか、このときはわからなかった。もし彼女が無関係で、名前が名前を出したせいで危険に巻き込んでしまったら。まあ結果的にはエマのおかげで助かるわけなのだが、この時はそんなことも考えたものである。

 固唾を飲んで彼の出方を窺っていると、“エマ”という単語が出たその刹那、彼の雰囲気がふわりと和らいだ。周りに張り詰めていた空気が弛緩し、息のしやすい濃度になる。目に見えないはずのそれを、名前は確かにその目で見た。

 ──空気って、こうやって柔らかくなるんだ。

 そんなことを思ったのを、いやにはっきり覚えている。


「ああ、なんだ、エマの友達か。ちょっと待ってて、今呼んでくるから」


 そう言って家の中を振り返った彼は「あ、」とその身を翻し、再度名前を見返した。


「名前」
「⋯⋯?」
「名前は?」
「あ⋯⋯名前、です」
「そ。名前ちゃん」


 名前の名を呼ぶその瞬間、彼の顔が綻んだ。名前はそれを見ただけで、何故か泣きそうになってしまった。

 優しそうに目尻を下げるくせに、なんて──なんて切なく笑う人なんだろう。


「エーマー! 名前ちゃんー! 来てるぞー!」
「はーい! マイキー案内してー!」
「はぁ? 自分で迎えに来いよ」
「ウチ今手離せなーい!」
「⋯⋯そういや何か作ってたっけアイツ」


 何だアレ、クッキー? 仕方ねぇな。
 などとブツブツ独り言を溢してから、彼は名前を手招いた。


「コッチ。入っていーよ」
「あ⋯⋯はい」


 状況を飲み込めぬまま、名前は流されるままに頷いていた。

 ぽいぽいっとブーツを投げ飛ばしながら脱いだ彼の横で、同じく靴を脱ぐ。酷く恐縮しながら後をついていく。

 その廊下の途中で彼が脈絡なく振り返るものだから、名前はびくりと肩を揺らした。


「あ、そういや玄関のチャイムね」
「はっ、はい?!」
「あれ最近調子悪くてさ、もうすぐ取り替えんだよね」
「えっと⋯⋯鳴らないってことですか?」
「ウン。もしかして結構待った? ゴメンな。次からはデカい声で呼べば誰かが気付くからさー」


 と言われた、その時だった。
 玄関のほうから、低くて大きな男の声。家中に響いたそれは、一人の名前を呼んでいた。


「マイキー!! 行くぞー!」
「そーそー、こんなふうに。ちゃんと聞こえんだろ?」


 マイキーと呼ばれた目の前の彼は、再度にこりと笑った。

 ──とくり。

 胸の真ん中で何かが脈打つ。心臓なのか何なのかわからぬそれは、名前の真ん中で確かに鼓動を開始した。


「ケンチーン! すぐ行くー!」


 同じくらいの声量で返事をしてから、彼は居間を通り抜け、台所へと名前を通した。


「エマー、連れてきたぞー」
「名前ー、いらっしゃい⋯⋯ってマイキー! つまみ食いしないでよ!」
「やりぃ、焼きたて!」
「あっ、ダメだってば! 名前と食べるのに!」
「いーじゃん、オレのこと扱き使ったわけだし、いっぱいあんだし、ケンチンにも持ってくし」
「え⋯⋯ドラケン⋯⋯そ、そう」


 ケンチン。その単語が出た瞬間、エマがしおらしく俯く。その隙を見て、彼はクッキーをがさりと抱えた。


「そんじゃ名前ちゃん、汚い部屋だけどゆっくりしてってね」
「ちょっと! 汚くないでしょ! わたしが掃除してるんだから!」


 まさに脱兎の如し。素晴らしい速さで部屋を飛び出していくその背を、エマの呆れた声が追う。


「もう、マイキーのヤツあんなに持ってって⋯⋯誰かが遊びに来てくれることなんてあんまりないから、せっかくお菓子作ったのに」


 そんな可愛いことを言って笑うエマを見て、全身の力が抜けていく。緊張が解れる。来たばかりだというのに、何だか物凄く疲れた。


「エマ⋯⋯わたし死ぬかと思ったよ⋯⋯」
「?」


 ふらりふらり。縺れる足。それに身を任せて壁際に凭れる。ちょうどそこにあった窓の外から笑い声が聞こえる。見ると、そこには先程の彼と。彼より数倍体躯の大きな、酷く個性的な髪型をした男がいた。

 な、何だあの髪型は。ていうか頭に龍みたいなの見えるんですけど。名前は思わず口をぽかりと開けた。のちに辮髪、そして龍の刺青なのだと教えてもらうのだが、恐らく彼が、ケンチン、そしてドラケンと呼ばれている男なのだろう。

 彼らは何言か言葉を交わし、クッキーをぺろりとたいらげ、それぞれのバイクに跨りどこかへと消えていった。

 このとき、颯爽去っていく姿に。名前の心はまるごと連れ去られてしまったのだ。





 それから二年。エマと仲良くしているうちに、万次郎とも随分と仲良くなった。


「小学生が敬語なんて使うなって」
「マイキーって呼んでよ。だってオレマイキーだから」
「名前、今から帰んの? なら後ろ乗れよ、送ってってやるから」


 こんなふうに甘やかされて二年。名前は二年、恋心を育ててきた。包み隠さずに育てたそれを、名前は今日も大きくしていく。

 あの日から変わらない。万次郎はいつだって最高に格好よくて、そしてすごく可愛い。時折見せるあの笑顔も、冷たい瞳も、寂しそうな睫毛も、子どものような一面も、総長の顔も。

 どれもが愛おしい。

 名前は玄関でエマを待ちながら、今朝結った三つ編みの端を指先で摘んでいた。そんな時、後頭頂部に聞き慣れた声がかかる。


「はよー、名前」
「おはよ、ドラケン」
「エマ待ってんの?」
「うん。あ、マイキーは今起きたとこだよ、二十秒くらい前に寝間着でここ通っていった」
「はあ⋯⋯またかよ」


 呆れて溜め息をついた龍宮寺が、ふと何かに気づき名前を見下ろす。


「あれ。今日のソレなに、いつもと違うじゃん」
「さすがドラケン! 違いのわかる男!」
「まぁな。何、今日何かあんの?」


 彼の差す先、名前の両耳下で結わえた三つ編みが揺れる。ううん、と名前が首を左右に振って答えたからだ。


「何もないの。ただ、髪型変えたらマイキーの性癖なるものに刺さってくれたりしないかなーって思って。まぁたった今寝起きのマイキーにはスルーされたんだけど」
「はは、そっか。かわいーけどな。似合ってるぜ。アイツもちゃんと気付いてると思うけどな、言わないだけで」
「ふふ、そうかな。マイキーだからなぁ」


 でも、そうだといいな。
 心の中でそう呟いて、「それはそうと」と龍宮寺を見上げる。


「ねぇドラケン、今わたしに言ってくれたみたいの、今度エマに言ってあげなよ」
「は? なんでだよ」
「エマ喜ぶよ、すごく」
「誰が言うか」
「ま」


 素直じゃないなあ。エマのこと、ちゃんと大切なくせに。そんな台詞を飲み込んで、だらだら世間話をする。暫くすると万次郎を引き摺りながらエマがやって来た。


「ごめーん、遅くなった」
「ううん。おはよ、エマ」
「おはよー。名前、今日いいね、チョー可愛い!」
「ありがと」


 笑った名前の横で、龍宮寺が万次郎の靴を並べる。


「オラ行くぞマイキー」
「ヤダ、オレ⋯⋯今日はまだ眠い」
「そんなん毎日だろ。せめて学校で寝ろ」


 渋る万次郎に無理やり靴を履かせ、皆で引きつ押しつしながら登校する。そのうち次第に万次郎の目も醒めてくる。しばらくすると万次郎は、今度はじいっと名前を見つめるようになった。

 最初は気にかけていなかったが、あまりにも視線が向かってくるため、ついには名前から問う。


「な、何? マイキー。わたしの顔に何かついてる?」
「んー⋯⋯なんか違う」
「?」


 首を傾げた名前をよそに、万次郎は龍宮寺を見げた。


「なあケンチン。なんか違くね? 今日の名前」


 はたり。龍宮寺の動きが止まる。次いで万次郎に呆れた視線を向けてから、名前に目線で「悪りぃ」と告げた。そうしてもう一度万次郎に向き直り、溜め息混じりに口にする。


「⋯⋯オマエなぁ」
「あははっ」


 龍宮寺の気遣いが嬉しくて、万次郎が“何か違う”と気付いてくれたことが嬉しくて、自然と笑みが溢れる。


「見て見てマイキー、これだよ。髪の毛。マイキーに可愛いって思ってもらいたくてしてきたの。どう?」
「あ、ほんとだ。アハハ」


 得心した様子の万次郎は、何故か陽気に笑ってみせた。「いや全然笑うところじゃないです」と返してから、今回の手応えはまるでナシ、今度はどんな髪型にしようか、と考えていた──その時だ。


「名前はさ、ほーんと健気だよね」
「⋯⋯っ」


 ふにり。万次郎の人差し指が、名前の頬をやわく押していた。「似合ってる。そーだ、オレのココも結ってよ、オソロイにしよ」なんて言ってポンパドールを解く万次郎に、名前は今日も息を詰め、胸で逸る鼓動を抱き締めるのだ。


「⋯⋯いいの? どっちかっていうとドラケンとオソロイみたいになるけど」
「うわほんとじゃん! ケンチン今日はポニテにしなよ!」
「は? ヤダし」


 名前の気持ちが何故か勿体なく思えて応えられないマイキーと、そうとは露知らず振り回される名前のおはなし。


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