「名前。どこにも行かないで」
柔らかく甘えた声音で囁かれる言葉を、名前はいつも、ひとつひとつ丁寧に仕舞う。決して誰にも触れられないような、心の奥底に。
「名前、聞いてる?」
名前にそう問う万次郎はいつも、迷子の幼子のような、暗く重たい業を背負った罪人のような、ちぐはぐで孤独な目をしている。メンバーの前で見せる、見る者の息を詰まらせてしまいそうな荘厳で厳格な雰囲気を放つ万次郎ではない。
ひとりぼっちの、男の子だ。
「ねえ返事は?」
「したよー」
「は? してねぇって」
「したの。心の中で」
「はぁ?」
「ちゃんと聞いといてよね。せっかく答えたのに」
「ふざけんな」
「きゃ、ははっ」
腋窩から側腹部を擽られる。擽ったさに身を捩った名前を、万次郎はそのままベッドに押し倒した。
瞬く間にてのひらとてのひらが重なる。シーツの上に両手をきっちりと縫い止められ、名前は未だ笑みの残る瞳で万次郎を見上げる。それを見下ろす万次郎の双眸は、名前とは裏腹に翳りを含んでいた。
「ねえ名前。どこにも行かないで」
「行かないよ。わたしはずっとマイキーといるもん」
「ホント? オレのこと捨てたりしたら、殺しちゃうから」
魔法みたいだ。
万次郎の言葉は、魔法みたいに名前を惑わす。どうせ零時で解けてしまう魔法に、名前はほんの束の間、幸福を見る。
わかっている。こんなことを言っておいて、行ってしまうのは万次郎なのだ。名前を捨てて。仲間を捨てて。万次郎は、いつか一人で行ってしまう。
いつ、なのかはわからない。
どこに、なのかもわからない。
ただ、いつか、どこかへ。名前のもとを離れ、行ってしまうのだ。そんな確信が、万次郎と出逢った時から名前の深層に住み着いている。
繋ぎ止めたい。ずっとここに。
しかし、名前にはその術がわからない。わからなくて、今日もただ、名前を縫い止めるその手を強く握り返すのだ。
「わたし、マイキーに殺されるんならそれでもいいよ」
「は? 何言ってんの、死ぬとか許さねぇし」
「あはっ、マイキーが殺すって言ったんじゃん。すごいめちゃくちゃだよ」
たまにわからなくなる。
万次郎は絶対に人殺しなどしないと思ったり、そんなものはただ名前がそう思いたいだけで、万次郎なら或いは簡単に名前を殺してしまうのではと思ったりもする。
どちらの万次郎でいて欲しいのかと問われれば、それは間違いなく前者だ。当たり前だ。しかし万次郎の中、名前には触れられぬ場所にいる“モノ”が、万次郎を後者へと導いているように思えてならない。
それが一体何なのかもわからないくせに。
「じゃあさ、マイキー」
「ん?」
「わたしが死んだら、マイキーも一緒に死のう。そうしたら、ずっと一緒だよ」
「ハハ、すっげぇお誘いだな。何、オレのことは名前が殺してくれんの?」
「あら。わたしが先にマイキーに殺されてるのに、どーやって殺せばいいんでしょうか」
冗談混じりに笑いながら返すと、万次郎は「そこは頑張れよ。オレ、死ぬなら名前に殺されてぇもん」とまためちゃくちゃなことを言い出した。
傍若無人は今に始まったことではないが、まさか「生き返ってオレを殺して」などとワケのわからぬことを要求されるとは。
これに付き合っていると収拾が付かなさそうなので、名前は話を区切り、いっとき瞼を閉じる。
考えてみる。シチュエーションはどうあれ、自分が死ぬときのこと。万次郎が死ぬときのこと。
考えるうち、ひとつの強い欲求が浮かぶ。それは考えれば考えるほど譲りたくない想いに思えて、名前は実際に口にしてみた。
「⋯⋯わたし、マイキーよりあとに死にたいな」
「ふーん? なんで」
「なんとなくだよ。でも、マイキーよりあとがいいな。結構絶対」
「けっこう絶対? なんだそれ」
愛する人の死に直面する辛さを、これ以上、万次郎にはさせない。させたくない。させられない。
万次郎はあまりにも多くを失くした。もうこれ以上、万次郎から何も欠け落ちないでほしい。
涙のひと粒さえ。哀しみの吐息さえ。
名前でいい。その役割は、名前で十分だ。
名前は万次郎に愛された。知り得ないはずの幸福を味わった。しかし万次郎には何も返せない。何もあげられない。ならばせめて。万次郎の死を見届け、その哀しみに打ちひしがれ、それでも万次郎を愛し続けることが、名前がせめてできることだ。それができるような自分でいたいと、思っている。
願わくばそれが、七十年後とかだといい。
そんな途方もないことを考える。
「⋯⋯マイキーこそ、どこにも行かないでね。ずっとわたしのそばにいて」
「は? 名前をおいて? そんなの行くわけねぇじゃん、馬鹿じゃないの」
呪いみたいだ。
万次郎の言葉は、呪いのように名前を蝕む。
わかっている。万次郎は、本心で言ってくれているのだと。それでもいつか、万次郎は行ってしまう。その確信は揺るがないのに、あたかも本当にどこにも行かず、名前のそばにいてくれるのだと。そう錯覚してしまう。
万次郎の中に巣食う“何か”が、それを許してくれるはずがないのに。
「ねー、名前」
「なあにー」
「このままえっちしよ」
「え! 銭湯行くって言ってたじゃん!」
「終わってから行きゃいーじゃん。綺麗になるし」
「⋯⋯マイキーとえっちしてから銭湯行ける体力が残る女の子なんていないよ⋯⋯」
「あ? 何それ、今の。オレがオマエ以外の女も抱くみたいな言い方。何、オレのことそんな男だと思ってんの?」
無論、名前は一般論として言ったのだ。万次郎が浮気をするなどとは露ほども思っていない。しかし万次郎にはそう捉えてはもらえなかった。
なんせ万次郎の独占欲、嫉妬心、束縛度、構ってちゃん具合ときたらそれはそれは天下一品である。
「違、ごめんなさい、そういうつもりじゃ──」
故に名前は慌てて取り繕おうとしたのだが、時既に遅し。名前の言葉を遮り、万次郎はぺろりと唇の端を舐めた。
「だめ。お仕置き。キツイやつ」
「ひぃ⋯⋯」
いつの間にか意識を失い、「銭湯っ?!」と言いながら朝八時に飛び起きた名前と、名前を抱き枕にして昼過ぎまで寝ていた万次郎の、どっぷり依存しあってるおはなし。