偽寓話に霞む花吹雪の


 春だった。

 真夜中ともいえる時間に鳴った電話。何事かと電話に出た矢先、「やっほー! 名前今暇ー? 夜桜見に行こうよー!」と底抜けに明るい声が飛び込んできて、名前は光の速さで通話を終了した。その直後にオートロックのエントランスのインターホンが鳴り響き、名前はげっそりと溜め息をつく。ソファから無理やりお尻を引き剥がし、渋々モニターフォンの通話スイッチを押す。


「あの⋯⋯五条さん⋯⋯今日任務で疲れてるんです、他を当たってください⋯⋯伊地知くんとか七海くんとか」
「やだよ、何でわざわざヤローと桜見なきゃなんないの」
「じゃあ硝子さん」
「やだ、硝子冷たいし」
「わたしだって冷たいですよ⋯⋯っていうかもうパジャマだし」
「うん」
「いやあの、うんって⋯⋯」
「え? 着替えればよくない? もしかして着替え持ってないの?」
「〜〜〜っそういうことじゃないです!」


 ああもう話が通じない。本気なのか冗談なのか全然わからない。怒りで震えそうになる手をなんとか抑えながら、名前は五条が諦めてくれそうな理由を探す。


「それにほら、すっぴんですし」
「夜なんだからわかんないって。この時間なら人もいないだろうし」
「だからそういうことじゃないんですってば⋯⋯そもそも五条さんにお見せできないんです、とても」
「あっはっは、今更何言ってんの。すっぴんなんて何回も見てるよ、昔から」
「んぐ⋯⋯とにかく、こんな時間にお花見する元気残ってません、他を当たってください。五条さんならたくさんいるでしょ、遊んでくれる女の子」


 と宣った、その瞬間だった。名前は身の毛がよだつのを感じた。モニター越しにも伝わるほど、五条が怒っているのだ。非常に。物凄く。怒っている。

 名前は戦慄した。なぜ。どうして。今の台詞のどこに、怒らせたくない相手ベストスリーにランクインする五条を怒らせてしまう要素があったのだろう。もしかして最後の一言だろうか。いやしかしそれは事実だろうし、実際五条ならそのへんの道端で声を掛ければ何人だって引っ掛けられる。

 やはりわからない。何故五条は怒っているのだろう。

 忙しく思考を回していると、今度は玄関のほうから「名前」と五条の声がした。

 ──え? 玄関?

 慌ててモニターを確認すると、エントランスにあったはずの五条の姿は忽然と消えていた。


「つべこべうるさいな。さっさと行くよ」
「なんで?! オートロックは?!」


 何をどうやったのかわからないが、いつの間にかエントランスを通り抜けていた五条が、いつの間にか部屋の前にいる。軽いホラー案件である。後に、以前酔った名前を五条が送ってくれた際に暗証番号を覚えていたのだと知るのだが、今現在そうとは知らぬ名前には、「わ、わかりましたからせめて着替えさせてください! だから大人しく待ってて!」と答えるのが精一杯だった。





 名前は、五条が苦手だ。

 ひとつ年上の五条とは、十年ほどの付き合いになる。学生時代からだ。いつも五条に振り回される。嫌がらせレベルの身勝手さには何年経っても慣れない。これで五条の性根まで腐っていれば何の後腐れもなく縁を切れるのだが、これがまたそう上手くもいかない。時々、本当に時々真面目な顔をしてみせたり、本当に時々最強ぶりを発揮してみせたり、本当に時々優しさをみせたりする。

 だから、嫌いにはなれないのだ。

 しかも五条にとってはちょうどいい──何がちょうどいいのかと言うと、恐らく虐めるのに手軽なのだろう──相手なのか、やたらと名前に絡んでくるフシがある。そんな相手に選ばれても何も嬉しくないというものだが、五条といる時間全てが苦痛というわけでもなく、そうこうしているうちに気付けば早十年ほどが過ぎようとしている。お陰さまで、年頃だというのに結婚を考える相手も出来やしない。

 だけどやはり、──嫌いではないのだ。





「わあ、綺麗⋯⋯こんな場所知ってたんですか?」


 薄桃色が宵闇に浮かび上がる。

 ぼうっとした淡い影のくせに、その存在は闇を寄せ付けない。花びらひとつひとつが命を持ち、桜全体が息衝いているようで、名前は無意識に胸の前で手を握った。


「うん。知ってたっていうか、超有名だよ」
「へえ、そうなんですね。こんな時間でもライトアップされてるんだ」
「いや、夜中までやってるのは今日だけのトクベツ」
「? そうなんですね」


 わたしそういうの疎いから知らなかったな。そう呟く名前の横顔を、五条は笑みを含んで見下ろす。普段は当然、こんな時間までライトアップなどしていない。任務の合間にようやく都合のついた今日のために、各方面に多少の無理を働いたということは五条のみが知るところである。

 なんだかんだ言いながら、いざ桜を目の前にすればうきうきと瞳を灯らせる名前を見つめる五条の眼差しは柔らかい。しかし、サングラスの奥でそんな双眸が自分を見ているということに、名前は気付かない。だからあんな台詞が出てくるのだ。「五条さんならたくさんいるでしょ、遊んでくれる女の子」だなんて。そんなのいるわけがないのに。

 名前と五条は、もう何年もこの状態だ。

 若かりし頃、自分の気持ちに気付く前から、五条は名前によくちょっかいを出していた。今ならあれは“好きな子には意地悪をしたくなる”という分類に括られると分かるのだが、如何せん最初がそんな態度だったものだから、その態度を変えるのも小っ恥ずかしくて、ずるずるとこんなところまで来てしまった。

 一体いつまで。こうしているつもりだ。

 五条はその長身よりも遥か高く咲く桜を見上げる。闇の中の薄桃は、五条にとっての名前のようだ。


「⋯⋯綺麗だな」
「はい、本当に。⋯⋯あーあ、嫌々連れて来られたはずなのに、本当に綺麗だなあ。ちょっと悔しい」
「アハ、名前は単純で可愛いね」
「⋯⋯またそうやって馬鹿にして」
「本心だってば」
「はいはい、本心なんですもんね」


 こうして取り合ってもらえないのは、自分のせいだということは理解している。何かを変えたいのなら、自分が変わらなければいけないということも。

 しかし今更、どう変われというのだろう。デートのひとつさえ、まともに誘えないというのに。

 ひらひらり。
 桜が吹雪く。

 その一枚を器用に手のひらに乗せた名前が、小難しい顔で呟く。


「わたし、ほんとに嫌々だったんです。任務は大変だったし、明日は⋯⋯あ、もう今日か、今日も朝から調査が入ってるし。⋯⋯けど、連れてきてもらってよかった。ほら見てください、こんなに可愛い」


 差し出された手のひらに乗っている一片の花弁。これまでに見たどんな花よりも可憐に見える。そして、何よりも。

 この笑顔が見たかった。


「僕も、来れてよかったよ」
「何がなんでもお花見したかったんですもんね。相手、わたしでよかったんですか?」
「うん。名前がよかったんだよ」

 
 稀に見る素直さで頷いた五条に、名前は目を丸くした。てっきり「だってこんな時間に名前以外の女の子なんて誘えないじゃーん、迷惑かけちゃうし。仕方ないでしょ」なんて言われると思っていたのだ。故に名前が、「そ⋯⋯そうですか。それならよかったです」と返事をするまで、散る桜を随分と見送ってしまった。

 珍しいこともあるものだ。

 名前がよかったんだよ、だなんて。

 どうせただの気紛れなのだろうが、それでも名前は、もう二度と聞けないかもしれない台詞を大事に記憶の底に仕舞った。それから気持ちを切り替える。せっかくこんな素敵な場所に来たのだ。満喫しなければ。


「さあ五条さん! そろそろ飲みますよー!」
「は?」
「は、じゃないです。お花見といえばビール! 五条さんのノンアルもちゃんとありますよ」
「え⋯⋯まさか来るとき寄ったコンビニでそんなの買ってたの? アッハッハ、それなのによく『嫌々来た』なんて言えたよねえ」
「ふふ、せっかくですから」


 桜だけが見守る中、二人の缶がこつり。軽やかにぶつかる。その光景は紛れもなく、──春だった。



【偽寓話に霞む花吹雪の】

もも様より、現代五条悟のおはなし