天使みたいな某か
天網、とでも言うのだろうか。
もし、わたしの人生が一冊の本のように予め決められているストーリーの上に成り立っているものなのだとしたら。この本を書いてくれた“何者か”──この場合、神さまになるのだろうか──は、随分と大それた転機を用意してくれたものだと思う。
拝啓
神さま。こんなに素敵なイベントを用意してくださってありがとうございます。でも、この本の主人公、つまりわたしですが、わたしではとても太刀打ちできなさそうな案件ですけれども、大丈夫ですか? 無事に生還──もちろん御幸先輩が──できる結末になっていますか?
敬具
などとちんぷんかんぷんに問いかけながら、この先二度と叶うことなどないであろう御幸先輩のお宅訪問へと挑む。
いざ、参らん!
「おっ、お邪魔⋯⋯いえ、し、っ失礼します!」
背筋をこれでもかと伸ばし、敬礼でもする勢いで足を踏み出す。途端、自宅とは異なる香りに包まれ、もうこの時点で卒倒しそうになった。
これが、御幸先輩の、おうちの匂いですか。
同じマンション。同じ造りの部屋。なのに、ここはまるで別世界だ。
「何してんだ? 早く入れよ」
「はっ、ごめんなさい、なんだか恐れ多くて⋯⋯本当に本当に失礼します」
丁寧に靴を揃え、そっとフローリングを踏む。「うちスリッパなくてさ。足冷えねぇかな」なんて気遣いをしてくれた先輩に首を横に振りつつ、直に接地させていただけた感謝を胸の内で連ねる。
とは言ったものの、足音ひとつ立ててはいけないような気がして、自然と忍び足になってしまった。
リビングに入る。一番最初に目に入ったのは、真っ先に部屋に駆け込み炬燵で悠々とぬくぬくしている沢村くんだった。なんてメンタルをしているんだこの子は。今ばかりは一欠片でいいから分けてほしい。わたしなんて、息をするので精一杯なのに。
だってこの空間には、──御幸先輩が溢れすぎている。窒息してしまいそうなほどに。
「そのへん適当に座っててな」
「そ、そのへん」
ここでようやく、部屋の中の様相を認識し始める。物が少なめの、整頓された部屋だ。ソファに炬燵、大きなテレビ。あまり物色するのもよくないと思い、大きな家財だけを把握してちょぼりとソファに腰掛ける。気を抜けば部屋中を見回してしまいそうな視線を、気合を入れて沢村くんに固定する。
すると、キッチンで飲み物を用意してくれているらしい御幸先輩に向かって、沢村くんが元気よく手を上げた。
「キャップー! 俺チャーハンでおねしゃす!」
「始まったよ⋯⋯俺んちはレストランじゃねぇっつーの。つーかお前飲んで来たんじゃねぇのかよ」
「はい! 飲んできましたよ! でももう腹減りました!」
「はいはい、分かったよ。もう何も言わねぇわめんどくせーから。残念ながら具材も揃ってるし」
こんな沢村くんの失礼極まりない態度にも慣れた様子で、御幸先輩は冷蔵庫を物色し始めた。
呆然と二人のやり取りを見ていたわたしの視線に気付いた先輩は、可笑しそうに肩を揺らす。
「ほらな、言った通りになったろ。コイツマジ大物だよな」
「はい、びっくりです⋯⋯」
おおきく首肯してから、浅く腰を下ろしていたソファから立ち上がる。とてもじっとなどしていられない。かといって勝手にキッチンに入るわけにもいかず、その場でわたわたそわそわしながら「あの、何か手伝います」と申し出てみる。
そんなわたしの気持ちを汲んでか、先輩は少し間を置いてから「⋯⋯そう? じゃあ色々運んでもらうかな」と言ってくれた。
指示の通りに必要なものを運ぶ。最後に、「沢村にはこれ以上酒飲ますなよ」と手渡された烏龍茶を、勝手につけたテレビを観ている沢村くんの前に置く。
「⋯⋯ねえ沢村くん」
「ん?」
「どうやったらそんな図太く生きられるの⋯⋯? わたし緊張し過ぎて息するのやっとなんだけど⋯⋯」
「? なんで?」
「え⋯⋯だって、プロ野球選手のおうちだよ?! しかも御幸先輩の! きゃあどうしよう!」
口にすることで自分の状況を改めて認識し、わたしはひとり黄色い声をあげた。そんなわたしに、沢村くんはさも変わり種の人間でも見たかのような眼差しを向け、首を傾げる。わたしとしては心底不服である。そんな眼差しを沢村くんに向けたいのは、わたしの方なんですけれども。
しかしそんなわたしの気持ちに気づくはずもなく、沢村くんは続ける。
「まぁプロだけど⋯⋯でもキャップはキャップだろ? 別にプロになったからって何も関係ねーよ。変に肩書気にしてっと、キャップが寂しがるぞ。ねぇそうですよねキャップ?! 寂しがりですもんね?!」
沢村くんが声を上げる。会話が聞こえていたのか、御幸先輩は真顔で「いやお前はもう少し気にしろよ。それに寂しがりじゃねえ」と切り捨てた。
確かに、そのとおりだ。
肩書がどう変わっても、御幸先輩は御幸先輩だ。彼という人間は、何も変わらないはずなのだ。⋯⋯いやでも、もともとの関係性からしてわたしはただのファンなのだから、この家に来てからの反応は別に異常ではないと思う。
そして沢村くん。いい感じのこと言ってるけど、それでもお世話になった先輩に対する態度ではないんだよなあ。
と、思ったので、せっかくだから一部を口にしてみる。
「沢村くんは、元チームメイトだから。そう思える関係性が根底に築かれてるんだよね、きっと。ほんとに素敵だと思う。でも⋯⋯わたしはほら、高校時代からのファンクラブ会員なだけだし」
「うーん⋯⋯なーんか違う気すんだよなー」
わたしの言葉に、沢村くんの首がなおも傾く。「応援団だって、俺らの仲間だろ?」と真っ直ぐな目で言われ、わたしはぱちくりと彼を見返した。
「えっと⋯⋯?」
「うーん⋯⋯苗字は何かスポーツすんのか?」
「え、わたし? ううん、まったく。体育くらいかな」
「そっか、じゃああんま実感したことねぇかもな」
「? 何を?」
なかなか要旨を掴めない。なんとなく分かりそうで、しかし掴めない雲のようにふわふわとしている。
その時、この短時間でスープ──めちゃくちゃいい匂いがする──を拵えた先輩が、カップを運びながら話に入ってきた。
「応援の力ってさ、すげぇんだぜ」
「?」
「声援とか、球場の雰囲気とかさ、そういうまわりの力で試合がひっくり返るなんてこと、特に高校野球じゃよくあるだろ。流れはプレーだけから生まれるわけじゃねぇからな。俺らを応援してくれる声ってのは、当人たちが思ってる以上に、俺らに届いてるんだぜ」
やわらかな瞳だった。
御幸先輩のこんな顔──わたしは初めて見た。野球に関する場面でしか会ったことがなかったから。だから。なんだか、胸が詰まって。泣きそうになってしまった。
慌てて目を伏せると、頭の向こうから沢村くんの高笑いが聞こえてくる。
「だはは! たまには良いこと言いますね! 正に俺もそれを言おうと思ってたんです!」
「あっそう。そして『たまに』は余計だっての」
御幸先輩の台詞を綺麗に聞き流して、沢村くんは続ける。
「だからな、苗字。自分のこと、ただの観客だなんて思うな。自分も今のキャップを生み出した一人なんだって胸張っとけ!」
「沢村くん⋯⋯」
「そんで俺くらいになると、今のキャップがあるのは俺のおかげ! くらい思えるようになるからな! お前も頑張れよ!」
「そりゃとんだ思い違いだなオイ」
呆れてキッチンに戻っていく先輩が、「悪りぃけどもう一つだけ手伝ってくれるか。もうすぐチャーハンもできっから」と言ってくれたので、浮かんだ涙を高速瞬きで押し返し、忠犬のようにあとをついていく。
そして出来たてほかほかのチャーハンを手にリビングに戻った、その時だった。わたしは唖然として足を止めた。
「⋯⋯うっそ」
「? どした?」
「あの、御幸先輩⋯⋯沢村くん、寝ちゃいました⋯⋯」
「は?」
目を疑った。リビングを離れてたかだか二分程度だ。二分前まではばっちりと覚醒した状態で会話をしていたのに。何がどうして、炬燵から飛び出し、フローリングで大の字で爆睡をキメられるのだろう。
「なんでこんなところで⋯⋯ていうかお酒飲んでたとはいえ寝るの早すぎ⋯⋯」
テーブルにチャーハンを置き、沢村くんの横にしゃがみこむ。「沢村くん! こんなとこで寝ないで! ご所望のめちゃくちゃ美味しそうなチャーハンできたよ! 見て!」と声をかけつつ、ゆっさゆっさと容赦なく揺する。
そんな折だ。
突然沢村くんの手が伸びてきて、勢いよく──わたしの腕を強く引いた。
「っえ?! う、わ、ぁ」
「ん〜〜〜キャップゥ〜〜〜また俺の球受けて下さいよ〜〜〜」
傾いだ身体を問答無用で羽交い締めにされ──本人的には抱きついているのかもしれないけれど──、わたしは反射的に「きゃーーーー!」と可愛くもない声を上げてしまった。先輩が何事かと駆けてくる。
「今度は何だ?!」
「お、お助けください〜〜〜」
酔っ払いに物理的に絡まれているわたしを見て、先輩はすぐに救助態勢に入ってくれた。
「こら離れろ沢村何やってんだ⋯⋯すげぇ力だなオイ⋯⋯つーかお前これ完全にセクハラだぞ」
「キャップゥ〜〜〜俺の球受けて〜〜〜」
「うわっ、俺に抱きつくな馬鹿」
もっちゃもっちゃと揉み合ってから、沢村くんはぱたりと力が抜けたように再度深い眠りへと落ちていった。先輩の口からも、深い溜め息が落ちる。
「この馬鹿⋯⋯何しでかすか分かったもんじゃねぇ。ちょっと遠くに寝かせてくるわ」
先輩は沢村くんの足首をむんずと掴み、勢いよく引っ張っていく。「ベランダにでも出しときてーな」と言いながらリビングを出ていくその様は、見ていて気持ちがいいほど潔い引っ張りっぷりだった。なんせ沢村くんの後頭部がフローリングと盛大に擦れている。禿げてしまいそうだ。
いや、他人の禿の心配をしている場合ではない。
沢村くんが退場してしまった今、正真正銘、御幸先輩と二人きりという奇跡のような空間が爆誕してしまうのだ。
そんな僅か先の未来を想像して、わたしはお腹を抑えた。
「うう、緊張しすぎてお腹痛い⋯⋯ご飯なんて食べれないよ⋯⋯」
しかし、御幸先輩の手料理だ。米粒ひとつ残すわけにはいかない。
つまり今ここに、人生最大のフードファイトも始まろうとしていた。
炬燵には入らず、テーブルの前で正座で待機すること、約一分。「はーやれやれ。あっちの部屋に押し込んできたわ」と先輩が戻ってきて、炬燵に入る。それを確認してから、口を開く。
「あの、御幸先輩。改めて自己紹介をさせていただいてもよろしいですか」
「なんで?」
「え⋯⋯だって、御幸先輩わたしのこと知らないですよね⋯⋯? 昔からわたしが追っかけまわしてるだけだし」
先輩はぽかりと口を開けてから、「はっはっはっ」と笑ってみせた。
「何、俺が名前も知らねぇ子に飯作るようなヤツだと思ってんの?」
「え⋯⋯?」
「──苗字名前。名前ちゃんだろ? 知ってるよそんなの、ずっと前から」
わたしは瞠目した。鼓膜に刺さった言葉が、かなりのタイムラグを経てから脳に刺さる。
──名前、ちゃん⋯⋯?!
理解したその刹那、何かに心臓のど真ん中を撃ち抜かれた感覚を覚え、わたしはその場でぱたりと倒れた。
「お、おい、何だよ大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃないです死にました⋯⋯ちょ、ちょっともう一回名前呼んでもらってもいいですか、気付け薬的な感じで⋯⋯」
「俺は全然いーけど⋯⋯気付けっつーか、その様子からするとトドメじゃねぇの⋯⋯?」
とても先輩の顔を見ることができず目を瞑っていたから分からないけれど、先輩は困惑半分、呆れ半分といった感じだった。それを全体的に面白可笑しさで包んでいる。
恐らく、沢村くんに慣れているのと同様、わたしにも慣れているのだろう。
「いいんですトドメでも何でも。ひと思いにお願いします⋯⋯」
「けど名前ちゃんって言うだけで倒れられたらこの先名前も呼べやしねぇ⋯⋯って、あ、言っちまった」
きゅう、と再度心臓が痛む。二ヶ所も撃ち抜かれてはたまったものじゃない。地に伏せり悶え苦しみながら、わたしはさっきまで眺めていたとおい空へと想いを馳せた。
拝啓
神さま。あなたのお陰でわたしはそろそろ召されてしまいそうですが、わたしを迎える準備は整っていますでしょうか?
敬具
◆天使みたいな某か◇
理沙様より、「一番星が落ちちゃって」続篇