きみの釦にもういいかい
鼻先を掠める秋の匂い。襟足をくすぐる風に、心地よい涼しさが混ざる。高い空。刷毛で掃いたような雲が広がる、秋の日だ。
放課後の部活に向けウォータージャグの準備をしていた名前に、幸子が「あ! 教室にこの間のスコアブック忘れてきた! すぐ取ってくるから待ってて!」と声をかけた。他のマネージャーは掃除当番などでまだ来れていない。わかった、と返事をして幸子を見送り、名前はおおきなジャグをじっと見遣った。
「⋯⋯一人で持ってっちゃおっかな」
中身が詰まったウォータージャグは重い。とても。それは皆が知るところである。故にいつも二人で運んでいるわけだが、魔が差したとでも言おうか。ふと、やってみたくなったのだ。
「よい、しょっと⋯⋯お、意外といける、かな?」
なんて思ったのも一瞬のこと。腕はすぐに悲鳴をあげ、バランスも上手く取れず、右へ左へふらふらよたよた。やはり幸子を待とうかと思い直した、その時だった。
「無理すんな、危ねぇだろ」
「っわ」
聞き知った声がそう告げるのと同時。ずっしりと掛かっていた荷重が、羽根でも生えたみたいに軽くなり、そして名前の手を離れる。
慌てて見上げた先では、既に着替えを済ませ練習に向かう彼の姿があった。
「く⋯⋯倉持くん」
「これどこ持ってけばいいんだ? いつものとこか?」
「そうだけど、でも」
「でもじゃねぇよ、つべこべ言うな。じゃー先行くからな」
「あっ、待って、わたしも一緒に」
持つよ、と言いかけて、自分の力では少しの足しにもならないだろうと思い直す。むしろ足手纏いだし、倉持がそれを許してくれるとも思えなかった。
言い淀んだ言葉を、言い直す。
「⋯⋯こっちの荷物持ってわたしも一緒に行く。それ、持ってくれてありがとう」
「? おう」
別の備品を抱え、倉持の横に並ぶ。
やはり幸子を待っていればよかった。倉持にこんなことをさせてしまうなんて、申し訳ない。そう思う反面、グラウンドまでの少しの時間だが、思いがけず二人で話す時間が手に入ったことを喜んでしまっている自分もいる。
「ね、今日の数学わかった? わたし後半からわかんなくなっちゃって」
「あー、確かにお前ああいうの苦手そう」
「明日の休み時間にでも教えてくれる?」
「ああ、いいぜ。その代わり今日また一戦交えんぞ」
「ふっふ。受けて立ちます! 今日も勝つのはわたし!」
「いや俺だね」
「でもわたし最近上手くない? 三連勝だよ」
「うっせ。だいたい兄貴仕込みとかいうお前のワザずりーんだよ」
とかなんとか。いつも通りの会話に花が咲く。名前はこの時間が、たまらなく好きだ。倉持と話すときは飾らない自分でいられる。楽しい。そのくせ少しの緊張感と、背伸びしたくなるような擽ったさが混ざる。
これを、淡い恋と呼ばずして。
なんと呼ぼうか。
それに気付いてから、一年程が経つだろうか。今の関係が心地よくて、この関係が壊れてしまうのが怖くて。名前は倉持に、──何も言えずにいる。
そんな名前を、初秋の風が撫でる。
倉持がそれを聞いたのは、本当に偶然のことだった。
部活が終わりそれぞれ片付けをしている最中のことだ。マネージャーたちが集まっている部屋の前をたまたま通り掛かったときに、ふと聞こえてきたのだ。
「ねー、名前。なんか最近いい感じじゃない?」
「そんなことないよ。いつも通り」
「えー、そう? わたしたちからするともう付き合ってるみたいに見えるけど」
「ふふ、やだ、そんなこと言って。⋯⋯でも、そうだったらいいのになあー」
「⋯⋯告白しないの?」
「できないよ、怖いもん。それに、向こうはわたしのこと友だちとしか思ってないよ、きっと」
名前の声に、倉持は思わず足を止めてしまった。それが間違いだった。そのまま通り過ぎてしまえばよかった。だってこんなこと、知りたくなかった。
知りたくなんて、なかった。
──アイツ、好きなヤツいたんだな。
無意識に拳を握る。
倉持には、それなりに自負があった。同級生として、部員とマネージャーとして、ゲーム仲間として。名前と倉持の距離は、他の男と比べるとちゃんと近いと。名前が倉持に特別な気持ちなどは抱いていなくても、それでも、名前には結構──ともすれば自分が一番──近い存在だと思っていた。
しかしどうだ。
名前にはきちんと想い人がいて、しかも周りから見れば“付き合っている”ともとれる関係だというではないか。
名前のことはよく見ているつもりだった。それなのに、そんな男の影にすら気付かず驕っていた自分は実に滑稽だ。
この事実は、倉持の心にかつてない衝撃を与えた。なんだ、これ。胸が酷く痛い。喉の奥に熱い鉛がつかえているみたいだ。
眉を寄せる。唇を結ぶ。ほんの一間だけ、きつく瞼を閉じた。そしてすぐ、何かに決別したように目を開け、倉持はそっとその場を離れた。
外見上はこれまでと変わらぬ関係が続いていた、とある日のことだった。空の高くに薄く浮かぶ雲が、澄み切った青によく映える。晴れた日だった。
「ね、倉持くん。今度の学園祭、一緒にここ行かない? 小湊くんのクラスの出し物なんだって。ゲーマーの腕が鳴るよこれは!」
学園祭パンフレットを掲げ倉持の席にやって来た名前が、意気揚々と誘う。
催しの内容にしても、その主催クラスが春市のクラスということにしても。倉持の気が向く要素しかないように思っていた名前は、浮かない表情の倉持に首を傾げた。
「? 倉持くん? どうかした?」
「や、えーーっと、さ⋯⋯二人で行くのはやめとこうぜ」
「え⋯⋯」
「だってお前⋯⋯勘違いされたら困るだろ」
名前を、バットで殴られたような衝撃が襲う。目の前でちかちかと光が飛び交う。今の倉持の言葉はどういう意味だろうか。鈍くなった脳で、名前は考える。倉持の言葉が頭の中を何度も行き来する。
──勘違いされたら困るだろ。
それはつまり、倉持と名前が二人で学園祭を回っているところを見られたくない人物が、倉持にはいるということで。それはつまり、倉持と名前が“そういう関係”なのだと勘違いされたくない相手がいるということだろうか。
その言外の事実は、名前の心に鋭く刺さってやまなかった。
このままでいいと思っていた。友だちのままで。一緒に楽しく過ごせたら、それでいいと。
しかしどうだ。
“倉持と友だちのままでいる”世界と、“好きな人がいる倉持と友だちのままでいる”世界。そのふたつの間にこんなに深く苦しい溝があったなんて。
「⋯⋯そ、そっか、そうだよね」
「⋯⋯悪りぃな、せっかく誘ってくれたのによ」
「ううん、わたしこそごめんね」
苦しそうに視線を逸していた倉持。辛そうに俯く名前。互いが明後日の方向を向いていたために、互いの表情には気付くことができなかった。
それからだ。
倉持と名前の間に、少し。少しだけ。ぎくしゃくとした空気が流れ、どこかよそよそしさが混ざるようになってしまったまま、学園祭の日を迎えた。
──今頃アイツ、誰かと小湊のクラスでも行ってんのかね。
そんなことを思いながら、行く宛もなく適当に校内を彷徨いていた、その時だった。後方の階段からバタバタと駆け下りる足音。何かに追われているかのように焦ったその音は、倉持のいる廊下に向かってきていた。
「? 何だ?」
「わ、くっ、倉持くん!」
「苗字⋯⋯? 何してんだそんな全力疾走して」
倉持の姿を認め急ブレーキをかけた名前は、倉持を三歩分追い抜いたところでバランスを崩しそうになりながらなんとか止まった。
それに対して倉持は自然と一歩退く。
名前とは距離を取らなければと思っていたところであるし、ここ最近の微妙な空気がその気持ちに拍車を掛けていたからだ。
「ちょ、倉持くんも早く!」
「⋯⋯は? 何が──」
この状況についていけず首を捻る倉持の手首を、名前の手が掴む。こっち来て! と有無を言わさず引っ張られ、倉持は備品置き場として使われている教室に半ば無理やり連れ込まれた。使っていない机と椅子が無秩序に置かれている間、微妙な隙間に押し込まれる。抗議する間もなく名前もそこにむぎゅりと入ってきた。
──⋯⋯いや、近ぇよ。
「⋯⋯おい、何だってんだよ」
「しっ! 静かに!」
小声で囁かれ、倉持は反射的に口を噤んでから怪訝そうに眉を顰めた。
この状況は宜しくない。非常に、だ。人気のない教室で、こんなに密着して。もし誰かに見られでもしたら。
真剣な眼差しで教室の入り口の様子を窺っている名前に、小声で問う。否、問うというよりは命令に近かった。
「コラ、そろそろ理由を言え」
「あ⋯⋯ごめん、ちょっと夢中になっちゃってた。あと五分逃げ切ったら景品もらえるんだ」
「⋯⋯ああ、隠れんぼでもしてんのか」
記憶を浚う。確か、沢村のクラスの出し物で校内を舞台にした隠れんぼだか鬼ごっこだかをやると言っていたような気がしなくもない。
「景品はなんと、この間話してた例の新作ゲームソフトなの。今はまだ沢村くんの私物なんだけど、逃げ切ったら景品として提供することになってるんだって!」
「は⋯⋯つーことはなに、お前が逃げてんのって」
「そう! 鬼の形相で参加者を片っ端から捕まえまくってる沢村くんです! 野生の勘がすごくて、わたしのほかにあと一人しか生き残ってなくて──」
言葉を遮るように、名前のポケットから通知音。目にも止まらぬ速さで通知を確認した名前は、さらに身を縮こめた。
「わ、その子も捕まっちゃったって。あとわたしだけだ⋯⋯しかも沢村くんこっちに向かってるって」
「んな面倒くせぇことに俺巻き込むなよ⋯⋯もう行くからな」
「まって、まって、今出てったら見つかっちゃう。慌てて咄嗟に隠れさせちゃったのは、ほんとにごめん。でももう少しだけ付き合ってくれない⋯⋯?」
心底申し訳なさそうに眉を下げながらも、「景品貰えたらまた一緒にゲームできるし!」と楽しそうに言う名前の笑顔に、倉持は舌打ちをしそうになった。
──そんな笑顔、向けんじゃねぇよ。
そう思うのに、久方ぶりに見た気がする笑顔に胸が切なく痛んでしまった。それと同時に、自分の覚悟が如何に軽々しいものだったのかを思い知る。よく、こんな中途半端な気持ちで。名前と距離を取ろうなどと思っていたものだ。
心臓がうるさい。名前の甘い匂いがする。触れている肩が熱い。もういっそのことこのまま、抱きしめてしまえたら。──どんなによかったことだろう。
倉持は、唇の隙間から絞り出すように訊ねる。
「お前⋯⋯いーのかよ」
「? 何が?」
「俺とこんなとこいるの見られたら困んじゃねぇの」
「⋯⋯あ」
名前の瞳が困惑に揺れる。それから何かに思い至ったように倉持を真っ直ぐに見て、ゆっくりと視線を落とした。
「⋯⋯そうだったね、倉持くんが困っちゃうね。ほんとにごめんなさい。わたし、うっかりしてて⋯⋯もう引き留めないから」
「いや、俺は別に⋯⋯俺じゃなくてお前が困んだろっつってんだよ」
「え? いやわたしは全然⋯⋯」
「は?」
この微妙な話の食い違いは何だ。ひとつぶんだけボタンを掛け違えたような。それでいて何かが根本的に違っているような。
聞くべきかを一瞬迷う。
名前の本心を知る覚悟が自分にあるのか。例えまやかしものだとしても、上辺だけの関係だとしても、名前とのこれまでの関係が壊れてしまう可能性を受け止められるのか。
迷って、──倉持は口を開いた。
「だってお前⋯⋯いいヤツいるんだろ」
「⋯⋯はい?」
「この間聞いちまった、部活のあと話してるの。盗み聞きするつもりはなかったんだけどよ。⋯⋯はたから見ると付き合ってるように見えるくらいいーカンジなんだろ」
気不味く思いながらそう告げると、名前は大きく目を見開いて硬直した。顔色だけがどんどん赤くなっていく。そんな反応を見せられて、倉持は苦笑いを落とすよりほかなかった。ああ、そいつのこと、ほんとに好きなんだな、と。
「うそ⋯⋯あれ聞いてたの⋯⋯?」
「悪りぃ」
「ううん、倉持くんが謝ることではないんだけど⋯⋯その、だって⋯⋯」
名前を嘗てないほどの羞恥が襲う。まさかあの会話を本人に聞かれていようとは。
倉持は、よく気が付く。周りのこと。人間関係の機微。それなのに自分のこととなると少し疎くて、だから、名前の相手が倉持本人だとは思ってもいないのだろう。それで気を遣って「困んじゃねぇの」と言ってくれた。
と、ここで、名前の脳裏にひとつの疑問が浮かぶ。
──あれ? いや、でも。
倉持はこの前、学園祭に誘ったとき「勘違いされたら困るだろ」と言っていた。あれは倉持に意中の相手がいるということだと思っていた。
しかし今、「俺じゃなくてお前が困る」と言っている。
「でも、倉持くんこそ⋯⋯好きな子いるんじゃないの?」
「は?」
「だってこの前、小湊くんのクラスの出し物誘ったとき⋯⋯」
「ああ、あれは、お前が誰かといーカンジだっつーから」
倉持の言葉に、名前は大仰な溜め息とともに両手で顔を覆った。はみ出した耳が真っ赤に染まっている。
「⋯⋯そ、」
「⋯⋯そ?」
「それ倉持くんのことです⋯⋯」
消えてしまいそうな囁きに、今度は倉持が大きく目を見開いて硬直した。かちり。違えていた何かが、正しい位置に嵌る。否、違えていたというよりは倉持が勘違いしていたというのが正しいのだが、そんなことより、名前はいま何と言った。
「お前何言って⋯⋯」
「だから、その⋯⋯倉持くんのことなの。あの日話してた人も、わたしが好きな人も。⋯⋯あんなふうに『付き合ってるみたいに見える』だなんて話してて、本当にごめんなさい。気悪くしちゃったよね。⋯⋯できれば気にしないでこれまで通りでいてくれたら嬉しいんだけど、⋯⋯やっぱ無理かな」
困ったように笑う名前を凝視した、その刹那のことだった。教室の外の廊下を、嫌というほど聞きまくっている大きな声が走ってくる。
「苗字先輩ー! この先にいるのは分かってる! 観念しろ! わはははは!」
「わ、沢村くん来た。途中から隠れてるの忘れてた」
唇を両手の指先で押さえながらなんとか聞き取れるくらいの声で呟く名前を、入口から隠すように手を回す。
「⋯⋯少し黙ってろ」
「え、⋯⋯っきゃ」
そのまま腕に閉じ込め、「バカヤロ」と呟く。本当に、なんて馬鹿なんだろう。沢村がいなくなったら、今度は。自分の気持ちを伝えよう。
そう決め、このままドアが開かないことを祈った。
◇きみの釦にもういいかい◆
のん様より、倉持くんとヒロインマネちゃんの両片想いハッピーエンド