忘却証明の終了記号


「あ、いたいた! 苗字先輩! ちょいとお時間ありますか?!」


 講義室の入口からそんな声が聞こえてきたのは、講義が終わった二十秒後のことだった。名前のもとへと寄ってきた沢村を、鞄に教材を仕舞いながら見上げる。


「珍しいね、わざわざ来るなんて。なにかあった?」
「ときに先輩、クリスマスイブはお暇ですか?」
「イブ?」


 首を傾げた名前に、沢村がとある画面を見せる。「バイト募集」と書かれたそれには、何種類かのたいそう美味しそうなケーキの写真が並んでいた。


「これっス! クリスマスの臨時バイトなんスけど、一緒に行く予定だったヤツにこの間彼女ができて」
「なるほど、わたしがその子の代わりにクリスマスケーキを売りまくるってわけね」


 沢村の意図を理解した名前は、少しだけ意地悪のつもりで言ってみる。


「わたしに彼氏が出来たかは確認しなくてよかったの? まぁいないんだけど」
「? だって先輩、まだあの人のこと大好きじゃないっスか! だから確認なんて要りませんって。でしょ?」


 何ということだ。

 ほんの少しの意地悪のつもりが、強烈なカウンターを食らって、且つ一瞬にして再起不能にさせられた。名前は言葉に詰まり、それから机にぱたりと突っ伏す。


「嘘でしょ沢村⋯⋯鈍いのか鋭いのかどっちかにしてよ⋯⋯」


 暦は今日から十二月。そこかしこにクリスマスの気配が近付いてきている、冷たい風が吹く冬だ。あたりがきらきらと輝いて、どこか懐かしくなるメロディーが流れる。もうサンタに胸をときめかせる歳でもないのに、幼い頃の名残りなのか、心がそわりと浮き足立つ。

 そして、今でもやっぱり、苦しくなる。

 あの頃は、一也がいた。

 冬合宿中のクリスマスパーティーも、高校を卒業してから迎えた初めてのクリスマスも。

 隣には、一也がいた。

 未だにこんなに忘れられないでいる自分は、一体どうしてしまったのだろう。どうしたいというのだろう。過去に戻れることなどないのに。再び結ばれるわけでもないのに。いつまでも引き摺って。どんな未来を望んでいるというのだろう。


「わはは、鋭いも何も世の中にバレバレっスよ! で、どうですか? バシバシ稼ぎに行きません?」


 これだから元気玉は。デリカシーの“デ”の字くらい持ち歩いてもらいたいものである。
 この一瞬で色々な気力を失った名前は、突っ伏したままでぽそりと答える。


「⋯⋯わかりました、わたしが行かせていただきます⋯⋯どうせ何も予定なかったし⋯⋯」
「あざッス! 助かります!」
「うん。時給もいいしね、イブだけに」
「そーなんですよ! 恋人たちの夜だから!」
「あはは⋯⋯」


 辛うじて笑みだけを返した名前は、目線だけ動かして窓から空を見上げる。一片の雪さえ見えない空には、皮肉なほど綺麗な青が広がっていた。





 そしてイブの日、バイトを終えた名前は休憩室でげっそりしながら足を宥めていた。


「足が、棒のようだ⋯⋯!」
「わはは、衰えましたね苗字先輩! 俺なんてあと十時間はいけますよ!」
「あ、そう、元気だね⋯⋯」


 いつ以来だろうか、こんなに立位を取り続けたのは。或いはマネージャー時代であれば平気だったかもしれないが、二年も碌に運動をしていない名前には随分と堪えた。加えて、慣れぬ接客に、蝶よりも花よりも丁重に扱わなければならないケーキのお相手。疲労困憊もいいとこだ。

 なけなしの気力体力を振り絞りバイトを終えた頃には、すっかり生ける屍のようになっており、日はとっぷりと暮れていた。街の綺羅びやかな灯りも、心躍る音楽も、肩寄せ合う恋人たちも。どれもが名前に心労としてのしかかる。


「さあ苗字先輩! よく働いたことだし、行きますよ!」
「え、どこに⋯⋯まだ何かあったっけ」


 早く家に帰り、眠りたい。今はそれしか考えられない。それなのに沢村ときたら、「働いたあとは飯! 基本でしょ! 俺奢りますから!」などと意味不明なことを言いながら、がっちりと名前の腕を掴んでくるではないか。


 いつかの飲み会拉致事件が彷彿とされ、今回の名前は最初から抵抗を諦めた。

 沢村のお気に入りの店に連れて行ってくれると言うので、足に鞭を打ちながら後を追うかたちで歩いていると、突然沢村が足を止めた。ちょうど前を見ていなかったタイミングだったので、急停止した沢村の無駄に逞しい背中に顔面をぶつけて、止まる。


「いった⋯⋯なに、どうしたの」
「見てくださいアレ。綺麗っスね」
「?」


 沢村が差した先を、鼻を擦りながら見遣って。名前は息を呑んだ。


「⋯⋯あ」


 少し向こうに、目映い光の粒が散る。見上げれば誰もが息を呑む装飾。聳えるようなクリスマスツリーが、輝いていた。夜に浮かび上がる数多の光は、行ったこともない異国の空気を纏う。

 ああ、どうして。

 漏れた吐息が真白にくゆる。ああ、どうして。気が付かなかったのだろう。だって、ここは。

 ──最後に一也と訪うた場所だ。

 名前は無意識に足を向ける。気が付けばイルミネーションの真下まで来ていた。今でも鮮明に思い出す。あの日のこと。音も、景色も、一也の言葉も。

 名前と一也は、この場所で別れた。

 繋いでいた手が離れて、冷え切った手を持て余し、「今までありがとな」なんてらしくもない一也の言葉を抱いて、ひとり家に帰った。

 心臓がつきり、つきりと痛み続ける。とっくに枯れたはずの涙がせり上がる気配を感じ、目頭に力を込める。それでも視線を逸らすことはできなかった。隣に沢村が並ぶ気配がする。


「少しだけ見て行ってもいいかな」
「⋯⋯いーっスよ。好きなだけ」


 何かを察したのか、沢村は無言で付き合ってくれた。





 恋は恋で忘れろ、なんて。

 あだ疎かなことを説いたのは何処の誰だろう。
 忘れられるのなら、と逃げてみた先で待っていたのは、結局は忘れられないという事実だけだった。

 忘れられるわけがなかった。

 嫌いになったわけでも何でもなかった。でも、上手くいかなかった。プロの世界。大学生。生活に重きを置く場所が異なっただけ。同じ空間で過ごさなくなっただけ。変わったことはそれだけだったはずなのに、互いに向き合うことができないまま、すれ違って、拗れて、苦しくなった。名前に対する想いは何も変わっていなかったのに。なぜあの頃の自分は、離れる道しか選べなかったのだろうかと。今でも責めたくなる。

 御幸は溜め息をつく。名前のことを考えていた自分に気付いたときに落ちる、自嘲の溜め息だ。

 近頃、ふとした拍子に名前を思い出すことが増えた。数か月前、飲み会で名前と再会してからだ。

 綺麗になっていた。「のんびり一人を謳歌中」なんて言っていたが、あれでは周りが放っておかない。世間はクリスマスだし、彼氏の一人や二人出来ていることだろう。きっと今頃、御幸の知らない男と肩を並べて歩いている。

 そんなことを考えて、御幸ははたりと瞬きを止めた。

 一体何を考えている。これではまるで、名前とよりを戻したいみたいではないか。名前を手放しておいて。別の女と付き合ったりしておいて。それなのに。

 ⋯⋯戻したい、のか?

 御幸は座っていたソファの背凭れに頭を預けた。頭がやけに重たい。恋愛のことを考えるのは酷く疲れる。向いていない。面倒くさい。考えたくない。

 それなのに、名前のことが頭から離れない。

 自らが発する辛気臭い空気に耐えきれなくなった御幸は、重たい腰を上げる。散歩でもしよう。いや、買い物でもしよう。外の空気を吸えば、ぱーっとお金を使えば、少し気が晴れるかもしれない。

 などと浅はかなことを考えていたのが三十分前のこと。街へ出ればクリスマス一色、あちらこちらにカップルが犇めいている。気が晴れるどころか、名前のことを考えるために外に出たといっても過言ではない状況だった。

 げに浅はかなり。

 もうこうなったらヤケだな。
 そう思い、あの日の場所へと足を向けることにする。あの場所なら。名前と最後に来た場所なら。あの頃の気持ちを鮮明に思い出して、やっぱり戻ることなど出来ないのだと踏ん切りを付けられるかもしれない。

 しかしこれが、更に浅はかな行動だった。今日一日で向こう一年分の浅はかさを使い切ったかもしれないくらい、情けない。


「⋯⋯なんで居んだよ」


 降り注ぎそうなクリスマスツリーの下。イルミネーションに照らされる横顔。静かに光を仰ぐその姿を、見紛うわけなどあるはずがなかった。

 驚きとともに、せり上がる。ああ、本当に綺麗になった。寒々とした空気のなかで、名前が灯る場所だけが温度を持っている。

 御幸は幾分離れた場所から、しばらくその横顔を見つめていた。動くことができなかった。

 名前の隣には、予想通りとでも言おうか。御幸の知らない男、ではなく、嫌というほど時間をともにした沢村がいたからだ。

 イブにわざわざ二人で来るということは、つまりはそういうことだろう。先の飲み会の時は御幸に彼女がいて、今日は名前に沢村がいる。タイミングが合わないというのは、結局自分たちはそういう運命ではないのだろう。

 そう言い聞かせ、なんとか踵を返そうとした、──その刹那だった。

 ずっとツリーを見ていた名前が、何かに導かれたかのように視線を動かした。それは真っ直ぐに御幸に向かい、そうしてばちりと目が合う。


「──ッ」


 心臓が、止まるかと思った。
 瞠目しているのが自分でも分かる。瞼が動かせない。声が出ない。ただ、名前の姿だけが視界を占める。名前も甚く驚いた様子で硬直していた。

 ちく。たく。ちく。たく。

 秒針が十は進んだ頃だろうか。名前が突然、脱兎の如く駆け出した。御幸も沢村も置き去りにして、ちょっと信じられないくらいの速度で駆ける。

 名前の逃亡に、御幸の身体も反射的に動く。つまり、名前を追っていた。

 速いとはいえ、そこは男と女である。追ってみれば案外呆気なく、すぐに名前に手が届いた。


「おいコラ人の顔見て逃げんな!」
「なっ、なんで追いかけてくるの?!」
「お前が逃げるからだろ!」
「そのまま逃してよ!」
「いやなんでだよ」
「こっちこそなんで?!」


 走っていた上に──至極短距離ではあるのだが──こんな不毛な言い合いをしたものだから、御幸はともかく名前はすっかり息が上がっている。「くそう運動不足め⋯⋯」と息も絶え絶えに呟く名前に、「不足し過ぎだろ」と笑ってしまった。

 少し息を整えてから、名前は恐る恐るといった様子で御幸を見上げた。


「⋯⋯なんでここにいるの」
「なんとなくっつーか、たまたまっつーか」
「あ、彼女と待ち合わせ?」
「や、とっくに別れた」
「あ、そう、なんだ⋯⋯」
「てか沢村は? どこ行った?」
「ああ、沢村⋯⋯忘れてた」
「忘れてたってお前、彼氏にそんなこと言うなよ」


 彼氏、という言葉にちくりと痛んだ胸を自覚しつつそう言うと、名前はきょとりと首を傾げた。


「? 彼氏って、誰が?」
「え、沢村」
「え、付き合ってないです」
「は?」


 各々云々。

 名前の説明を聞き終えた途端、溜飲が下がった。否、下がってしまったのが分かった。御幸は自嘲する。こんなんもう、ダメじゃん俺。普通に好きだろ、コイツのこと。

 たくさん失った。
 たくさん傷付けた。

 それでももう一度、手を伸ばしていいだろうか。一度手放さなければその大切さに気付けなかった愚昧な自分ではあるが、だからといって“今”をみすみす逃すことなど出来ない。もう一度、アプローチしてもいいだろうか。いや、そうさせてもらう。さてどうしようか。と考え始めた、その時だ。

 名前の鞄と、御幸のポケットと。ほぼ同時に音が鳴り、揃って携帯を確認する。

 名前の画面には、「苗字パイセン! 俺帰りますから、ちゃんとキャップとイチャコラして下さいね!」とあって、名前は思わず「何言ってるのこの子!」と叫んだ。
 対して御幸の画面では「御幸先輩! 俺来るときホテル見ましたよ! ここッス! ご健闘を!」とご丁寧に地図付きで好き勝手なことを言っていて、御幸は近年稀に見る呆れ顔で「何のご健闘だよ、何の」と吐き捨てていた。

 それぞれが溜め息とともに携帯を仕舞ったその時、ひゅるりと小風が吹き付ける。名前は身を竦めた。揺れるスカートの裾が寒々しい。


「お前、寒いんじゃねぇの」
「⋯⋯寒いよ」
「だよな、寒がりだったし。俺のでよかったらコレ」


 御幸は首に巻いていたマフラーを名前の首に巻きつける。名前は大きく目を見開いて、それから切なく眉を寄せた。

 ──一也の、匂い。

 名前がこれまで辛うじて堰き止めていたものが、溢れだした瞬間だった。


「⋯⋯名前?」
「一也のばか⋯⋯寒いに決まってるじゃん⋯⋯」
「え、おい⋯⋯」


 ほろほろと、名前の頬を伝って涙が落ちる。それを追って、隠すように名前の両手が頬を覆う。

 あのとき見た涙と、同じだった。あの日。──名前と別れた日と。

 それを見ただけで、御幸には分かった。名前が今でも、自分を想ってくれていることが。いや、分かっていたと言うべきか。あの飲み会のときから、気付いていた。気付かない振りをしていただけだ。


「寒いよ、一也⋯⋯っもうずっと、一也がいないとあったかくないもん⋯⋯」
「⋯⋯名前」
「一也じゃないと⋯⋯っ」
「⋯⋯もういい。もういいから、」
「⋯⋯っ」


 人目も憚らず、きつく抱きしめる。
 手に馴染んだその感覚に、御幸の胸は酷く締め付けられる。名前のちいさな嗚咽が骨にまで響くようだ。

 何と言えばいい。どんな言葉を用いたら、名前に全部伝わる。あの頃からの後悔。別れてからの自分。名前への想い。

 腕の中の耳朶へ、唇を近付ける。触れるか触れないか。その距離で呟く。


「名前、──好きだ。⋯⋯忘れらんねぇよ」
「⋯⋯っわた、し」
「うん」
「⋯⋯っ、ひっく」


 言葉を継げない名前の頭を撫で、御幸は息を付く。もう一度、名前が共に生きてくれるというのなら。

 今度こそ。


「⋯⋯もう離すつもりねぇけど、いいのか?」


 こくり、こくりと。ゆっくりと、しかし確かに頷く名前を、御幸は一層抱きしめた。イルミネーションの光が、注ぐように煌めく。





 名前の涙が落ち着いた頃だ。
 徐々に冷静さを取り戻してきた名前が、御幸に抱かれたままもぞもぞと動き、思い出したように俯く。


「⋯⋯一也、その、もう離してもらって大丈夫です⋯⋯今更だけどちょっと恥ずかしい⋯⋯っていうか一也一応有名人だし⋯⋯」
「いーじゃん、イブだし。どこも似たようなもんだって」
「え、そう⋯⋯?」


 確認するようにそこらを見回そうとした名前の頭を両手で固定する。わざわざ確認すんなって、嘘なんだから。と言う代わりに、濡れた双眸を覗き込む。そのままめちゃくちゃにキスをしたい衝動に駆られた。


「あー⋯⋯もうこのままホテル連れてっちまいてぇな」
「⋯⋯ばか。身体目当てじゃん」
「はっはっはっ」
「はっはっはっ! じゃない!」


 もう、とむくれた名前が、少しの思案のあとに軽く背伸びをする。何のお小言かと思って少しだけ屈むと、頬にやわらかな唇が触れ、そしてちいさなリップ音。

 目を丸くして名前を見ると、悪戯っぽい笑顔が待っていた。


「今日はこれで我慢してね。わたしくたくたなの」
「いや無理今ので連行決定」
「えっ、ちょ、」


 戯れつく二人の忘れられぬ恋は、音もなくイブの夜に吸い込まれた。



◆忘却証明の終了記号◇

とうふ様より、「君の名残を如何にせん」続篇ハッピーエンド