シンドバッドの沈んだ街で


 人は誰しもが一秒前の「過去」と「想い出」を積み重ねて、今に立っている。


「ねぇ御幸くん」
「ん?」
「御幸くんは、青道に来てよかった?」


 じゃあ、未来は。
 未来には、どうやって進んでいけばいいのだろう。





 雲の隙間から夕陽が溢れている。空の大半は雲で占められているというのに、漏れいづる橙はいとも容易く世界を染めた。濃く影を落とし色付く雲さえ、酷く美しい。

 西階段を登りきった踊り場。おおきな窓に、幾筋にも伸びた西日が注いでいる。洗われるような景色に息を呑み、ふと足を止める。

 そんな時だ。

 殆どの生徒が下校しているはずの校内で、階段を上ってくる足音が聞こえ、振り返る。


「あれ? 苗字じゃん。何してんのこんなとこで」
「あれ、御幸くんこそ。何してるのこんなとこで」


 左足を一段上にかけた御幸が、名前を見上げていた。


「わたしは教室で自習してたの。家だと集中できなくって」
「へぇ、そういうタイプなんだ。俺は忘れもん。数学の問題集机に置いてきちまった」


 止めていた足を再度動かし、御幸が階段を上ってくる。顔を見るのは一週間ぶりくらいだろうか。部活を引退してからというもの、会う回数がめっきりと減った。


「あ、もしかして小テスト? わたしのクラス今日だったよ」
「まじ? 何出んのか教えてよ。俺んとこ明日なんだよな」
「あはは、清々しい」


 笑ってみせると、御幸も悪戯に口角を上げた。「抜ける力は抜かねぇとな」なんて言われると、そういうスキルも重要に思えてくる。


「⋯⋯抜かない力はどこに?」
「そんなの決まってるだろ。野球だよ」
「ふふ、聞くだけ野暮だったね」


 進学する名前とは違い、野球と生きていく決意をしている御幸が部活引退後にどんな生活をしているのか、詳しくは知らなかった。


「なあ苗字、帰んの急いでる?」
「ううん、全然」
「じゃあちょい待ってて、問題集すぐ取ってくる。会うの久々だし、少し話そうぜ」
「⋯⋯うん?」


 名前が返事をする前に、御幸は背を向けて教室へと向かっていってしまった。小テストのことを話すのなら机がある場所のほうが良いのではないか。いやしかし、御幸は「少し話そうぜ」と言っていなかったか。そんなことを考え躊躇っている間に、御幸の背中が教室の中へと消えていく。今更追いかけるのも気が引けて、名前は周囲を見回す。少し迷って、階段の最上段に腰を下ろした。

 背中から差す夕陽が、階段に段々に伸びては影となる。そこに混ざる長く伸びた自分の影がどうにも不釣り合いで、名前はちいさな溜め息を落とした。

 間もなくして御幸が戻ってくる。立ち上がろうとした名前を手で制し、御幸は隣に腰を掛けた。

 思っていたより距離が近くて、どきりとひとつ、心臓が跳ねる。


「なんか久しぶりだよな。部活ねぇと案外会わないもんだわ」
「ね、ほんとに。毎日元気にしてる?」
「うん。けど、まだ慣れねぇな。部活がない生活に」


 あんなに生活のすべてだったのに、変だよな。そう呟く御幸の横顔は、背中から夕陽を受け美しく翳っている。名前は束の間瞬きを忘れ、見惚れた。


「苗字はどーすんの?」
「⋯⋯えっ、あ、何だっけ?」
「ははっ、この短時間でぼーっとできんのすげぇな。卒業後の進路だよ」
「う、ごめん⋯⋯えっと、受験するよ。まだどこかは決めてないないけど」
「そっか」
「朝から晩まで勉強できる生活なんてしたことないから、どうしたらいいのかわからないの。部活行きたいなあって毎日思う」


 というのは、口実だ。
 どうしたらいいのかわからないのも、部活に行きたいのも。どちらも本当だが、どちらもが逃げる口実になっている。

 ないのだ。何も。毎日に理由が。

 全国制覇という、皆で目指していたおおきな目標がなくなってしまった。それを失ったあとの理由を見つけられない。勉強に打ち込む理由が見つけられない。だから、“どうしたらいいのかわからない”と御託を並べ、逃げている。

 名前はそっと目線を落とす。わたしは何がしたいんだろうな。そう考える。いつも目先のことばかりで、この先の人生に真正面から向き合ったことはなかった。行きたい学校。やりたい仕事。明確なものは何一つとしてない。

 対して、どうだ。


「御幸くんは、すごいね。本当に」
「?」


 名前の目の前にいる御幸の目には、きっと未来が明確に見えている。自分が進む方角。そのためにすべきこと。

 その世界に飛び込むことに、どれほどの勇気が必要だったのだろう。誰にも流されず。自らの強靭な意志で。

 そういう物──御幸にとっては野球になるが──に巡り会えた彼を羨ましくも思うし、反面、もし自分が巡り会えたとして、果たして全身全霊を捧げられたのだろうかとも思う。己の弱さも汚さも受け入れ向き合うことのできる彼のその強さを、心の底から尊敬している。


「ねぇ御幸くん」
「ん?」
「御幸くんは、青道に来てよかった?」


 御幸が振り返る。どこかきょとりとした眼差しだった。

 青道に来てよかったと、心底思っている。かけがえのない仲間。かけがえのない日々。この場所で過ごせたことを、誇りに思う。普通の人間である名前に、こんなに素晴らしいものを与えてくれた。

 じゃあ、御幸は。

 彼にとって高校は通過点なのかもしれない。同じ時を過ごしては来たけれど、その濃度は決して同じではないのかもしれない。

 御幸の目には、ここでの日々はどう映っていたのだろう。確かに“同じ時だった”と思っていてもいいのだろうか。その気持ちを持って、この先に進んでいってもいいだろうか。それが許されるのなら、未来にも前向きな気持ちを抱けそうな気がするのだ。

 御幸と過ごした日々を、糧にしたい。この先、ここを旅立ったあとの。日々の糧に。

 ゆっくりと瞬きをする御幸を、静かに見つめ返す。御幸くん。きみのその瞳に、わたしたちはどう映ってたのかな。


「⋯⋯お前は?」
「⋯⋯わたし?」
「お前は、よくなかったの。青道に来て」


 質問に質問で返され、今度は名前がきょとりと間を取る。返答せずに問い返してきたその真意を探ってしまう。が、御幸はもとより感情を表に出すタイプではない。よくよく瞳の色を窺ってみても、いつもの端正な顔立ちがそこにあるだけだ。名前は口を開く。


「よかったよ。最高だった」
「ははっ、過去形。まだ半年もあるだろ」
「そうだね、そうだった」


 高校生活はあと半年残っている。だというのに、すっかり高校生活を終えたような気持ちでいた。焦る。あと半年で、名前は何かを見つけられるだろうか。

 名前の煮え切らない反応を具に見守っていた御幸は、ゆっくりと唇を動かした。


「⋯⋯よかったよ」
「?」


 その脈絡のなさに、名前は首を捻る。御幸がしっかりと名前を見る。ぶつかった視線が、名前を射抜く。


「ここに来て、よかったよ。俺も」
「⋯⋯そっか」
「そ。お前にも会えたしな」
「⋯⋯⋯⋯え?」


 御幸の返答に胸を撫で下ろしたのも、束の間のことだった。

 ──お前にも会えたしな。

 続いた言葉に、名前は目を丸くして固まる。
 暮れ泥んでいた夕陽が、ついに沈んでいく。霞みゆくトワイライト。茜を濃くする御幸の顔を、名前の困惑した視線が彷徨う。

 いつもの軽口、建前、社交辞令。目の前で自信満々ににやにやしている御幸を見ればそう思ってしまいたいが、名前を見つめる瞳だけが真剣に見えてしまって、困惑する。


「ま⋯⋯またそんなこと言って」
「あ、信じてねぇな? ほんとだって。引退してから何か物足りねぇなって思ってたけど、ただ部活がないからじゃないんだよな。部活でお前に会うたびにやる気と安心をもらってたんだって、今になってわかるよ」
「⋯⋯そ、んな」
「だってさ、ほら」


 終始狼狽している名前の肩に、──ぽすりと。軽い衝撃のあとに、あの日と同じ、身に覚えのある重みがかかる。声なき声とともに身体がびくりと強張る。


「──⋯⋯っ?」
「俺、センバツの帰り、こうして寝ちまっただろ」


 肩に乗った御幸の頭が、喋るたびに少しだけ振動する。身の内に直に声が響いてくる感覚に、心臓が早鐘をうつ。

 確かにセンバツの帰りに“こうして”寝合いっこをしてしまったし、二人して快眠をキメこんでいる間に写真も撮られてしまったし、案の定茶化されるものだから皆に画像を消してもらおうとするフリをして、その実ちゃっかり画像を入手したりした。

 確かにしたのだが。


「っ、あの、御幸くん?」
「あ⋯⋯悪りぃ。なんか油断しちまってた」
「ゆ、油断⋯⋯?」


 油断、とは。一体何に何を油断したら、あの日の再現をするに至るのか。全くもって理解ができない。そして心臓がやはり喧しい。

 逸った心臓を宥めていると、御幸はお構いなしに続ける。


「俺さ、あんま人前で寝たりしねータイプなんだよ。なのにあの時お前に迷惑かけちまって、それから考えてたんだよな。なんで寝ちまったのかなって」
「⋯⋯うん」
「その理由、今わかった。お前の隣って、なんか落ち着くんだな。雰囲気が緩いっつーか、眠くなるっつーか⋯⋯教室で隣の席のヤツとかさ、居眠りばっかしたりしてねぇの?」


 御幸の言葉に、名前は何度も瞬く。


「え、緩⋯⋯? ていうかそれボケ⋯⋯?」
「いや真面目」
「真面目にそんな、人を睡眠薬みたいに⋯⋯それに隣の子はちゃんと毎時間起きてます⋯⋯」
「ふーん、すげぇなそいつ」


 本当に真面目にそう思っていそうな返答に、名前の混迷が極まる。

 仮に御幸が本気で話しているとして、ではそれは一体どういう意味なのだろう。名前に対して、どんな気持ちを持っているというのだろう。

 ややこしくなってきた話を真剣に考えていた、その時だ。変わらずに真面目な顔をした御幸が問うてくる。


「そういやさ、あの頃騒いでた写真あるだろ。新幹線の。皆には消せって言ったけど、どーせ誰か持ってる⋯⋯よな。お前も持ってたりすんの?」


 どうせ、と言いつつ、そこに非難の色は含まれていない。むしろ些かの期待が含まれているように思えて、だから名前はすんなりと白状した。


「⋯⋯持って、る、ます」


 頷きながら答えて、赤面する。“持ってるよ”と“持ってます”が混ざってしまった。持ってるますって。何だそれ。恥ずかしい。そして御幸のこの揶揄い顔である。思わず視線を逸らすと、それを追うように御幸の声がかかる。


「それさ、俺にもくれよ」
「え⋯⋯」
「だめ?」
「⋯⋯ううん。でも、なんで」


 普段あんなにズバズバ物を言うくせに、こんな、曖昧で微妙な駆け引きみたいな。

 もどかしい。非常に。

 故に図らずとも上目遣いで御幸を見てしまっていた。きっとまた意地悪く笑ってるんだろうな、と見遣った先で、しかし待っていたのは。

 やわらかく穏やかに笑む、御幸だった。


「さあ。何でだろうな」


 夕陽は沈んだというのに。頬が赤い。その赤は名前のものか。御幸のものか。

 夜に沈みはじめた街で、名前は今日も一秒先の未来へと生きていく。そこに理由が見つからなくとも、何にも届かなくとも。



◇シンドバッドの沈んだ街で◆

みず様より、「重たいくせに無重力」続篇