星渡ノ謳


 世間が華金だなんだと浮ついている金曜日が、苦手だ。
 講義のない週末。学校に行かない二日間。それを埋めるように入れるバイト。御幸に会えない寂しさが、週末のせいで際立つ。

 深いため息をついた名前は、ふらっと立ち寄った本屋でなんとなく入手した文庫本──帯には「青春小説の巨匠が手がけた稀代のホラーサスペンス!」──を手に、ソファに腰を下ろす。

 ホラーもサスペンスも別に好きではない、いやむしろ苦手だが、なんとなく目に付いてしまい、それと作者のネームバリューに惹かれ、買ってしまった。ローテーブルに置いたカップからは、ミルクの混ざった珈琲の匂いが立ち上る。

 本を読んで、珈琲を飲んで、そうして少しは気が紛れるといい。

 惰性で流れていたテレビを消す。気になってしまうからスマホの電源もいっそのこと切ってしまおうか、と考えた、まさにその瞬間だった。

 テーブルに置いていたスマホが震動する。仰向けになっていた画面に表示された名前を見て、名前は一目散にスマホを手に取る。

 向こうから連絡が来るなんてレアだ。
 嬉しい気持ちと、そして“もしかして何かあったんじゃないか”という気持ちが混在する。ただ電話が掛かってきただけでそんな不安を抱いてしまう自分と、それを生み出している現状を、恨んだ。

 素直に喜びたいのにな、と思う。


「もしもし」
「ああ、俺だけど」
「うん、わたしだよ。よかった、声は元気そう」


 怪我はしていないだろうか。無茶をし過ぎてはいないだろうか。美人の芸能人と知り合ったりはしていないだろうか。考え出すとキリがないこんな不安を、一人で上手くいなす術を。

 名前はまだ見つけられていない。


「なあ名前さ、今月最後の金曜って暇?」
「最後? まってね予定見てみるから」


 通話をしたままカレンダーアプリを開く。本日は第一金曜日であるから、ご指定の日は三週間後だ。美容室、バイト、レポートの締め切り、そして第四金曜日。予定は見事に何もない。


「全然何もなかった」
「よかった。じゃその日空けといて」
「うん。何あるの?」
「内緒。じゃあな、風邪ひくなよ、おやすみ」
「えっ、それだけ? ていうか待って、少し話──」


 とっくに切れていた通話と、ツーツーという非情な電子音。せっかく久しぶりに声が聞けたというのに、これだ。

 忙しいのも、長電話が苦手なのも、便りの無いのは良い便りなのも、知っている。解っている。しかしこれではまるで。家を離れた息子と、田舎で身を案じている母のようではないか。

 少しは気にならないのだろうか。

 名前が今日何をしたのかとか、どんな友達がいるのかとか、悩みはないのかとか、言い寄ってくる男はいないのか、とか。


「もう⋯⋯御幸のばか」


 ぽすりとソファに横になる。まだ御幸の声の名残がありそうなスマホを握りしめたところで、しかし大変な事実に気が付きがばりと身を起こす。


「え、嘘、まさか、最後の金曜日まで会えないってこと⋯⋯?!」


 飛び出たひとり言が部屋に響く。珈琲の香りが、やけに鼻腔に沁みた。





「⋯⋯何これ」


 嫌な予感が的中したというか、なんというか。
 結局あれ以降一度も会えぬまま、約束の金曜日を迎えてしまった。

 夜に家まで来てくれると言うから、名前はてっきり“おうちデート”だと思っていたのだ。
 溜まった鬱憤はおめかしに散々時間をかけることで昇華させておき、手作りの夕食を食べながら、会えなかった期間で積もり積もった出来事を気が済むまで話して聞かせ、ゆっくりお風呂にでも入ったあと、映画でも観て──云々。

 様々考えていたものだから、玄関を開けた御幸に「お待たせ。ちょっと出て来いよ」と言われ、名前は三十秒で外出の準備をしなければならなかった。そして間に合わせた。誰か褒めて。

 外に出つつ、もう少しちゃんと連絡してよ、と小言を口にしようとした名前は、玄関先の光景にぽかりと口を開いて呟いたのだ。


「? 何って、車だけど」
「いや、え⋯⋯? ほんとにそんなこと聞いたと思ってる⋯⋯?」


 目の前には、宵のうちでもわかるほど光沢を放つ、たぶんきっと高級な──名前はその手のことはよく知らない──車が停まっていた。


「御幸のなの⋯⋯?」
「そう」
「新品⋯⋯? すごいぴかぴか」
「うん」
「御幸って車運転できたの⋯⋯?」
「そりゃお前、免許取ってるし」
「い、いつの間に⋯⋯」
「驚かせたくて。予想よりずっといい顔してくれんじゃん」

 
 ぱちりぱちりと瞬いている名前を残し、御幸が車へと近付く。助手席の扉がゆっくりと開いた。


「どーぞ。お姫サマ」
「⋯⋯ぷ、ふふ、はい、ありがとう」


 差し出された手を取る。久しぶりの御幸の肌の感触に心が踊る。恭しく助手席に導かれ、それだけで会えなかった期間が帳消しになっていくような気がした。

 我ながらちょろいものだ。

 初めて見る内装に目を奪われていると、ぎしりと車体が上下する。運転席に御幸が座ったからだ。


「どこ行きたい?」
「広い道で車通りが少なくて駐車場が広いとこ!」
「お前なぁ」
「あはっ」


 隣から伸びてきた手に鼻翼を摘まれる。こんなやり取りにさえ胸が弾む。しあわせの閾値が前よりも下にある。

 解放された鼻を撫でながら、名前は腿の上の指先へと視線を落とした。


「でも、信頼してないと乗らないよ。御幸じゃなきゃ乗らない」
「⋯⋯当たり前だバカ。タクシーだけにしとけ」


 エンジン音に紛れてカチャリと鳴ったのはシートベルト。ハンドルに右腕をかけ、御幸がこちらを覗き込む。


「行きたいとこ特にねぇか? だったら俺行きたいとこあんだけど」
「うん」
「少し外れのほうに出るから、先にどっかで飯食ってから行こーぜ」
「うん!」


 静かに動き出した車体に揺られ、物珍しい心地で窓の外を見る。普段見ている夜の街が、やけに麗美に流れゆく。ふと視線を巡らせた先。

 御幸の横顔が、そこにはあった。

 ご飯を食べながら互いに日頃の様子を語り合う。なんせ久々なものだから話は尽きず、しっかりデザートも食べ車に戻った頃にはそこそこ夜も更けていた。


「ね、行きたいとこって?」
「内緒」
「ふふ、また内緒にされちゃった」


 しかし今回のことで学んでいる。内緒、ということは、また名前を喜ばせようとしてくれているのだ。自然と浮かんだ笑みを隠すように、過ぎ去っていく風景を眺める。夜を抜けるその景色は、まるで別世界の夜景のようだった。

 そうするうちに徐々に灯りと建造物が減り、ついには車のヘッドライトだけが道標となる。幾ばくか生じた不安な気持ちを宥めながら行き先を見守っていると、程なくして駐車場に停車する。


「着いたぜ」
「ここ⋯⋯って?」
「⋯⋯晴れてくれてよかった。いつかお前と来たいって思ってたんだ」


 辿り着いたのは静かな湖畔だった。少し郊外に出ただけだが、まさかこんな場所があったなんて。

 御幸に倣って車を降りる。助手席の方まで回ってきてくれた御幸の腕を掴む。灯りがなくて、少し心細い。御幸に掴まっていなければ、足元が暗闇に沈んでしまいそうだ。


「名前。上、見て」
「⋯⋯うえ」


 ゆっくりと仰いだ夜空。
 数多の星屑が散らばる。

 名前はおおきく息を吸い、そしてそのまま吐くことを忘れた。普段の生活では決して見ることのない、地球から覗く宇宙。息を呑むほどの光の粒。


「⋯⋯」
「な。晴れてよかっただろ」
「⋯⋯やだ、ちょっと、泣きそう」
「ははっ。いーぜ。泣いても」


 いつもの調子の声音の直後、肩に御幸の腕が回る。すぽりと御幸の中に収まって、藍錆の空から視線を逸らし、御幸を見上げる。


「⋯⋯御幸はずるいなぁ」
「お前もな。そんなうるうるした目で見んなって」
「⋯⋯御幸のせいだもん。今日どうしたの?」


 本当に、今日は一体どうしたというのだろう。
 内緒で免許を取っていたり、美味しいディナーに連れて行ってくれたり、こんな綺麗な夜空を見せてくれたり。


「いや⋯⋯さ」
「ん?」
「たまには彼氏らしいことさせてくれよ」
「ふふ」
「笑うなこら」
「だって」


 だって、嬉しいじゃん。
 そんな言葉を飲み込んで、御幸に寄りかかる。

 色々と話そうと思っていた。もう少し会えないだろうか、とか。せめてもう少し連絡を取れないだろうか、とか。会えない間の不安な気持ちを吐き出してみようと思っていた。

 しかし、今は。言わなくてよかったな。そう思う。


「御幸、ありがとう」
「ん。⋯⋯せっかくだしゆっくり見ようぜ。毛布とかもあるし」
「わ⋯⋯たくさん準備してくれてたんだ」


 トランクからたくさんのものが出てくる。厚いレジャーシート、毛布、飲み物、お菓子、果ては早見盤まで。


「すごい! どうしよう御幸!」
「楽しんでくれれば」
「楽しみます!」


 星座の知識皆無の名前には、すべてが新鮮だった。邪魔にならない場所に腰を下ろし、スマホで早見盤を照らしては、夜空へと視線を移す。あれは多分この星座だ、どんな神話があるんだろう、等星って何だっけ、等々、会話と星空と御幸の顔を忙しく楽しむ会へとなっていた。

 ああ、このまま。
 ──時間が止まればいいのにな。

 そんなことを、願ってみたりして。


「ね、御幸」
「何?」
「もし今星が流れたら、何てお願いする?」


 問うてみて、考える。自分なら何を願うだろう。
 御幸が怪我をしませんように。御幸に辛いことも苦しいことも起こりませんように。こんな時間がたくさんありますように。

 願わくば、ずっと。御幸と一緒に。

 少し待ってみても返事がないので、御幸へと視線を移す。それに気づいて同じく名前へと目線をずらした御幸は、何も言わずにただ、名前の頬を撫でた。眼鏡に微かに、煌めく夜空が映っている。

 本当に、狡い人だ。

 言葉にして答えてはくれなさそうなので、名前も願い事を胸に秘める。擽ったい時間が流れ、暫し無言が続いた、そんな時だった。


「それにしてもさあ、こんだけの場所だと、なーんか出そうだな」
「え⋯⋯な、何かって」
「そりゃお前、この世に在らざるもの、とか?」
「や、やだ⋯⋯やめてよ」
「だってよー、すげぇじゃん。ほら、そのへんの闇濃くなってるとことか、出てきそう」


 御幸がそんな縁起でもないことを言った途端、凪いでいた風が一度、強く吹く。木々が揺れる。ざざぁ、と自然が鳴いた。まるで、御幸に呼ばれ返事をしたかのように。

 当然名前は、叫んでいた。


「ひ、いやぁあ! たっ、助けっ」
「うお、落ち着け、こら」


 そして御幸にしがみついていた。

 こんなに人も物もない場所で、頼れるものは御幸と御幸カーしかいない。御幸がいなければ御幸カーは動いてくれないから、何よりも御幸から離れるわけにはいかない。故にそれはもう必死に御幸にしがみついた。


「大丈夫だって、ただ風吹いただけだろ、何もいねぇよ」
「みっ、みゆ、御幸がそんなこと言うから!」
「何、お前怖がりだったの」


 極度な怖がりではないと思っているが、まあ、人並みの恐怖心は持っているつもりだ。そして今日こんなに恐怖を感じるのは、どれもこれもつい先日読み終えた小説のせいだ。

 ホラーサスペンスなんて読まなければよかった。時間は潰せたが、寂しさは一ミリも埋まらなかったし。


「つーかお前絡まり過ぎ、俺に」
「これが絡まらずにいられますか!」
「まぁ俺は心地いいからいーんだけど」
「心地⋯⋯へ?」


 我武者羅というか本能みたいなものだったから、自分がどういう体勢かなんて鑑みる余裕などなかった。故に改めて鑑みてみると、文字通り全身全霊で御幸に絡みついていた。そして御幸のこの顔である。


「名前胸ちょっとデカくなった?」
「なっ」
「相変わらず気持ちい柔らかさしてんのな」
「ばっ」
「それに、一層可愛くなった」
「え、⋯⋯っんん」


 次の瞬間には唇が塞がっていた。間髪入れずに舌が滑り込んでくる。瞬きほどの間に舌を絡めとられ、吸われ、口内を蹂躙される。

 奪われる。
 呼吸も、恐怖も、不安も。何もかもを。


「っ⋯⋯は、み、ゆき」


 唇が解放されたその束の間、互いから吐息が漏れる。名前がほぼ無意識に御幸を呼ぶと、御幸は「⋯⋯なぁ名前」と名前の瞳を覗き込んだ。


「⋯⋯いつになったら名前で呼んでくれんの?」
「え⋯⋯」
「俺だって不安になんだけど」
「⋯⋯っ、ん、ん」

 
 今度は噛み付くようなキスだった。上唇、下唇。その合間に服の下にごつごつとした手が忍び込んでくる。止める間もなく下着の上から胸を覆われ、さらには敏感な中心部分を軽く押される。思わず声が溢れた。それを聞き逃さなかった御幸の口元に笑みが浮かんだのを、名前は視界の隅で捉える。


「あー⋯⋯だめだな」
「⋯⋯? 何、がっ?!」

 
 突然身体が浮き上がる。御幸に横抱きで抱えられていた。慌てて首元に腕を回す。ていうか抱いたまま立ち上がるなんてどんな筋肉をしてるんだ。なんて言う間もなく、車の後部座席に押し込まれる。一瞬で荷物を撤収して戻ってきた御幸は、自身の身も後部座席に収め背凭れを倒した。あまりの手際のよさに、名前は呆然と感心してしまった。


「あの、⋯⋯まさか」
「俺んち連れて帰ろうと思ってたけど⋯⋯俺はちょっと我慢がきかねぇ。けど名前が嫌ならやめるから、はっきり言えよ」
「嫌、では、ないけど⋯⋯こんなところで」
「もう他の奴らは帰ってるし、この時間には誰も来ねぇだろ。まぁもし来たらそん時は絶対やめる、約束な」


 御幸の指先が手の甲をなぞる。欲を孕んだ瞳が名前を捉える。ぞくりと粟立つ感覚に、その先の情事に、抗えるわけもなく。名前は瞼を閉じた。

 名前だって、ずっと。

 ──御幸が欲しかった。





 暫く閉じていた内壁が開かれる。
 ゆっくりと御幸のかたちに押し広げられていく感覚に、早くも小さな痙攣が起こる。


「──っぁ、やだ、っ何これ」
「ん⋯⋯俺もやべ」
「久し、ぶり、で⋯⋯っひぁ」


 奥まで入りきると同じくして、敏感な尖りを嬲られる。両腿の中央は柔く捏ねられ、片胸は四方から摘まれ、片胸は御幸の口内を転がる。快楽の出口が塞がれる心地に、既に起こっていた軽微な痙攣が本物へと繋がる。


「──ッ、は、⋯⋯や、ぁ」
「もうイくとか⋯⋯えっろ」
「ん、まっ、て、まだ動かな──」


 快楽の波が引ききる前に、新たな刺激に支配される。少し腰を浮かされて、最たる深みに穿たれる。そのまま次第に勢いが増していく。車体が揺れる。身体が揺れる。脳が揺れる。思考が霞む。忘れていた、否、思い出さないようにしていた悦楽が、いとも容易く全身を包む。


「は、あっ、んぁ」
「名前、もっと」
「⋯⋯っ、か、ずや」
「──⋯⋯ッ、」


 御幸のその名を呼んでいたのは、恐らく無意識だったと思う。

 ずっとそう呼ぼうと思っていた。付き合い始めた頃、御幸が初めて「名前」と呼んでくれた時のこそばゆさと嬉しさを、今もありありと覚えている。その時に名前も「一也」と呼べばよかったものを、恥ずかしさが勝ってしまい口にすることができなかった。

 その時ですら呼べなかったのだ。
 そんな又とない機会を逃してしまえば、その後にそうそう口にする機会も巡ってこない。頭の中で何度も呼んだ。何度も口から出かかった。その度に邪魔な理性が制止をかけた。

 そのリミッターを、御幸の一言が外したのだ。

 ──俺だって不安になんだけど。


「っ一也、⋯⋯ぁ」
「まじでこんな時に不意打ちすんな⋯⋯っ」
「ん、ぅ、っ激、し⋯⋯」


 体温が上がっていく。息が苦しい。呼吸が儘ならない。辛うじて漏れていた嬌声すら、はくはくとした口の動きにしかならない。

 隙なく鍛えられた腕が、大きさに随分と差異のある名前の体躯を強く抱き寄せる。それだけで下腹部が異常なまでに疼いて、心が苦しいほど締め付けられる。こんなしあわせがこの世にあるのかと、飛んでしまいそうな意識で思う。


「っ、またイっちゃ、う」
「は、⋯⋯っ俺、も」


 もっとこのままいてぇのにな。

 そんな囁きが耳朶を掠め、程なくして二人で上り詰める。至上の快楽と幸福に満たされ、名前はやはり、願うのだ。

 ああ、このまま。時間が止まればいいのにな。

 星屑の下のちいさな願いが、永遠であらんことを。



◆星渡ノ謳◇

リオ様より、「海と宇宙って同じかな」と「彗星みたいな夜だった」のあいだのおはなし