青いはずの空に溺れる


 高校生という、大人と子どもの境目みたいな、この曖昧で不確かな時間の中で。恋という名前のつく感情に出逢えることは、きっと、幸せなことなのだと思う。

 叶っても。叶わなくても。きっと。

 そう自身に発破をかけて、名前は今日も、青いはずの空を見上げる。


「オイ、先輩呼び止めといて上の空とはいい度胸じゃねぇか」
「え⋯⋯わたしぼーっとしてましたか?」
「思いっきりな」
「ふふ、ごめんなさい」


 購買から教室に戻る廊下の途中。偶然倉持を見かけた名前は、意気揚々と彼を呼び止めた。

 倉持の手にはカツサンドが二つ握られている。午後練前にでも食べるのだろう。美味しそうだな、と視線を向けてから、名前は今しがた買ったばかりのレモンティーのパックにストローを差した。


「先輩、聞いてください」
「やだ」
「えっ?!」


 潔いほどの即答だった。「じゃあなんで呼び止められたりしたんですか⋯⋯てっきり聞いてもらえるものだと思っちゃったじゃないですか」と言っている最中、既に笑い出している倉持を見て、名前はぷくりと頬を膨らませた。


「また揶揄われた⋯⋯今度こそ聞いてくださいね」
「はいはい、わーったよ。どーしたって?」
「⋯⋯わたし、この間思い切ってメールしてみたんです。『今日の試合のスリーベースめちゃくちゃかっこよかったです』って」
「ふうん」
「なんて返ってきたと思いますか?」
「知らねぇよ、アイツのメールなんて興味ねー」
「またそんなこと言う⋯⋯まぁ今回は考えるまでもなく、返ってこなかったわけなんですけれど」
「ヒャハハ、マジ? ご愁傷様だったな」
「楽しまないでください⋯⋯わたし結構ショックだったのにな」


 御幸に想いを寄せて、どのくらいが経つだろうか。

 恋心が芽生えてからというもの、気を引きたくて多方面からそれとなくアプローチしてみるものの、僅かも得られぬ手応え。一向に変わらぬ距離感。いつになっても“後輩マネージャー”から変わらない肩書。

 恋の苦しさを知る、高二の初夏。

 進みもしなければ後退もしない恋路に痺れを切らし、いつからか倉持に相談するようになった。相談というより名前が一方的に話しているだけのようにも思うが、そして毎度毎度面倒くさそうにあしらわれているようにも思うが、名前としては自分の気持ちを言語化できるだけで随分と助けられている。

 そして知っている。
 なんだかんだ言いながら、倉持は名前の話に付き合ってくれるということを。


「なんで返って来なかったんでしょう⋯⋯『かっこよかった』なんて、さすがにあからさま過ぎたのかなぁ」
「いや、⋯⋯んー」


 倉持は曖昧に言葉を濁した。名前の唇が挟んだストローの中を、薄いはちみつ色が流れていく。それを横目に、壁へともたれ掛かる。初夏の暑さに、少し冷たい壁の温度が心地よい。

 倉持は、知っている。

 あの日、御幸が携帯の画面を見ながらフリーズしていたことを。送り主もその内容も勿論知りはしなかったが、珍しいこともあるもんだな、なんて思ったから、よく覚えている。そして今の名前の話を聞いて、ああ、コイツからのメールだったんだな、と思う。


「倉持先輩⋯⋯御幸先輩にわたしを見てもらうには、一体何が足りないんでしょう⋯⋯他に努力でできること、何か残ってないかなぁ」


 独白のようにぽつりと呟く名前を見て、不本意ながら思う。名前は本当に多々努力しているのだ。倉持の目から見ても随分と可愛くなった──こういうのを垢抜けたというのか──し、マネージャーの仕事も的確に熟すし、勉強も順位をぐんと上げたらしいし、それでいて御幸への想いもずっと変わらない。

 他に努力でどうにかなることなんてないと思うほどに、頑張っているのだ。


「さあな。つーかどう考えても聞く相手俺じゃねぇだろ」
「やだなぁ、寧ろ先輩しかいません。ほら、御幸先輩友達少ないし⋯⋯倉持先輩親友だし(?)」
「ばっ、お前、キショイこと言うな。つーかもう教室戻れよ」
「え〜〜もう少し話聞いてください〜〜〜まだ時間あるじゃないですか」
「ねぇよ、チャイムまであと二分だ」
「えっ、もうそんなに経ってるんですか? 大変、次の授業の先生、監督なのに! 遅れたら殺されちゃう」


 慌てて急ぎ足で戻っていく名前の背中を微妙な面持ちで見送り、倉持も自分の教室へと戻る。
 例に違わずスコアブックを開いている御幸に、カツサンドの一つを放り投げる。


「ほれ、お前の分も買ってきてやったぞ」
「さんきゅ。てか何、ギリギリじゃん。チーム一の俊足が泣くぜ」
「あー、いや、ちょっと苗字に捕まってよ」
「苗字?」


 御幸の眉がぴくりと反応したのを、倉持は見逃さなかった。

 倉持は、気付いている。

 時間はかかったが、名前の努力がここに来て確実に御幸に効いてきていることを。
 御幸と話していると、名前の名前が出ることが心なしか増えた。本人は気付いていないかもしれないが、ふとした瞬間に、御幸の目が名前を追っていたりする。

 きっともうひと押しだ。
 御幸の気持ちが名前に向いてきている。名前は名前でずっと御幸を好いている。

 ──てことは、放っときゃ勝手にくっつくだろ。

 なんて思っていたが、恋愛とは万事が万事、順風満帆には進まないらしい。







「倉持先輩⋯⋯わたしもうだめかもしれないです⋯⋯」
「あ?」
「あれからひとっつもメール返ってこなくなっちゃいました⋯⋯もしかして受信拒否⋯⋯? でも話すときはこれまで通り話してくれるし⋯⋯どうなってるんだろう⋯⋯」
「いでででで! お前全体重かけてんだろ馬鹿!」
「うーん⋯⋯」
「だから痛ぇって!」


 背中のマッサージをしてもらっていたところだった。男子に比べるとマネージャーは力が弱いから肘を使ってくれるのだが、名前ときたら片肘に全体重を預ける勢いである。

 さすがに痛い。


「こら苗字! いい加減に⋯⋯って、」


 肘が離れた瞬間に顔をあげ名前を見る。そうして倉持はあからさまに狼狽えた。
 じっと俯いた名前の瞳に、ぷくりと涙が滲んでいたからだ。


「な⋯⋯っ、いや、悪りぃ、そんなに口調キツかったか」
「口調なんて⋯⋯倉持先輩はいつもどおりのヤンキー感です⋯⋯」


 咄嗟にいつもの調子で反論してしまいそうになって、倉持はそれをぐっと堪えた。なんだってこんな弱ってんだコイツ。そんなに返信ねぇのが堪えてんのか?


「大丈夫⋯⋯じゃねぇんだよな」
「⋯⋯何も成果が得られないまま頑張り続けるのって、結構しんどい、です。夏が終わったら先輩たちいなくなっちゃうし⋯⋯潮時なのかなって」
「いや、それは御幸のヤローが⋯⋯」


 言いかけて、口籠る。
 知っているのだ。返信しないのではなくて、出来ないのだと。食事時や風呂のあと、携帯を開いては御幸らしくもない溜め息をついて、何もせずに携帯を閉じる。そんな奇行を幾度も目にした。

 あれは、意図的に返信していない態度ではない。したくとも、出来ない者の態度だ。──理由は分からないが。


「もし、ですけど⋯⋯何か言ってたら教えてください。迷惑に思われるくらいなら、ちゃんとやめます」
「苗字⋯⋯」
「それはそうと、マッサージどうですか? ほぐれましたか?」
「え、あ、おう、ありがとな」
「よかった。じゃあわたしはそろそろ帰りますね。お疲れ様です」


 肩を落としとぼとぼ帰り支度をする名前に、声を掛けようとしては躊躇し、そして口を噤む。そんなことを繰り返しているうちに、名前は帰っていってしまった。辛うじて「気をつけろよ」とだけ投げかける。

 何と声を掛ければいい。何を言えば名前の気が晴れる。何を説明すれば、名前の誤解を解ける。

 倉持にはそれが分からない。


「あーもう⋯⋯なんだって俺がこんなこと考えてんだ」


 野球とも、自分とも関係がない。それなのに、こうも気を揉んでいる。きっとこういうのを親の心境とでも言うのだろう。話に付き合ううちに、いつの間にか情が移っていたのだろうか。

 倉持は後頭部をがしがしと掻いた。







 自分がどこまで介入していいのか。倉持は考えていた。本人たちに任せるべきか、絡まってしまった糸を少しだけほぐすべきか。

 考え、そして決め兼ねていたのだが、数日経ってもどこか落ち込んだように見える名前のことが気になってしまって、遂に動くことを決める。

 いつも名前の話を聞いてばかりだったから、まずは御幸の気持ちでも聞いてみようと思ったのだ。

 三年の入浴の時間。ちょうど並んで身体を洗っていたタイミングで、倉持は御幸へ声をかける。


「オイ御幸」
「何? あ、そっちのボディーソープ取って」
「ああ、ほれ」


 ぽいっと渡してから、仕切り直す。


「なぁ御幸」
「何? あ、お前耳に泡ついたままだぞ」
「ん、マジだ」


 目の前の鏡を見る。確かに耳介の端に流し忘れたらしき泡が残っていた。もう一度頭からシャワーを被り、そして仕切り直す。


「ところでよ、御幸」
「? さっきから何だよ?」
「いやお前が区切るせいで話が進まねぇんだろーが!」


 思わずそうツッコんでから、身体を洗い始めた御幸を横目で見遣る。


「お前さ、最近携帯開いたり閉じたり何してんの?」
「え⋯⋯俺そんなことしてる?」
「俺がこうして聞いちまうくらいにはな」
「いやー、はは、何でだろうな。無意識だわ」


 ──はぐらかす、か。

 御幸の反応を見て、倉持は息を吐く。まぁ御幸がここで簡単に話すようなタイプなら、こんなことにもなっていないのだろうし。

 故に倉持は、少し踏み入って言葉を継ぐ。


「苗字のことなら聞くぜ」
「⋯⋯なんだよ、お見通しってか」


 一瞬、身体を洗う御幸の手が止まる。ほんのひと時止まったその手は、しかし何事もなかったかのように動き出した。


「いや、けど、倉持に話してもな〜〜〜別にお前彼女いるわけじゃねぇし⋯⋯色恋沙汰わかんの?」
「もっぺん言ってみろコラ」
「ははっ。あ、でも苗字とは仲良いよな」
「仲良いっつーか⋯⋯アイツが話しかけてくるだけだけど」
「ノロケかよ」


 嫉妬を含んだ物言いに、倉持はやれやれと頭を振る。


「一応言っとくけど、俺と苗字は別に何もねぇからな。お互い」
「⋯⋯けど、“気がある”っつー曖昧で不確かなものより、何でも気軽に話せる先輩後輩っつー関係の方が、羨ましいよ。俺は」


 倉持は呆れた。そして驚いた。御幸も人並みに嫉妬したり卑屈になったりするんだな、と。グラウンドの上にいては分からない、人間らしい一面を見た。

 しかしそんなことに感心している場合ではない。ただでさえ捻くれた性格をしているのに、これ以上に臍を曲げられては困る。というか今、「気がある」と言わなかったか。

 名前が、御幸に、気があると。


「お前⋯⋯やっぱ気付いてんじゃねぇか、苗字の気持ち」
「そりゃあ、まあ⋯⋯俺別にド鈍感ってわけじゃねぇしな」
「じゃあ何で返信しねぇんだよ?」


 問うと、御幸は面食らった顔をして、「何、そんなことまで聞いてんの。ほんと仲良いのな」と観念したように笑った。


「いやー、なんかさ、アイツのこと意識しちまってから、なんて返信したらいいのか分かんなくなっちまって」
「は⋯⋯?」
「言葉ひとつ間違えたら、嫌われるかもしれねーんだぜ。面と向かって話してるわけじゃねぇから、微妙な食い違いとかもあるかもしんねぇし──⋯⋯ぶっ?!!! 何す、ゲホッ、溺れ、ゴフッ!」


 ほぼ無意識だった。身体についた泡を流すために手に持っていたシャワーを、御幸の顔面に向けていた。何故かと聞かれても、無性に腹が立ったからとしか言いようがない。

 何を似合いもせずくよくよしてんだ、コイツは。

 突然顔面に多量の湯を浴び溺れていた御幸に、倉持がぴしゃりと言う。


「ったく、乙女かっての。そんな理由でアイツのことへこませるくらいならさっさと話せ馬鹿!」
「⋯⋯倉持にはこの繊細な気持ちはわかんねぇか〜〜〜てか危うく溺れ死ぬとこだったんだけど俺⋯⋯」


 タオルで顔を拭きながら、御幸はいつもの調子で煽ってきた。


「あ゙? 分かりはするけどお前そんなタマじゃねーだろ! しかも今更繕っても仕方ねぇだろうが。腹黒で性格悪りぃお前のこと、アイツは一年以上見てきてんだぞ」
「お前、本人目の前にして言いたい放題だな」
「とにかくなんとかしろ! 俺はもうあんな淀んだオーラのアイツに会うの嫌だからな!」


 吐き捨てるように言い、浴槽へと勢い良く飛び込む。盛大な飛沫があたりに散って、先に浸かっていた前園の顔を濡らした。「何や、また喧嘩か?」と問われ、倉持はぶすりと口を噤んだ。俺、こういうの向いてねぇわ。決して良くはない目つきをした双眸が、そう語っていた。







 一週間後、晴れて付き合うことになったと、嬉しそうにはにかんだ名前が教えてくれた。


「結局あれから一週間もかかったのかよ⋯⋯御幸も案外奥手だな。けど、よかったな」
「倉持先輩がたくさん話聞いてくれたからです。ありがとうございます」
「俺は別に何もしてねぇよ」


 そんなことより、これでやっと恋愛相談から開放される。⋯⋯なんて胸を撫で下ろしたのも一瞬のことだった。

 数日後には、また名前の声が倉持を呼ぶのだ。青い空の下で。以前よりも、弾んだような声音で。


「倉持先輩! 聞いてください〜〜! 御幸先輩が!」


 成就しても、悩みとは尽きぬものらしい。



◇青いはずの空に溺れる◆

時雨様より、三年生御幸くんと後輩ヒロインちゃん、嫌々仲介人倉持くんのおはなし