相関図に矢印を書こう


「ごめんっ、今の歴史のノート見せてくれない? 寝ちゃってた!」


 休み時間に入るや否やのことだった。
 ノートと筆箱を腕に抱え、わたわたと名前が近寄ってくる。その姿を認めた倉持は、「ヒャハハ」と独特の笑い声を出した。
 
 
「見てたぜ、戦いの一部始終」
「い、一部始終⋯⋯?」
「おう、バッチリな」
「やだ、恥ずかしい」


 倉持がノートを取り出しながら笑うのを見て、名前も近場の空いている椅子を拝借し腰を下ろしながら返答した。
 

「今日はほんとにダメだった、眠すぎた⋯⋯あの先生子守唄みたいに話すよね」
「それは同感。にしてもお前今日は早かったぜ、船漕ぎ始めんの」
「そうだった?」
「開始十分くれぇじゃねえ?」
「あはっ、早ー」


 午後一の歴史の授業。教師の方もこの時間割りの辛さを承知の上なのか、単に人柄ゆえなのか。毎回幾人もの生徒が睡魔にやられ夢の世界へと旅立つが、それを咎められたことは一度足りともない。それを良いことに名前もすっかり緊張感を失い眠ってしまい、気が付いた時には一度目の板書は見事に消されてしまっていた。

 というか授業終了間際だった。

 名前は自分のノートを開き、「見てこれ」と倉持に示す。
 

「このへんまでは何とか解読できるんだけど⋯⋯このあとヤバくない?」


 最初の数行は名前にも記憶がある。無論、文字として認識もできる。が、次第に力を失った文字はいつしか象形文字のようになり、終いには力のない微かな線と、かっくりと身体の力が抜けた際に引かさったのであろう力強い直線とが入り乱れた、何とも不格好な芸術作品となっていた。
 
 それを見た倉持はゲラゲラと笑いながら、自身のノートを開いて見せてくれる。最初から最後まできっちりと板書されている。凄い。今日も今日とて朝練をこなしてから授業を受けているはずなのに、しかも昼食にも名前には信じ難い量を平らげ満腹だったはずなのに、眠気に一切屈しないこの体力と気力は一体。

 などと考えつつノートを写させて貰いながら、名前は問う。


「ね、何か大事なこと言ってた?」
「おー、そういやテスト出るっつって」
「え、どこどこ」
「あ? タダじゃ教えてやれねぇなぁ」
「ふふ、やだ、その顔やめてったら」


 眉を下げ意地悪く笑いながら見下ろしてくる倉持を見て、名前がけらけらと笑っている、そんな時だった。
 

「なぁ。⋯⋯なぁってば」


 酷く呆れたような、それでいて何かを諦めたような。そんな声が名前と、そして倉持とに向けられたのは。

 
「ん?」
「あん?」


 名前と倉持が揃って顔を向ける。その視線の先では、眼鏡の向こうで見慣れた双眸が二人を映していた。

 ──御幸だった。

 御幸は椅子の背もたれに軽く自重を預け、呆れた面持ちで続ける。

 
「同期で仲睦まじいのはいーんだけどさぁ、なんで俺の机でやってんの?」


 トントン、と御幸の人差し指が叩いたのは御幸の机。机上には二冊のノートが開かれており、それぞれが持ち寄った椅子に名前と倉持が掛けて取り囲んでいる。

 きょとんと一間、沈黙が流れて。

 
「⋯⋯なんでだろう?」
 と首を傾げたのは名前。
 
「さぁな」
 と倉持が同じく首を傾げる。


 少し考える素振りを見せてから、名前は机に乗せた両手で頬杖を付き御幸を見上げる。


「いつものこと過ぎてなんでとか考えたことなかったなぁ」
「だーかーらー、なんでいつもここに集まんの? って」
「だーかーらー、その理由がわからないの。何でか集まりやすいんだもん、御幸くんの席って」
「そんなのお前らだけだよ。他の奴が集まってんの見たことあるか?」
「ふふ、ないけど」 


 倉持と、そして名前。
 二年になって同じクラスになった二人は、いつしか休み時間に暇になると御幸の席に集まるようになっていた。

 御幸を交えて会話が成り立っている時はまだいい。野球の話は尽きないし、部員と話すのは気疲れしなくていいから。しかし、気が付くと名前と倉持だけが楽しそうに話をしていたり、下手したら今のように御幸が最初から存在していないかのようなことが間々あるのだから、些か腑に落ちない。二人も決してわざとやっているわけではないと分かってはいるのだが、それなら他所でやってくれと思うのだ。

 それでも絶対に御幸の席に集合する二人を見て、御幸はいつも思う。

 こいつら互いに好き合ってんだよなぁ、と。

 それは言葉通りの意味で、名前は倉持が好きだし、倉持も、名前が好きだ。ただ、その両方向の想いは未だ通じ合ってはいない。

 名前の倉持への好意は、それなりに一緒に過ごしていればまぁ結構分かりやすい。部員の中にも、気付いている者はいるはずだ。

 一方で倉持は、部活での様子からだけだとまるで気付かない程に上手く気持ちを隠している。しかし、こうして教室での様子を見ていると、良く分かる。目元の和らぎ方とか、少し優しい物言いとか、授業開始何分で名前が寝始めたかなんてことをしっかり見ているところとか。
  
 しかし名前はきっと、倉持の気持ちには気付いていない。片想いだと思っているはずだ。名前にそのことを確認したことなどないが、ほぼ百パーそうだと思う。だが倉持の方は、案外名前の気持ちにも気付いているのではないかと、御幸は思うこともあるのだ。しかしそのへんは倉持の巧妙さに紛らわされ、上手く掴むことが出来ない。

 両想いなのに何でくっつかねぇのかな。そう幾度も思った。そしてそのうちに気が付くのだ。二人は必ず間に“誰か──教室ではこれが主に御幸なワケだが──”を交えて関わりを持とうとするのだということに。それは言い換えれば、意図的に二人きりにならないようにしている、とも捉えられるかもしれない。

 そのことに気が付いてから二人のことを見ていると、どうやら第三者がいる時でなければ、二人のこの距離感は生まれないようなのだ。というか名前の挙動がおかしくなるのだ。それが御幸には不思議でならなかった。そこには果たしてどんな理由が存在するのだろうかと、野球以外に割く少ない脳の容量で、柄にもなく考えたりした。

 二人きりは恥ずかしいとか。普段通りでいられなくなるとか。──何かを、恐れているとか。

 そんなことを考えて、こんなに相性バッチリなくせに何が恐いんだろうな、と思わずにはいられないのだ。
 


 

 そんな日々の、練習後のことだった。

 
「あっ、落ちた」


 名前の目の前を駆け抜けていた沢村──寮か室内練習場へ向かうところだろうか──の荷物から、ぽろっと一枚、アンダーシャツが落ちたのだ。

 汗で湿ったそれを指先で摘み上げながら、名前は声を上げる。


「おーい、沢村くーん! 落としたよー! ⋯⋯って聞こえなかったか」


 名前の声に振り返ることなく角を曲がり、沢村の姿は見えなくなってしまった。シャツを手に、取り敢えずその後を追う。最初に通り掛かる室内練習場を覗いてみるが、沢村の姿は見えない。一度寮に荷物でも置きに行ったのだろうと、そのまま沢村の部屋へ向かう。

 ドアの前に立ち、ネームプレートを確認する。「沢村栄純」、そして「倉持洋一」。この部屋で倉持くんも生活してるんだよなぁ、沢村くんいいなぁ、なんて考えながら軽くノック。すぐに返答があり、名前は控え目にドアを開ける。 

 
「沢村くん、これ落っことしたよ。わたしが洗濯機のとこに置いちゃっても──」


 そう言いつつ室内へと視線を巡らせて、その瞬間。名前は瞠目し、頬を一気に真紅に染めた。
 

「わーーーー! ごっ、ごご、ごめっ、」
「あ? 苗字か、どーした?」


 倉持だった。

 室内に沢村の姿はなく、代わりに倉持がいたのだ。しかも着替えの途中だったようで、上半身には何も纏っておらず、その肉体が惜しげもなく晒されていた。

 しかもしかも、その格好のまま名前のほうに近付いてくるものだから、名前は「わーーーー! こっ、来なくてっ、大丈夫っ」と半ば叫びながら慌ててドアを閉める。

 が、次の瞬間だ。

 せっかく閉めたドアが軽々しくカチャリと開き、今しがた視界の外に追いやったばかりの倉持が顔を、いや、顔どころかその体躯を覗かせたのだ。


「? 何か用あったんじゃねぇの?」
「──⋯⋯っ」
 

 史上最短距離で見る倉持の鍛え上げられた上半身に、名前は目を逸らすこともできず、ただ、言葉を失くす。

 見慣れている、はずなのだ。

 部員がそのへんでシャツを替えるなんていうことは最早日常の光景であるし、勿論倉持のその場面を目撃したことだってある。

 あるのだが。

 こんなに近くで見たことはないし、近い分その隆々さが際立ち息を呑むほど格好いいし、そして何より、ここには名前と倉持しかいないのだ。

 正真正銘の、二人きりだ。

 そう自覚した途端、頭が上手く働かなくなる。ああ、まただ。また、二人きりになった途端ぽんこつになってしまった。皆でいる時には自然に話せるのに。二人だけになってしまうと、強烈に意識してしまい、いつも通り振る舞うことができなくなってしまう。上手く会話を織り成せない。普段如何にして表情を作っていたのかがわからなくなってしまう。

 ──倉持が、好きだ。

 その気持ちばかりが空回ってしまって、する必要もない緊張をし、何かを取り繕わなければという思いに駆られてしまう。繕うものなど何もないというのに。いつまで経っても“二人きり”という特別に慣れることのできない自分に、いつも、夜な夜な項垂れる。

 これではいつまで経っても距離を縮めることなどできない。そう思い叱咤する自分がいる。一方で、距離を縮めたところで自然体でいられず、変に緊張し取り繕い、結果今の関係が壊れてしまうくらいなら、今のままが一番良い。そう思い尻込みする自分がいる。そんな両者が鬩ぎ合っては、後者に軍配が上がる日々の繰り返しだ。

 勿論、考える。

 いつか倉持と想いが通じて。一緒にいるだけで幸せで。いつか手を繋いで。キスをして。

 そんな絵に描いたような未来を、思い描く。

 けれど名前には、そこに至るためにどうしたらいいのかがわからない。二人きりを意識しないなどということが本当にできるのだろうか。好きな人とだけ分け合える特別な時間に、緊張もせず自然体でいられるなんて、一体どういう理屈なのか。「自然体でいられる相手が一番だ」という言葉を見かけることがあるが、それならば今名前が大切に抱えている気持ちは、一体何だというのか。そして何よりも、何か行動をすることで何かを間違って、倉持と笑い合えるこの日々がなくなってしまうことが、──怖いのだ。

 答えの出ないことを考えては、枕を抱えて眠りに落ちる。そんな日々の、繰り返しなのだ。

 こんな名前の胸の内など知らぬ倉持は、不思議そうに首を傾げたあと、名前の手元を見て「ああ」と声を出した。


「それ、沢村のか? アイツよく落とすんだよな。俺が預かっとくわ。使用済みのやつ持って来させちまって悪りぃな」
「えっ、いや、それは全然──」
 
  
 倉持は名前の手からシャツを取り、乱雑に洗濯かごへと投げ入れる。今更だが室内に沢村の姿はない。室内練習場のどこか陰になる場所にでもいたか、別の場所へ向かっていたのか。


「ほら、手でも洗ってこいよ。あんな汗でぐっしょりの触ったままにしとくと沢村菌伝染るぜ」
「あはっ、大丈夫だよ、マネは抗体獲得済みだし、確か汗って無菌なんじゃなかったかな。でも、ふふ、沢村菌⋯⋯洗ってくるね」
「おう、そーしとけ」


 なんて沢村に対して失礼極まりない普段通りを装ったやり取りを、爆発しそうな心臓でなんとかやってのける。漸く閉じたドアに背を預ける。思わず「はー、緊張した⋯⋯」と独り言が落ちた、そんな時だ。


「みーちゃった」
「ひぃっ!」


 突如として掛かった声に、既に爆発寸前だった心臓が口から飛び出そうになる。速度を倍にした心臓を胸の上から押さえながら、声のした方を振り返る。


「みっ、御幸くん」
「なーにしてたの、こんなとこで二人きりで。しかもアイツ服着てねぇし。悪りぃ子だな」
「ちっ、違うの、」
「違ぇの? 何が?」 
「いやっ、何も! それにこれはたっ、たまたま」


 目を泳がせまくりながら、しどろもどろに誤解──何の誤解か知らないが──を解こうとしていると、御幸が可笑しそうに笑う。

 
「ははっ、焦るとホントっぽくて逆効果だぜ」
「〜〜〜っ、もう、すぐそうやって揶揄う⋯⋯!」


 御幸こそどんな用事でここを通りかかったのか、と聞き返す余裕も与えられず、ただただ揶揄われる。情けない限りだ。しかし口は御幸のほうが何枚も上手である。対抗の仕様がない。

 愉快そうに笑う御幸と、ぷりぷりと怒る名前。寮を離れていく二人の背中を、着替えを終え部屋から出てきた倉持の視線が追う。

 そのことに気が付いた御幸は、ちらりとだけ背後を振り返ってから、隣を歩く名前をじいっと見下した。


「? なあに?」
「や、別に。ただ、マジでお似合いなんだけどなーって思ってさ」
「?」
「こうしてちょしてんのも俺は結構楽しいから、しばらくこのままでもいーけど」
「⋯⋯?」
「それはそうと、お前どっか行くんじゃねぇの?」
「あっ、そうだった、沢村菌の除菌に!」
「は?」


 そう言って水場へと駆けていく名前を見送ってから、御幸は、背後からやってきた倉持へと声を掛ける。
 

「なー、倉持お前さぁ」
「何だよ」
「いいの? このままで」


 そう問うた御幸の視線は、名前の背が消えた方を向いている。御幸の言わんとしていることを悟った倉持は少し口を噤んでから、ぼそりとぶっきらぼうに答える。

 
「⋯⋯いーんだよ。何つーかアイツ、これ以上近付くの怖がってそうだし、無理して関係壊れちまうのも──」


 とそこまで言ってから、倉持はハッと顔を上げる。余りにも自然に問われたから答えてしまった。答えてしまったが、果たしてこれは答えていい問いだっただろうか。

 急いで視線を遣った先。そこでは案の定、御幸がにたにたと笑っている。ちいさく舌打ちをして睨めつけるが、御幸は意に介した様子もない。

 
「テンメェ⋯⋯カマかけやがったな」
「はっはっはっ、まぁまぁ、いーじゃん。てか何かアイツ、一人でこんがらがってて手強そうだけど大丈夫?」
「オイ楽しんでんじゃねーぞテメェ。もう何言われても何も答えねぇからな」


 高らかに笑う御幸の腰を倉持の下肢が軽く蹴る。そんな二人を見て、「何だかんだ今日も仲良いよなーアイツら」などと言われていることを、二人は知らない。





◇相関図に矢印を書こう◆


セラ様より、両片想いの倉持とヒロインちゃん、にちょっかいをかける御幸