投げたら何かは返ってくるかな


「一也帰って来てるって?!」
 

 ビックゥ!と驚きに身体を跳ねさせて、御幸は突如として開いた自宅玄関の戸を見遣った。

 確かに施錠は忘れていたかもしれない。記憶にないし。いやしかしだからといって、こんなふうに家に入って来るような家族がいた記憶もないのだが。

 御幸は呆れた眼差しを幼馴染の名前に送り、溜め息とともに「お前なぁ、一応人ん家だぞ」と口にしてみる。しかし、やはりと言うべきか。名前は一切意に介した様子もなく、靴を脱ぎながら言う。


「もう、帰ってくるなら先に教えてよー」
「悪りぃ、忙しくて」


 別に約束をしていた訳でもなければ教える義理もないのだが、御幸は思わず謝っていた。

 地獄のような冬合宿を終え、ボロボロの身体で帰省し一息ついた途端のことだった。どこから聞きつけたのか飛んできた名前の変わらぬ姿に、御幸は不思議と「帰ってきたな」と思ったのだ。

 
「はい、これ。丁度年末のおはぎ大量生産してたとこだったの。いつも通り甘さ控えめだし、きな粉もあるよ」
「お、サンキュ。名前んちの美味いんだよな、親父も喜ぶぜ」
「⋯⋯ってうわ、何その動き方! 身体バッキバキなの?!」


 差し出したタッパーを受け取ろうとした御幸の動作を見て、名前は目を丸くする。

 
「うん、めちゃくちゃ。間違いなく人生で一番の筋肉痛。冬合宿がキツイってのは聞いてたけど、正直ここまでとは思ってなかったぜ⋯⋯名前、悪りぃけど飲みもん取ってくれ、冷蔵庫が果てしなく遠い」
「うん、お茶でいい?」
「ああ、ありがとう」
「わたしのお父さん、フルマラソン完走したあとそんなふうになってたよ⋯⋯マッサージしようか?」
「んー、いや、触られんのも激痛なんだよな⋯⋯もう少し和らいでから頼むわ」


 まるで壊れてしまったロボットのように椅子に腰を下ろす御幸。という世にも珍しい光景に、名前からは思わず笑みが溢れる。

 相変わらず野球、頑張ってるんだなぁ。

 
「ね、合宿も終わったってことは、少しはここにいられるんだよね? ほんとはキャッチボールしてもらおうと思って来たんだけど、出直すね」
「いや、それは出来る」
「あはっ、何で?」
「野球の動きは不思議と出来んだよ。痛ぇは痛ぇんだけどさ。まぁ少し動かねぇと良くならねぇし、やろうぜ」
「ふふ、それほんと?」
「ほんとほんと。休むのはキャッチボールのあといくらでも出来るしな」


 ほら、と名前を促しながら立ち上がる御幸の各関節や筋肉からは、今にもギシギシバキバキと音がしてきそうだ。御幸がこんなふうになるなんて、一体どんな合宿だ。と、名前は人知れず慄いたのだった。

 

 

「一也帰って来てるって?!」


 予想でもしていたのか以前ほどの驚きは見せず、御幸はのんびりと自宅玄関の戸を見遣った。

 
「全然変わってねぇなー、お前」
「うっわぁ大きくなったねぇ! テレビで観るよりずっと」


 プロになり数年。随分と久方ぶりになった御幸の帰省をまたしてもどこかから聞きつけたらしく飛んできた名前が、一回りも二回りも大きく育った御幸の身体を見て、もう一度、今度はしみじみと「大きくなったねぇ」と口にした。


「ははっ、親戚かよ」
「ふふ、似たようなものでしょ」


 名前の笑顔を見て、思う。「ああ、帰ってきたな」と。御幸と同じだけ歳を重ねた名前は、御幸の知らないメイクをして、御幸の知らない髪型をして、御幸の知らない服を着て、御幸の知らない雰囲気を纏って、御幸がずっと見てきた笑顔を見せる。

 ふっと顔の筋肉が緩んだのを自覚した。プロという世界でいつも戦闘態勢でいるからか、名前の変わらぬ笑顔に、酷く身体の力が抜ける気がする。軽い。その軽さを確かめるようにひと際大きく伸びをして、御幸は軽快な動作で立ち上がる。

 
「早速行くか? すんだろ、キャッチボール」
「うん! あ、でも、プロ相手だと有料ですか?」
「そりゃ勿論。高くつくぜ」
「あははっ。一球につき肩ひと揉みでお願いしまーす」
 
 
 ころころと笑いながら階段を降り、名前はいつもの空き地へと向かう。数歩後ろをゆっくりとついてくる御幸を時折振り返りながら、いつからだろうな、と考える。

 いつからだろう。御幸とこうして、事あるごとにキャッチボールをするようになったのは。

 最初はただの遊びだったように思う。野球を始めた御幸につられ、特に意味もなくただ興味の向いたままに。その時間がいつしか待ち遠しいものになった。キャッチボールをしながらする会話が、好きだった。まるで白球に誘われるようにして、互いから自然で飾らない言葉が出て、交わされる。

 二人だけの。ほんの数十分。

 それが名前には、特別な時間だった。

 相変わらず──というかより一層の精度で──名前の捕りやすい場所にピンポイントで返される球を捕まえながら、名前は問う。


「どう? 最近は」
「知っての通り、やっと一軍入りだぜ。分かっちゃいたけど厳しい世界だよ」
「そっかぁ」


 それでもしっかりとベンチ入りを果たし、日を追うごとに登用回数を増やしていく御幸には、ただただ感嘆するのみである。天賦の才と、たゆまぬ努力。幼い頃から貫き通せる信念を、心の底から尊敬している。


「お前は? 変わりねぇの」
「さっき一也自分で言ってたじゃん、『全然変ってねぇなお前』って。そのとおり、全然変わらないよ。初恋の人を忘れたくて色んな人と付き合ってみては、結局忘れられなくてちっとも続かない、の繰り返し。⋯⋯何も、変わらないよ」
「⋯⋯へぇ、初恋? 初耳だな」
「初めて喋ったからね」


 グローブの中の薄汚れた白球へと視線を落とす。決めていた。次に御幸と会ったら、会うことができたら、この話をしようと。その決意ごと、球とともに投げる。
 

「いつか変わるかなって思ってたの。滅多に会わなくなるとか、月日が経つとか、そんな理由で。でもずっと変わらなくて⋯⋯気が付いたらこんなに拗らせちゃってて埒が明かないから、そろそろ玉砕覚悟で伝えようと思ってるんだ」
「⋯⋯ふうん」
「でもね、その人超超超超鈍感なの。わたしが何年も何年もしてる片想いに、まーったく気付いてくれないんだ」
「⋯⋯あ、そ」
「仕事もめちゃくちゃ忙しくて、特殊で大変で⋯⋯それこそ一般人なんて相手にされないような。でも一回くらいは言ってみてもいいかなぁって。じゃなきゃ、いつまでも、どこにも、わたしが進めないみたいだから」


 御幸と恋愛の話をすることはほぼない。ほぼ、というか。恐らくこれが初めてだと思う。御幸はどんな反応をするのだろうかと待ってみると、少しの間を置いてから、御幸はぽそりと呟いた。

 
「⋯⋯やめとけよ」
「えー、なんで?」
「だってお前、そんな相手と幸せになれんの? 聞く限りじゃ、例え実ったとしても苦労ばっかするんじゃねぇの」
「ね、わたしもそう思う」
「ならもっと普通のやつにしとけよ」
「だから、いわゆる普通の、色んな人と付き合ってみたんだってばー。でも忘れられないんだもん」
「⋯⋯そんなに好きかよ、そいつのこと」
「うん、すっごく」


 頷いた直後だった。
 バシ、とグローブが強めの音を立てる。御幸からの返球が思いのほか強く、捕り損ねて弾いてしまった音だ。指先が少し痛い。じんと痺れるような痛みだ。いつも正確無比な返球をしてくれる御幸にしては珍しい。不思議に思いつつも地面に転がった球を拾い上げ、名前はちらりと上目で御幸を見る。

 一度深く息を吸ってから、口を開いて。
 

「──まぁこれ全部、一也のことなんだけどね」
「⋯⋯⋯⋯は?」


 ぽかんと口を開け名前を凝視する御幸に向かって、ぽいっと山なりに球を放る。今日一番のコントロールだ。一直線に、美しいラインを描いて御幸へと向かっていく。しかし御幸にはどうやら球は見えていないらしい。いくら球が近付こうとも微動だにしない御幸の額正中に、それはドンピシャでヒットし、そしてぽてりと落ちる。


「痛⋯⋯ッ」 
「あははっ、ちょっとー、プロの名が泣きますよー」


 グローブで口元を覆いけたけたと笑う名前を、痛むであろう額を労る素振りも見せない御幸が、驚愕と言ってもいい表情で凝視している。

 
「いやお前⋯⋯だって⋯⋯は?」
「ふふ、びっくりした?」


 さぁ、悩んでくれたまえ。悩んで悩んで、そして思いっ切り振ってくれればいい。そうしたらきっと、次に進めるから。

 そんな想いで、名前は御幸を眺める。思っていたより穏やかでのんびりとした心地だ。世界はとうに夕焼けに染まっている。ふと視線を上げると、巣へ戻るのか、二羽のカラスが寄り添うようにして飛んでいた。





◇投げたら何かは返ってくるかな◆
 

かな様より、御幸とキャッチボールするおはなし