夜に警笛
救急外来に、一本の電話が入る。
それを取ったドクターが救急隊に応対しながら、目線とジェスチャーで「五分後に一台」と告げる。それに頷きながら、既に名前は患者を受け入れる体制を整えるべく動き出していた。
すぐに電話を終え隣に並んだドクターが、手袋を履きながら言う。
「二十代男性、切創だと」
「切創⋯⋯搬送するほどのですか?」
「腹部に包丁一突きだそうだ。今はJCS二桁」
「⋯⋯はい」
「取り敢えず消化器外科は呼んでおく。麻酔科とオペ室に連絡入れておいてくれ。血管外科は実際に患者見てみてからだな」
輸血も出来る太いラインを用意しながら、あらゆる場面を想定し備える。すぐにオペになるだろうが、それまでに救外で出来ることはしておかなければならない。
というか、腹部に包丁一突き⋯⋯?
一体何事だ。立派な殺傷事件ではないか。これまでそういった類の症例に当たったことがないわけではないが、現代日本においてはそうそうお目に掛かるものでもない。
そうしているうち、すぐに守衛が玄関を開く。「救急車入ります」、その一言でスタッフは玄関へと駆け寄った。
救急車後部から降りてきたストレッチャー。そこに横たわる人物の顔を見た瞬間、名前はひっくり返りそうになりながら声を上げていた。
「じ⋯⋯っ、陣平?! なっ、今日非番って⋯⋯」
「⋯⋯ぅ」
運ばれてきた患者は、名前の声に苦悶様に表情を歪め、しかし開眼をすることはない。だが間違いない。見間違えるはずがない。松田陣平。二年前から交際している名前の恋人である。
目を丸々と開いたまま固まってしまった名前に、ドクターが問う。
「⋯⋯知り合いか?」
「いえ、その、⋯⋯っはい」
曲がりなりにも救急部のナースだ。
ちょっとやそっとの状況並びにちょっとやそっとの人体の状態には動じない胆力は備えている──というか、働くうちに備わさった──自信がある。しかしその対象が、身内や大切な人物となると話は別だ。──ということを、名前は今、身を持って実感している。
陣平。
──陣平。
腹部から鮮血を流し意識朦朧としている恋人を目の前にした自分は、一体今、どんな顔をしているのだろう。息がしづらくて。血の気が引いて。指先がじんじんと痺れて。まるで自分の足で立っていないみたいで──
「苗字」
「⋯⋯っ」
「おい、苗字!」
「⋯⋯っ、はい?!」
ドクターの大きな声に、はっと我に返る。慌てて顔を上げると、ドクターは何かを見定めるような眼差しで名前を見ていた。
「出来るのか。出来ないなら外れてろ」
「──、出来ます」
「ならちゃんとやれ」
「はい。すみません」
ぎゅっと唇を結び、拳を握り締める。
心臓は痛いくらいに逸ったままだ。本当は陣平に駆け寄り、その手を握り、ただひたすら祈りながら「大丈夫だよ、大丈夫だからね」と互いに言い聞かせるように声を掛けていたい。
だが、名前は医療者だ。
そしてそれ故に、陣平を救うために出来ることがある。今は陣平を信じて。名前に出来ることをしなければ。そう己を奮い立たせる。
すぐさま運ばれた処置室で陣平の救命が始まる。
「刃物は抜かれちまってんだな。クロスマッチ待たなくていい、取り敢えずO型のRCC繋いどけ。血小板とFFPはデータ見てからにするか⋯⋯」
ぶつぶつと呟きながらFASTを施行していくドクター。駆けつける外科医。飛び交う指示。名前はただ、駒のように懸命に動くことで己を保っていた。
*
手術は消化器外科が執り行った。
幸いなことに大血管は損傷しておらず、臓器も腸管を貫いていたのみであったとのことで、手術は無事に成功した。
本来であれば執刀した消化器外科病棟での入院となるのだが、丁度この時は当該病棟のベッドが満床であったため、術後のICU管理を経てから、初療を担った救急科病棟へと帰室することとなった。
名前の勤める病院では救急部ナースは救急外来と救急科病棟を兼任しており、名前も陣平の状態を間近で知ることが出来た。
若者の回復は早い。
もともと兼ね備えている治癒力に加え陣平は根性もあるので、自ら進んで早期から離床し、術後数日が経った今では術前とあまり変わらぬ速度で歩行も出来る程だ。
そんな頃のことだった。
病棟の夜勤でラウンドをしていた名前が、陣平の部屋の戸をそっと開ける。ベッドサイドランプがまだ灯っていることを確認し、小さく声を掛ける。
「⋯⋯陣平、元気?」
「おう、名前か。俺よかお前の方が俺の身体に詳しそうだけどな。お陰さんで、この通りだよ。まだ痛ぇけど」
「当たり前じゃない。暫くは痛いよ、お腹刺されてたくさん縫ってるんだもん。むしろそんなに普通っぽくしてる陣平が変なくらい」
「? そーなのか?」
「そーなんです」
まだ繋がれている点滴を確認している名前に、陣平は「そういや」と口を開く。
「何だかんだこうして二人きりで話すの初めてだよな、怪我して以来」
「お互いバタバタしてたからねぇ」
術後意識が回復した陣平は、それはそれは忙しかった。まだまだ療養が必要な時期だというのに、警察関係者がひっきりなしに詰め掛けては、事情聴取なのか見舞いなのかただの世間話なのか、兎にも角にも連日人足が途絶えることがない。名前も名前で勤務が立て込んでおり、ゆっくりと面会することも叶わなかった。
だから今が、初めてなのだ。
受傷後の陣平とこうして話す時間を取れるのは。
「ねぇ陣平。陣平を責めるわけじゃないし、子どもが無事だったのは本当に良かったんだけど⋯⋯でもどうして⋯⋯こんな無茶したの⋯⋯」
陣平の話と目撃者の証言、そしてその場で取り押さえられた犯人の供述とを合わせると、今回の事件はこういうことらしい。
何でもこの犯人、結婚を真剣に考え交際していた女がいたらしいのだが、その女が実は既婚者で、その上子どももいたということを知る。だが女に対する“異常なまでに歪な愛”故にその怨嗟の矛先は何故か子どもに向き、包丁片手に通学中の子どもに襲い掛かったのだという。その場面に偶々出会した非番の陣平が、咄嗟に子どもを庇ったという顛末である。
「どうしてって、別に理由はねぇよ。身体が勝手に動いちまったし。まぁあと一秒気付くのが早かったら刺される前に投げ飛ばせてたと思うんだけどよー、かっこつかねぇよな」
「⋯⋯かねぇ、じゃないよ」
「⋯⋯名前?」
「⋯⋯っ、いなく、なっちゃうかと思った⋯⋯っ」
あの時。搬送されてきた陣平を見た時の。全身の血の気が引く感覚が、今も脳裏にこびり付いている。あの日以来自宅でひとりで眠りにつこうとすると、血を流し呻いている陣平の姿がフラッシュバックする。なんとか眠っても夢にさえ見てしまい、汗びっしょりで飛び起きる。
陣平はもう助かったというのに。
失ってしまうかもしれなかった、あの時に抱いた恐怖が。名前の心に巣食い、じわじわと蝕んでくるのだ。
「陣平が、死んじゃうかと思った。あんなに突然⋯⋯ただの日常の隙間で、何も⋯⋯何も言えないまま⋯⋯っ」
「⋯⋯名前」
ふるふると震え、目の縁ぎりぎりまで涙を溜める名前を見て、滅多に泣くことのない名前のその姿を見て、陣平は初めて理解した。
名前がどんな気持ちで自分を助けてくれたのか。どんな気持ちで、今日まで過ごしてきたのか。これが、自分が傷付くことで自分以上に傷付く者が存在するということなのだと。
陣平は慌てて身を起こす。
途端、創部に走る激痛。しかしそれに構わず出来得る限りの速度で上体を起こし、名前を抱き寄せる。
ぎしり。軋むマットレス。
傾いだ名前の腰がベッドに乗った音だ。
「⋯⋯悪かった。だから泣くな」
「⋯⋯無茶言わないでよ」
ず、と鼻を啜る音。名前を抱き留めた病衣の胸元に涙が滲み、じわりと広がっていく感触。その染みと共に、名前に対する愛おしさが胸に広がっていく。こんな時に不謹慎なのかもしれないが、こんなふうに自分を想ってくれる相手がいることが、嬉しかった。
ぽろぽろと涙を落とす名前の顎を掬い、問答無用で唇を重ねる。
「ん⋯⋯ぅっ」
戸惑ったようにちいさく溢れる嬌声。その控え目な声に却って箍が外れてしまった陣平は、貪るように名前の唇を翻弄する。腰に回した手は背筋をなぞり、脇腹を辿ってそのまま胸の膨らみへと伸びていく。
刹那、名前の背が撓って。
「きゃ⋯⋯っちょ、っと⋯⋯」
名前の纏う真白なケーシーのボタンが、ぷつりと外される。ぷつり、ぷつり。胸下まで外れたボタン。顕になったレースの下着。陣平はそれを躊躇なく引き下げ、ぷくりと色付く先端に迷いなく吸い付いた。
「や⋯⋯、陣、ふ⋯⋯っぅ、ぁ」
手の甲で必死に口元を覆う名前から、抑えきれない声が漏れ出る。それに気を良くした陣平は、暫し胸への愛撫を堪能してから、パンツのボタンも外しショーツの上から秘部をなぞる。
「ぁ⋯⋯っ、や、だめ⋯⋯っ、仕事⋯⋯!」
「とかいって、めちゃくちゃ濡れてっけど?」
「っ、だ⋯⋯ってぇ⋯⋯」
本能なのだと思う。
大切な者の命の瀬戸際を見てしまった。その喪失への恐怖が、本能で陣平を求めてしまっている。本当は今すぐにでも。衣服をすべてかなぐり捨てて、素肌と素肌を重ねて、その命が確かにここにあることを感じたい。文字通り身体をひとつに繋げて。
「⋯⋯っ、じん、ぺ」
ぎしりと、ベッドに膝を付く。陣平の頬に手を添え、もっと深く唇を重ねようとした、まさにその瞬間だった。
──ピリリリリ!
夜勤者が持ち歩くPHSが鳴り響く。ナースコールを知らせる音だ。その音で瞬く間に我に返った名前は、頬を真っ赤に染めながら、それはそれは物凄い勢いでベッドから飛び降りた。
「⋯⋯ってバカ! 陣平のバカ! こんな時に!」
「おい、どこ行くんだよ、こんな良い時に」
「お隣の! 篠山さん(八十六歳)のところです! お呼びなので! なんと言ってもわたし仕事中なもので!」
「ったく、真面目だねぇ。つーか、んな物欲しそうに火照らせた顔で、いくら爺さんでも男のとこ行かねぇほうがいーぞー」
「っ、もう、うるさーい! 病人は大人しく寝ててください! 消灯時間とっくに過ぎてるから!」
ぷりぷりと荒ぶりながら恐るべき速さで衣服を整えた名前が、心なしか強めに戸を閉め出ていく。その早業に呆気に取られながら、陣平は呟いていた。
「寝てろっつわれてもなぁ。こいつ、どーしてくれんだよ」
すっかりその気になっている己の股間を見下ろし、深い溜め息。直後、今しがた勢い良く閉じられたばかりの戸が、今度は些か控え目に開く。見ると、どこか居心地悪そうにした名前が上目遣いに陣平を見ていた。
「お、何? やっぱシてえのか?」
「⋯⋯無事に退院出来たら、いっぱい」
消え入りそうに呟いて、名前はまた、ぱっと戸を閉めた。今度こそ隣室へ行くのだろう。ぱたぱたと廊下を駆ける音が遠くなり、消える。
名前のいなくなった空間をぽかんと見詰めていた陣平は、ついに困ったように肩を揺らした。
「ははっ、何アイツ⋯⋯可愛いヤツ」
[夜に警笛]
看護師ヒロインのもとに搬送されてくる松田との切甘