まるでガラスの靴みたいに


「うわ⋯⋯」


 思わずそう溢した名前の目の前では、今年の春先に役目を終え、クリーニングに出そう出そうと思っている間にあっという間に冬を迎えてしまい、結局クリーニングに出さず終いとなっていた冬物のコートがハンガーに掛けられていた。

 しかし名前が呟いたのは、何もクリーニングを忘れていた事を今更思い出したからではない。


「なんでわたしのポケットに入ったままなの⋯⋯」
 

 片側のポケットから、男物の手袋が出てきたからだ。

 しかも、片方だけ。

 この手袋には見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。これは名前が贈ったものだ。散々悩んで、悩んで、悩んだ末に贈ったプレゼント。決して高価とは言えないものだったが、彼は機会ある毎に身に着けてくれていた。


「⋯⋯こんなふうに思い出したくなかったな。あの時のあったかさ」


 寂しく落ちた言葉が、初冬を迎えた部屋の中に冷え冷えと響いた。





「名前」
「うん?」
「俺、プロ入り決まったぜ」
「み、見てましたけどドラフト⋯⋯ていうかメールもしましたけど⋯⋯」
「ああ、うん、そうだな」


 珍しく歯切れの悪い返事をして、御幸は一度、足元に視線を落とした。
 
 授業も終わった夕方だった。傾く夕日の射し込む昇降口。秋の空気に取り巻かれ、名前は御幸とは逆に、空を見上げた。梳いたような薄雲が燃えるように染まっている。

 改めて御幸へと視線を移す。御幸はじいっと名前の靴あたりを見つめ、何事かを言い難そうに口籠っている。そんな姿に、名前は悟る。あぁ、良くない話があるんだなぁ、と。
 

「⋯⋯俺はさ、やっぱ野球が一番になっちまう」
「ふふ、知ってるよ。プロ入り本当におめでとう」
「いや、うん、サンキュ。それで⋯⋯」


 御幸は一度言葉を区切り、深く息を吸った。その様子に、名前は不覚にも嬉しさを覚えてしまう。名前が思っていたよりも御幸は、名前を想ってくれていたのかもしれない。だってこんなに言いづらそうにして。それでも御幸の方から話を切り出してくれて。名前が感じていたよりもしっかりと、御幸の中に“名前”という人間は存在していたのかもしれない。

 そんなことを、暢気に思う。

 
「なぁ⋯⋯お前はどうしたい?」
「⋯⋯一也は?」
「俺は⋯⋯言えねぇよ。俺の言った通りにするつもりだろ、お前」
「⋯⋯狡いなぁ。わたしに選ばせるの?」
 

 夕日を受けた眼光が、名前を射抜いていた。形の良い両目が真っ直ぐに名前を見つめている。

 名前たちが付き合い始めて凡そ二年。昨日のドラフト会議を以て、進路が分かたれることが正式に決定したのだ。

 そして二人の未来を、御幸は名前に選ばせるというらしい。自分の気持ちも明かさずに。これでは「俺の言った通りにするつもりだろ、お前」の立場が逆になっただけではないか。

 しかし、──しかし。
 
 御幸のその気持ちも分かってしまうのだ。痛いほどに。プロ野球界という環境に身を投じる御幸が何かを望めば、対する名前は──御幸のことが大好きな名前は──、何が何でもその願いに応えてしまうだろうと。しかしその未来は恐らく、御幸の本望ではないのだろう。

 だからこそ名前は、“二人の未来を選ぶ”という残酷な役目を引き受ける。

 下腹部のあたりで指を組み、今度は名前が視線を落とす。いつか話さねばならぬことだった。色々考えてもいた。しかし答えは出せていなかったし、今この場でも、出せそうにない。

 別れるか。別れないか。

 たったふたつからどちらかを選ぶのが、こんなにも難しい。

 
「⋯⋯少し時間を、ちょうだいね」
「ああ。⋯⋯悪りぃ」
「どうして謝るの? 悪いことなんて何一つないのに」
「だってお前──」


 ──泣きそうなんだもん。

 御幸の右の手のひらが、名前の左頬をそっと包む。途端に唇が震えてしまった。涙を堪えられたのが、奇跡のようだった。




 
「これ、そっち入れといて」
「?」


 差し出された片方の手袋。それを受け取り首を傾げる名前の目の前を、一片の雪が落ちていく。


「で、お前の手はこっち」
「わ、」

 
 手を繋がれた、と思った次の瞬間だった。御幸のコートのポケットに、その手が一緒くたに仕舞われる。ずぼっと。少し強引に。ぎゅっと絡められた指の合間に体温が灯って、ポケットの中は瞬く間にあたたかくなる。

 御幸の大きな手をゆっくりと握り返しながら、名前は冷気で赤くなっていた頬を一段と染める。
 
 
「男の子のコートのポケットって⋯⋯おっきいんだね、ふたつの手すっぽり入るんだ⋯⋯」
「そーだよ」
「ふふ、あったかい」
「だからそーなんだって」


 雪が、ちらちらと舞う。二人から立ち昇る白い吐息と、仄かな雪景色。包む静寂。

 最後の景色にするには、綺麗すぎるくらいだ。


「でも⋯⋯今日でばいばいだね」
「⋯⋯やっぱ⋯⋯そうだよな」


 その「そうだよな」の真意を、本当は聞いてみたかった。「お前も俺と同じで、別れることを選ぶよな」なのか。「俺は別れたくねぇけど、お前は違うよな」なのか。

 でも、聞けなかった。

 どちらだとしても、決めたのは名前で、それを受け入れると決めたのも御幸だ。聞いたところで。ただただ互いが辛くなるだけだ。

 握る手にきゅっと力を込める。
 
 触れ合う手はこんなにもあたたかいのに。このぬくもりを手放す選択をした自分が、酷く滑稽に思えてしまった。

 でもきっと、名前は耐えられない。御幸のいない日々に。いるはずなのに、いない。そんな日々に。寂しさを覆い隠して、笑顔で御幸を支え、理解ある彼女を演じる。そんな人間になれる自信がなかった。御幸のことよりも、自分の気持ちが優先されてしまう未来が描けてしまった。

 だから、今日までは。御幸の手を離す決意を固める、そのための期間だった。記憶を幸せで満たして、満たして。この未来さきに繋がるようなさよならにするための。そのための時間を、御幸が与えてくれた。


「わたしの高校生活、一也がいてくれて本当によかった。⋯⋯大好きだったよ」


 けれど過去形にでもしなければ、とても離せそうにない。大好きだった。

 一也。大好きだったよ。

 
「俺も⋯⋯お前がいてくれて良かった」
「──頑張って、一也」
「ああ。約束する」


 こうして名前たちは、その手を離したのだ。





 それなのにどうして今もこんなことをしているのだろう。時々そう思う。未練がましく御幸の所属する球団を追い掛け回し──もちろんファームの動向含め──、部屋を球団のグッズで溢れさせ、メディアのチェックも欠かさない。

 今日も、御幸の球団の若手特集が組まれるという深夜のニュース番組を付け、ソファに身を沈めていた。

 あの手袋を、傍らに置きながら。

 
「こいつの部屋、マジで殺風景なんすよー。生活が送れる最低限しか置いてなくて」


 そう答えているのは御幸の一期先輩にあたる選手だった。アナウンサーに寮での生活の様子を聞かれている。

 
「俺が置いてった雑誌とかもあっという間に捨てられちまうし」
「当たり前でしょう、俺は読まないんですから。不要な物が溜まっていくの、嫌なんですよね」
「あはは、潔い。そんな御幸選手なら、捨てられないものなんてなさそうですねぇ。私は捨てるのが苦手なので羨ましいです」
「いやいや、捨てられないものなんて沢山ありますよ、ベッドとか冷蔵庫とか、──⋯⋯」
「? とか?」
「⋯⋯いや、何でもないっす」


 何を思い浮かべていたのか、御幸の顔には一瞬だけ、酷く決まりの悪い表情が過ぎる。それを目聡く見逃さなかった先輩選手が、間髪入れずに答える。

 
「あ、分かった、あの片っぽしかない手袋──ッむぐ、ぐえ、」
「手袋⋯⋯ですか?」
「いやー、ちょっと思い入れのあるやつで。まぁ誰にでもひとつやふたつありますよね。あ、ちょっと呼ばれてるんで、俺はこのへんで」


 先輩にも関わらず強烈に顔面を抑え込みその口を塞いでいた御幸が、グラウンドの方へと走り去っていく。「いやぁ、気になりますねぇ」なんて言葉をアナウンサーが残し、次の話題へと切り替わる。そんな映像を、名前は口をあんぐりと開けて見ていた。
 
 息など疾うに止まっていた。

 まさか、──まさか。

 傍に置いていた手袋の片割れを、そっと手繰り寄せる。淡い期待をしてしまった。まさか、御幸も。名前と同じように──? いや、いくら何でもそんなまさか。ぶんぶんと頭を振り、有りもしない可能性を払い落とす。

 その時だ。着信音が響いたのは。

 画面に羅列された十一桁の数字。登録はとっくに消去していたのに、その番号を見た瞬間に結びついてしまった。束の間迷う。出ようか出まいか。だってこんなタイミングで都合良く電話が掛かってくるなど、話が出来過ぎている。
 
 たっぷり五コール分、逡巡する。

 結局名前は震える手で通話ボタンをタップしていた。


「も⋯⋯もしもし」 
「あ⋯⋯俺、だけど」


 名乗りもせず、しかし非常に気不味そうな声色で「俺だけど、分かる?」とでも言いたそうに、相手は語尾を窄めた。

 
「うん、今⋯⋯ちょうどテレビで⋯⋯」
「⋯⋯見ちまった?」


 懐かしい声だ。
 電話越し。名前のためだけに発せられる、テレビとはほんの少しだけ感じ方が違う声。変わっていない。久しぶりに触れたその響きに、全身がぶるると震える。呼応するように、電話に応える声も震えてしまう。


「み、見ちまいましたけど⋯⋯何でわたしが見てると思ったの? よく、別れた女がいつまでも自分を好きって思ってる男は多いって聞くけど、まさか一也も⋯⋯?」
「ははっ、辛辣な言い方すんじゃん。そこまで自惚れてはいねぇつもりだけどな」
「でもそうじゃなきゃ、こんな時間に突然元カノに電話してくるかな?」
「怒んなって」
「あ、ほらぁ。そうやって誤魔化そうとする」


 あの頃と同じ、少し意地の悪い笑い声。暫しそれを転がしてから、御幸は急に押し黙る。そして少ししてから「⋯⋯でも、そーだな」と呟いた。寂しく響いた御幸の呟きが、名前の臓腑にずしりとのしかかる。

 あの映像を見て、その上でそんな声を聞かされては。抑えていた気持ちが溢れてしまうではないか。


「なぁ、名前」
「⋯⋯ん?」 
「──会いてぇよ」
「⋯⋯っ」
「声聞いちまったら、どうにもなんねぇ」


 初めて聞く切ない声だった。絞り出したように少し掠れて。声音だけで、名前をこんなにも欲すのだ。

 こんなふうに求められては、頭で考えるより先に心が応えてしまうではないか。


「⋯⋯バカだよ。一也は、ほんとにバカ」
「ああ。俺もそう思う」


 どんな想いで別れたと思っているのか。
 プロの世界で生きる御幸の重荷にならずに、迷惑をかけずに、生きていける自信がないから。たくさん我儘を言ってしまうと思うから。それで関係が駄目になるくらいなら、嫌われてしまうくらいなら、幸せな状態のまま別れたい。御幸だって、それを分かっていたはずなのに。

 それなのに。
 

「わたしも、会いたい⋯⋯っ」
 

 何が正解だったのか。どうするのが正しいのか。それは結局、いつになっても分かることはないけれど。
 
 片方だけの手袋を握り締めて、名前は静かに頬を濡らす。冬を迎える部屋は寒い。少し冷えていた頬の表面を落ちる涙は、異様にあたたかく思えた。




  
◆まるでガラスの靴みたいに◇

 

リオ様より、すれ違いハッピーエンド