欠けた瞳のかわりに何か
「──っ、七海さん!!!!」
意識が途切れる前に最後に聞いたのは、自分の名を呼ぶ悲鳴のような声だった。
⁑
重たい暗闇の中に一筋の光が差した気がした。極僅かな細さのそれがやけに眩しく感じられ、七海は鉛のような瞼を持ち上げる。
「──⋯⋯⋯⋯、」
視界が酷く悪い。焦点が合わず、視野の広さにも違和感を覚える。まるで片目しか見えていないかのようだ。⋯⋯そうか、あの時の怪我で──いや、可怪しい。あれ程の重症を負ったうえ、真人の手に掛けられたはずなのだ。生きているわけがない。
ということは、ここは死後の世界ということだろうか。
だとすると思っていたものとは随分と違う。死ねば全ては楽になるものと勝手に思っていた。全ての苦痛から解放され、安寧が訪れるのだと。ところがどうだ。身体は酷く重く、全身が恐ろしく痛む。心は少しも軽くなどなっていない。死してなおこんな苦しみを享受せねばならぬというのなら、この世界はどこまで残酷に作られているのだろう。
そんなことを考えていた、その時だった。
「あっ、起きてる! 七海さぁん!!」
声が突進してくる。この声は⋯⋯名前だ。そう認識した直後、のしかかるようにして覆い被さってくる名前に、七海は思う。
──死んで、いないのか?
直感だった。名前の体温や感触は、確かに生きている者のそれだ。仮に名前も死んでいて両名死後の世界にいるのだとしても、余りにも鮮明に“現実的”だ。
──生きて、いるのか。
「七海さん⋯⋯分かる? わたしだよ」
なかなか反応を返さない七海に業を煮やしたのか、名前が頭を上げ不安そうな声音で問う。頷く代わりに「重いです、退いて下さい」と、そう言葉にしたつもりだったが、声は喉の奥にべったりと貼り付いたように出てこなかった。そんな七海の様子から何かを悟ったのか、名前は静かに現状を話し始めた。
「七海さんね、生きてるよ。ちゃんと⋯⋯っていう表現は正しくないかもしれないけど、生きてる」
自分の身体だ。違和感だらけの己の肉体。凡その状態くらいは推察できる。命は助かったが、その状態は大分酷いものなのだろう。まああの怪我で生きていることの方が信じられないというものだ。
「継ぎ接ぎの⋯⋯真人だっけ。あの呪霊は悠仁に任せてきた。最終的には東堂くんとなんとかしてくれたみたい。まぁ、わたしは七海さんを助けることしか頭になかったから⋯⋯悠仁に任せたっていうより“放り投げてきた”ってのが正しいかな。だから“大人”失格。特級を悠仁に⋯⋯子どもに押し付けて逃げてきた」
伏せられた瞼。「悠仁が無事で良かった」と呟くそこには幾つもの後悔が重く降り積もっているように見えた。
声帯を震わすという動作が異様に億劫に感じられるが、それでも七海は声を掛ける。
「私のことは、貴女が⋯⋯?」
「ううん、硝子さんが」
名前が間を挟まず答える。七海を治したのは家入であると。
「わたしは、あの継ぎ接ぎの手が七海さんに触れる前に⋯⋯触れる本当にぎりぎり直前にその場から引き離せただけだから。速度だけが取り柄の自分の術式にこんなに感謝したの今回が初めて。けど結局、あの場に悠仁がいなかったら逃げ果せることもできなかったから⋯⋯」
「⋯⋯」
「この世界に身を置いてたらね、たくさんあるでしょ。『あ、駄目かも』って思うこと。自分でも、仲間でも。わたしも実際に何回も今際の際に立たされたことがあるし、何人もの仲間を失ってきたし。でもその分、“駄目かも”から奇跡みたいに助かる場面にも何回も遭遇してきた。だから⋯⋯でも七海さん、今回は本当に⋯⋯本当に駄目かもって思っ⋯⋯」
苦しそうに歪んだ顔。堪えきれなかったのであろう涙が頬をぼたぼたと落ちていく。それを見ても七海の表情が変わることはないが、その心中は酷く狼狽していた。
名前の涙は、苦手なのだ。
名前の泣き顔を見ると、心臓のあたりが嫌なざわつき方をする。自分自身に対しては決して起こることのない感情の起伏。それは言い難いほどに居心地が悪く、早く泣き止んでくれと思ってしまうのだ。
だからつい、こう言ってしまう。
「⋯⋯何ですかその顔は」
「え⋯⋯顔? 可愛すぎる?」
「いえ、酷過ぎます」
名前は一瞬面食らってから、涙と鼻水で汚れた顔をティッシュで拭いて「もー、意地悪だなぁ」と笑う。
笑って、その口の形のまま数秒固まって。
「⋯⋯ほんとに、意地悪」
表情が隠れるほど俯いて、沈んだように呟くのだ。
「わたしの気持ち、知ってるくせに」
──ああ、知っている。
名前が七海を好いてくれていることは。こんな自分をずっと好いてくれる物好きであることは。昔から。知っている。だからこんなに泣いてくれているのだ。
知っては、いるけれど。
「しかし貴女に私は⋯⋯相応しくない」
「⋯⋯どういうこと」
む、と唇を曲げた名前が顔を上げる。そこに誤解が生じていることに気が付き、七海は静かに訂正する。
「私に貴女が、ではなくて、貴女に私が、です。間違えないで頂きたい」
「は⋯⋯そんなわけ⋯⋯しかもそれを決めるのは七海さんじゃない」
静かだが強い口調だった。水面は凪いでいるのに、その底深くでふつふつと沸き起こるそれは、恐らく“怒り”なのだろう。「わたしが好きな七海さんを、七海さんが勝手に卑下しないでよ」と。
「ていうか⋯⋯そんな言い方したら、七海さんもわたしのこと好きなのかなって勘違いしちゃうよ。らしくもない言い方するね」
「いえ、それで構いません。だから敢えてそういう言い方をしたんです」
刹那、名前は目を見開いて。七海の言葉を咀嚼するように二度だけ瞬いて、再び見開いた目で七海を凝視した。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?」
そうして搾り出された声は、間の抜けた一文字を発したきり身を潜める。暫く待ってみたがどうやら言葉が続くことはなさそうなので、七海がその先を継いだ。
「ですから。そう解釈して貰って構いません、と言いましたが」
「え⋯⋯」
「⋯⋯何か?」
「え⋯⋯いや⋯⋯マジ⋯⋯?」
「私が冗談でこんな事を言うとでも」
名前のこんな顔も珍しい。どんな表情をしたら良いか決めあぐねるその様はまさに百面相の如く。ころころと数多の感情を経由した名前の顔は、最終的に恐ろしく下手な笑顔を作ってみせた。
「え、冗談⋯⋯じゃないの? あは⋯⋯はは⋯⋯っていや全然笑えないよ」
「冗談じゃあありませんからね、笑う必要はありません」
「な⋯⋯ほ、ほんとなの⋯⋯?」
一度も表情を崩さず視線も逸らさない七海の様子に、名前は何度も「え」「嘘」「でも」などと呟き、そのうちじわりと涙を溜め始める。ぷっくりと盛り上がる涙の端がふるふると揺れ、ついぞ零れ落ちたその瞬間、七海は右腕を持ち上げていた。無意識に名前の涙を掬おうとしていた。最後まで武器を振るっていた利き腕は、ゆっくりだが動かすことができた。
「ああ⋯⋯良いじゃないですか。先程の酷い顔よりずっといい」
「⋯⋯っ」
名前の涙は、苦手なのだ。
しかし初めて見たこの嬉し涙にはどうやら、七海の胸をざわつかせる力はないらしい。
名前は困惑したように眉を寄せ、しかしその中に確かな喜びを湛えて、七海が掬いきれなかった涙を拭い向き直る。
「⋯⋯ねぇ七海さん。もし今の言葉が真実だとしてね、」
「⋯⋯私は随分と信用が無いようだ」
「ふふ。⋯⋯で、真実だとして、どうして言ってくれたの?」
「⋯⋯?」
「七海さんは例え誰かを好きになっても、何ていうか⋯⋯墓場まで持っていくんじゃないかなって思ってたから」
ああ、──そうですね。
心の中でそう呟いて、七海は頷いてみせる。名前の言う通りだ。
そもそも自分は他人に“そういう気持ち”を抱きにくい質なのだ、非常に。そのうえ例えその気持ちを自覚したとしても、浮つくよりも先に理性と俯瞰とが働いてしまい、嫌悪感にも似たむず痒さを覚えてしまう。結局のところは羞恥によるものなのだが、そういうわけで、その渦中に己の身を置く気には到底なれなかった。相手の笑顔を離れたところからそっと見守るくらいが良いのだ。
だから名前への気持ちは、それこそ墓場まで持っていくつもりだった。そもそもこの気持ちは“恋愛”という単語で想起するような甘くもどかしいものではない。もっと別の。ただただ相手の幸福を心の底から願うような。最後まで一方通行でも不思議と満たされるものに近い。それでもやはり、打ち明ける気など微塵もなかった。
もう、死ぬものと思っていた。
名前も言っていたが、今回ほど「駄目だ」と思ったことはない。今回ほど自分の死を覚悟したことはない。マレーシアの情景。灰原の顔。覚悟どころか既に受け入れてさえいた。
それでも、助かった。助けられた。
自分の墓場は、どうやらここではなかったらしい。それならば。
「では⋯⋯今の問の答えを墓場に持っていくとしましょうか」
「えっ! 何で?! 聞きたいよ!」
そう笑いながら口にする名前の表情は、見たこともないほど穏やかであたたかい。そうか。通じ合うということは、こういう瞳を向けてもらえるということなのか。今まで明確な理由もなく敬遠していたが、そうそう悪いものでもないな。と七海は認識を改めるのだった。
【欠けた瞳のかわりに何か】
真奈美様より、渋谷事変救済両想いエンド