Baby's breath
麗らかな朝日が差し込む春の朝。
大きな色付きポリ袋に「Y」の文字を貼り付けたお手製の簡素な変身衣装を身に着け、仮面ヤイバーになりきった幼気な声が、家中に響いた。
「どぉーーーん! みらくるきーーっく!」
「ぐっ」
その声を聞きつけた名前は、朝食準備の手を止め、声の出所である寝室へと慌てて駆け込む。
「うわあ、やられた⋯⋯ごめん陣平⋯⋯」
目の前では、短い足を目一杯開いて大人の体躯に馬乗りになった息子と。息子に馬乗りになられている陣平の姿とがあった。陣平はまだ九割方寝ているようで、眉間に皺を寄せつつもぴたりと瞼を閉ざしている。
名前は出来るだけ小声で、説得を試みる。
「もー息子? 今日はこっちのお部屋はダメって言ったでしょ? 陣平、せっかく非番なんだから好きなだけ寝かせてあげようね」
「ひばん?! じょっかーめっ! とうっ!」
「んぁ⋯⋯なんだ⋯⋯?」
ちいさくもちもちとした手が、べちりと陣平の胸を叩く。何とも可愛らしいパンチについ笑ってしまってから、名前は慌てて口元を引き締め、陣平に跨っている息子を引き剥がすように抱き上げる。
「今はだーめ。陣平はねんねなの」
「ねんねしないの、ねんねだめぇ」
「あはっ、だめじゃないんだなぁこれが。労働の後には十分な休息が必要なのです」
昨夜の帰りも遅かった。
陣平はいつも忙しい。息子が寝入ってから帰宅することもしばしばであるし、勤務形態的にも不規則な生活にならざるを得ない。陣平がこうして身を粉にして働いてくれているから、名前と息子は、不自由なく毎日平和に生きていられる。
だから休みの日くらい好きなだけ寝ていてほしい。
帰宅後、ネクタイを緩めながらそっと寝室の戸を開け、じっと息子の眠る姿を見つめている。ソファに座る名前の腿に頭を預け、眠そうにしながらその日の出来事を聞いてくれる。
そんな陣平に名前が返せるものは少ない。だからせめて、家族が生きるこの家を守り、愛息子を育て、陣平を出来る限りで支える。
それが名前の、生き方だ。
それに家事育児を中心とした生活は名前に合っていたようで、日々が充足感に満ちている。愛しい存在を育み、愛しい人を支える。幸せだ。
だから細く目を開け眩しそうにする陣平を見て、息子を食い止められなかった申し訳なさが込み上げる。が、息子の気持ちも分からなくはないので少し複雑なのである。
「ごめんねジョッカー、息子に悪気はないの。その、二度寝してね⋯⋯あっ、息子!」
「おひしゃまもってくぅのー、おっきしゅるから!」
「確かに朝日は目覚めを良くするけど、おひさま持ってくるってどーいうこと? 今度は何する気だ⋯⋯!」
名前が気を抜いた一瞬だった。名前の腕をすり抜け、息子が走って部屋を出ていく。辿々しい足音を、名前の足音が慌てて追う。
去りしなにそっと閉められた戸。陣平がひとり残された寝室に、静寂が戻ってくる。陣平はまだ重たい瞼を閉ざす。お言葉に甘えてもう少し寝るかな、と思ったその時だ。
──“とうっ!”
今しがた陣平の上に乗っていた息子の、舌っ足らずな声が頭の中に響く。脳裏に息子と名前の姿がちらついて、陣平は観念したように息を吐いた。
「⋯⋯寝てられるかっての。つーか誰がジョッカーだよ、俺は平和を守る警察官だっての」
のそりと身を起こした陣平に、窓の外からピチチ⋯⋯と鳥の囀りが降り注いだ。
「⋯⋯はよー」
「あー! じんぺーおきた! おはよぉー!!!」
「おう、今日も元気だな」
朝食を食べていたらしい。陣平を認めた途端、食卓から離れだだだっと走ってきた息子の攻撃をひょいっと片足を上げて躱す。「あぁーーん!」と悔しそうに追い縋る息子を軽く抱き上げる。
ちいさくて、やわくて、あたたかい。
「元気なのはいーけど、ただ俺のことは父ちゃんと呼べ」
「え⋯⋯だって⋯⋯じんぺぇは⋯⋯?」
心底困惑した様子で訊ねる息子に、名前がぷくくと笑い声を漏らす。
「笑ってっけどよ、オメーが陣平陣平呼ぶからじゃねえの」
「だってわたしのお父さんじゃないしなぁ。それに陣平だってわたしのこと名前で呼ぶじゃん。でも息子はお母さんって呼んでるよ」
「それもそーか⋯⋯オイ息子、何でだよ?」
「??」
きょとり。覗き込んだ息子の顔がそう主張していて、陣平は諦めの溜め息をつく。
「陣平どうする? すぐ朝ご飯にする?」
「ああ、頼むわ」
「うん。今朝はホットサンドでーす」
何挟みたい? と訊ねながら立ち上がった名前を、陣平の片腕に乗った息子が呼ぶ。
「おかーしゃん」
「ん?」
「こっち、きてぇ」
「? なぁに?」
甘えるように誘われ、無意識に近付く。極至近距離まで近付いても「もっと、もっと」と言われるので、息子に頬擦りをするついでに陣平にも抱き着く勢いで身を寄せると、息子の片手が名前の後頭部を「ぎゅうー!」と言いながら抱き締めた。
何の前触れもない家族三人の抱擁。名前は一瞬目を見開いてから「ふふ、ぎゅー」と二人に手を回し、抱き締め返す。
きゃいきゃいと嬉しそうに声を転がす息子と、それに応える名前。そんな二人を支える陣平から、「オメーら俺に体重預け過ぎなの気付いてるか?」と呆れつつも優しげな声が落ちた。
朝の家事があらかた済んだ頃だった。
名前が家のことをする間中、息子と遊んでくれていた陣平が、よっと腰を上げる。
「俺こいつとちょっと出てくるわ」
「え?」
出てくるわ、なんて。どこぞの外回りに出向く営業の台詞みたいな言葉で、一体どこへ行くというのだろう。というか二人で? 名前は?
「お散歩? わたしも一緒に行くよ」
「いや、今日は男二人水入らずだ」
「ええ⋯⋯?」
「ま、名前はちょっと休んでてくれよ」
「それならわたしより陣平が──」
「い い か ら」
反論は認めねえ。そんな言葉が陣平の背から放たれていて、名前は口を噤む。首を傾げつつも、道中困らないようにと水筒に冷たい麦茶を入れた。
二人が帰ってきたのは、それから小一時間が経った頃だった。
息子は玄関に入った瞬間から賑やかだ。名前が玄関に出迎えに行く前から、「これだよねっ、どーじょしゅぅの」「そ、大事にな」「うんっ」と元気な声が聞こえてくる。
それからとたとたと廊下を駆け、迎えに来た名前の足に絡み付き、息子は満面の笑みで両手を差し出した。
「おかーしゃん! ぷでれんと! どーじょ!」
「わあ⋯⋯お花だ! これプレゼントしてくれるの?」
「うんっ!」
フローリングに膝を付き、目線を合わせる。
ちいさな両手に大事そうに抱えられているのは、カーネーションとかすみ草の花束だった。カーネーション。そうか。そういえば次の日曜日は、──母の日だ。これを買うために。陣平は息子を連れ、花屋に行ってくれたというのか。
花束に顔を近付ける。甘い。甘い香りだ。
「じんぺがねぇー、このおはな、えっと、ちっちゃくて、ちろいやちゅ」
「小さくて、白いやつ?」
「うんっ、おかあしゃんがこれ、すちなんだぜって」
「え⋯⋯?」
驚いて陣平を見上げる。視線を逸らして後頭部を掻いている陣平は、甚く気恥ずかしそうにしていた。
陣平は、いつから知っていたのだろう。名前の好きな花を。それを息子と一緒に選び、一体どんな言葉で、どんな表情で、我が子に伝えてくれたのだろう。
その場面を思うと、自然と涙が出てきてしまった。
ああ、わたしはなんて、幸せなんだろう。
目の前で母の目から涙が落ちるのを目の当たりにした息子は、助けを求めるようにして陣平の服を掴む。
「あー、な、なみだ⋯⋯じんぺ⋯⋯!」
「っとに昔から泣き虫だな、お前はよ」
しゃがみ込んだ陣平の両手が、名前の頬を包む。親指の腹でむぎゅっと涙を拭われる。昔から変わらないその仕草に、名前からは思わず笑みが零れる。
それをじいっと見ていた息子は、陣平の手が離れたあと、同じ場所にちょこりと手を重ね、小首を傾げて名前を見上げた。
陣平と同じ仕草に、名前ぱちくりと瞬く。見つめる先には、黒目がちで、水分を多く含んだ無垢な瞳。名前を見つめるその瞳に、名前の姿が反射している。
「おかーしゃん、いちゃいちゃいなの?」
「ううん、痛くないよ、嬉しいの」
「?」
「ここがね、ぽっかぽかであったかくて。さっきみんなでぎゅーした時みたいに」
胸に手を当てそう告げると、息子は不思議そうにしながら、自分の胸のあたりを見下ろしている。それを微笑ましく見つめてから、陣平を見上げる。
「陣平、ありがとう⋯⋯すごい嬉しい」
「おう」
「もう、急にこんなの、思わず泣いちゃったよお。どーしちゃったんだろうねぇ、今日の陣平は」
「あ? 俺が花贈っちゃ悪いのかよ?」
「ふふ、いいえ、まったく」
笑う名前を見下ろして、陣平は、開きかけた唇をそっと閉ざす。
ふと、思ったのだ。
朝、名前と息子が朝日を引き連れ部屋に入ってきた時。いつもと同じはずの光景が、やけに目映く見えて。ああ、こんな普通の日常こそが、守るべきかけがえのないものなんだろうな、と。そんな小っ恥ずかしいことを、不意に思ってしまったのだ。
かつての陣平ではきっと、こうは思わなかった。気の置けない友人と馬鹿やって。自分の好きな時間に自由に動いて、時には朝まで騒いで。
その時のような派手さも、自由さも、破天荒さもない。
ただ、穏やかに凪いでいて──息子は勿論騒がしいが──、気に留めなければ記憶に留まることもなく過ぎていってしまいそうな日々。けれどそんな時間こそ、先人たちが守りたかった未来なのかもしれない。今記憶に刻んでおかなければ、すぐに後悔する日が来るのかもしれない。
そんなことを考えていたら、花を買っていた。我ながら単純だと思う。
感極まった名前に押し潰されるように抱き締められている息子が、そんな陣平を呼ぶ。
「じんぺぇ、きてー」
「あ?」
「ぎゅーしゅぅの、みんな」
「ぎゅうだ?」
陣平が眉を寄せる。二人への愛情表現をこのようなかたちで表すことは、苦手──というか柄ではない。故に少し尻込むが、息子のキラキラした眼差しに負け、意を決して「⋯⋯おし、こい!」と構える。そんな陣平に、息子がぴしゃりと言う。
「ちがうの、じんぺがくぅのー」
「⋯⋯ああそーか、俺が行くのか」
確かに息子は「来て」っつったな、と得心して、片膝をついて二人纏めて両腕で抱え込む。ちいさな息子と小さな名前。二人揃っていても余裕で抱き締めることができた。
その腕に弱く力を込めてみせると、腕の中の二人が擽ったそうに笑う。
「きゃははっ、ぽかぽか、あったかいねぇー」
「あーもう幸せ。今日の夜は焼き肉でも行っちゃおうか」
「やりぃ」
平凡な日常に咲くかけがえのない一時。花瓶に生けられることを待つかすみ草が、陽だまりの吐息のように、ちいさく揺れた。
[Baby's breath]
ともすけ様より、結婚して1〜3歳くらいの息子がいるおはなし