足跡、傷跡、何の跡
半分に欠けた月が、煌々と夜空を照らしている。よく晴れた夜だ。
降谷は黙々とトレーニングを行っていた。腹筋、背筋、腕立て、縄跳び、エトセトラ、そして愛犬の声援。最近増えたこの可愛い声援に、降谷は限界からあと一回、あと一歩、自分への負荷を課すことができるのだ。一人でも別段手を抜いたりはしないが、やはり他者の目があるというのは、身が引き締まる思いだ。
そんな最中のことだった。
「オイ、ハロ?!」
前触れもなく、ハロが走り出す。
油断していた。いつも利口だからと、リードを近場に繋いでいなかった。すぐに追い掛けるが、小型犬と言えど足は速い。流石の降谷でも疾走する犬に追いつくことは出来ず、ハロは降谷を置き去りにし、とある人影に向かっていく。
その人影の前で足を止め、ハロは千切れんばかりに尻尾を振る。
「アン!」
「あらあら、どしたー。リード付けて一人で走ってきたの?」
「アンッ!」
わふわふと嬉しそうに息を吐き、尻尾をふりふり。わざわざしゃがんでくれた女性の膝に両前足を掛け、最早飛び付く勢いである。誰が見てもひと目で甘えているのだと分かる。
降谷は慌てて駆け寄る。
「すみません! お怪我はありませんか?」
「いいえー、まったく」
「良かった⋯⋯こら、ハロ、駄目じゃないか」
降谷の声に、その人物が顔を上げる。そしてすぐにぱあっと笑顔を咲かせてみせた。
「やっぱり安室さんとハロちゃんだ」
「え?」
問い返しながら、スイッチを完全に切り替える。降谷から安室へ。そしてすぐに記憶を探る。会ったことがあるのであれば、大抵の人物は覚えているはずだ。
記憶と。目の前の人物とを見比べる。
ハロを知っているということは、会ったのは極最近。ハロを見つめる柔らかな眼差しを湛えた横顔。華奢な手に似合わぬ、幾多の傷。
「あ⋯⋯この間の動物病院の!」
「ふふ、正解でーす!」
先日、ハロの予防接種で行った動物病院の看護師だった。
纏めていた髪を下ろし私服を着たその姿は、病院での姿とは別人だ。「よく分かりましたね」と笑う顔と、ハロを見つめる眼差しだけが、あの日と重なる。
降谷は思わず呟いていた。
「いやぁ、女性は髪型ひとつで印象が変わりますね」
「あら、どういう意味でしょうか」
「凄く良い意味ですよ」
確か、名前は。
ユニフォームに名前が刺繍されていた。思い出す。確か。⋯⋯そうだ、名前。苗字名前だったはずだ。
ハロも覚えていたのだろう。怯える身体を優しく抱き、撫でてくれた名前のことを。その証拠のように、今となっては名前の膝に完全に乗り、甘えまくっている。しかしハロの足は当然の如く土で汚れていて、勿論名前の洋服にも汚れが付いてしまっていた。
「ああ、すみません、お洋服が」
「いいんですよー、気にしないで下さい」
「いえ、そんなわけには。今クリーニング代を⋯⋯」
「クリーニング?! あはは、やだ、そんないいお洋服じゃないですよ。こんなのちゃちゃっとほろって洗濯機に突っ込めば万事解決です!」
懐こい人だなと思う。まるで懐こい小動物のようで、少し、気が緩む。気付けば世間話を口にしていた。
「今お帰りですか? 動物病院も結構遅いんですね」
「いつもはもう少し早いんですけど⋯⋯今日は病院閉める間際に急病の猫ちゃんが来て、その対応でちょっと」
「そうでしたか。お疲れ様でした」
医療職も警察も、こういうところは似ている。いつも突然に、何の前触れもなく。ともすれば命にすら関わりかねない事件が転がり込んでくる。
とここで、名前が不思議そうに降谷を見ていることに気付く。
「⋯⋯? どうかしました?」
「あの⋯⋯安室さんて、何かのスポーツ選手なんですか?」
「え?」
「こんな時間にトレーニングなんて趣味でやるかなぁって⋯⋯あ、でもこの間病院に来た時は確かスーツを着てたような⋯⋯?」
顎に指を掛け、首を傾げて思案する名前に、内心でへぇ、と呟く。よく見ている。これは勘も良いタイプか? と思った、次の瞬間だった。何かを閃いたように顎から手を解き人差し指を立てた名前が意気揚々と言う。
「あっ、分かった! スーツで身体を使うお仕事といえば、刑事さんとか!」
「──、」
「ふふ、なーんて、ドラマの見過ぎですかねぇ」
「ハハ⋯⋯」
何も答えず、曖昧に笑うに留める。
“安室透”として私立探偵だとかポアロの店員だとか、表の顔を話す分には何ら問題はないはずなのだ。しかしそれを今説明するのは、何故だか気が引けた。
名前もそれ以上を訊ねてはこなかった。
「じゃあ、わたしはそろそろ。トレーニング頑張って下さいね」
「ええ、ありがとうございます。もう遅いですから気を付けて下さいね。さあハロ、こっちへ」
「クゥン」
降谷が手を差し伸べた途端、ハロの眉がしょぼりと下がる。真ん丸の瞳は何かを訴えるように悲しげに潤み降谷を見つめていて、思わず溜め息をついた。
「クゥン、じゃない。迷惑だろう」
抱き上げようと手を伸ばすが、ハロは一層、名前の身体に頭を擦り付ける。それを見た名前は「も〜〜〜可愛い子め!」と顔を綻ばせ、わしゃわしゃとハロを撫で、それからこんな提案をした。
「よーし、ハロちゃん。少しわたしとお散歩しようか?」
「アン!」
「ふふ。安室さん、どうでしょう⋯⋯? 良かったら一緒にお散歩など⋯⋯かえってわたしがトレーニングのお邪魔になっちゃいますけど」
どこか申し訳なさそうにする名前と、期待を込めた眼差しで降谷を見上げるハロと。それぞれの瞳に見つめられ、降谷は“降参だよ”とハロに向かって肩を竦めてみせた。
「邪魔だなんてとんでもない。ご迷惑をおかけしているのはこちらの方です。貴女さえ良ければ、喜んで」
「やったあ、よかったね、ハロちゃん」
「ワゥン!」
二人と、一匹と。何の縁か、短い夜の散歩はこうして始まったのだった。
街灯の下をゆっくりとしたペースで歩きながら、降谷は名前の表情を伺う。名前は嬉しそうにハロのリードを握っていて、ハロも嬉しそうに名前を見上げている。名前からは降谷に対する警戒心はほぼ感じられない。
思わず、口にしていた。
「僕が言うのもなんですけど、」
「?」
「気を付けて下さいね。ペットをだしにして若い女性に近付く危険な輩もいますから。こんなに軽々しく一緒に散歩だなんて⋯⋯しかも夜に。もう少し警戒して下さい」
「⋯⋯安室さんも、“そう”なんですか?」
「そうだと言ったら?」
ぱちくり。名前の瞳が降谷を映し、瞬く。幾度も瞼で降谷を切り取ってから、名前は可笑しそうに笑った。
「あはは、もう少しマシな嘘ついて下さい」
「おや。嘘をつくのは得意なんですけどねぇ」
「ふふ」
どうやら名前には降谷を疑う気はないらしい。勿論降谷のことは信頼してもらって構わないのだが、名前のその愛らしくも思える無防備さは、女性としては──独身既婚、恋人の有無など関係なく──危険だな、と思う。
「⋯⋯本当に気を付けて下さいね。心配なのでご自宅の近くまで送ります」
「あ⋯⋯実はこれなんです、このマンション」
名前が丁度左手にあったマンションを指差す。降谷は思わず溜め息をついた。
「送ると言っておいて本当になんですけど、簡単に自宅を教えたりしちゃ駄目ですってば」
「えっ、あっ、そっか⋯⋯なんか安室さん、初対面って感じがしないというか、気が緩んでしまうというか⋯⋯はい、気を付けます、だからそんな顔しないで」
焦った様子で言ってから、名前はしゃがんでハロを撫でる。
「ハロちゃん、お家まで送ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「クゥ⋯⋯クゥン⋯⋯?」
「んー、どうかなぁ。また会えるかはわからないけど。でもまたお散歩出来たらいいね」
「アン!」
「それじゃあ、安室さん。わざわざありがとうございました。またどこかで!」
「こちらこそ。おやすみなさい」
そう言って手を振ってから、考える。
こちらこそ、ありがとう。
こちらこそ、また、どこかで。
いま自分が口にした“こちらこそ”は、一体どんな意味だったのだろうかと。
新月だ。
雲ひとつない夜空には、ぽつりぽつりとだけ星が散っている。月のない夜空は、いつもより少し暗く見える。
とある捜査で住宅地にほど近い通りを早足で歩いていた降谷は、コンビニのあたりでふと聞き覚えのある声を耳にした。「大丈夫ですか?」というその声の方に視線を遣ると、片足にギプスを巻き松葉杖を突いた三十代と思しき体格の良い男性に、女性が駆け寄っていた。
名前だった。
コンビニから出てきてすぐのところだったのだろうか。男性はバランスを崩したようで転んでしまっており、名前が心配そうに手を差し伸べている。その名前の手を男が取る。力を込め起き上がろうとするが、体格差もあってか互いにバランスを崩し、「あっ!」という声と共に転倒してしまう。構図的には男が名前に半ばのしかかるようになっていた。
その光景を見て、降谷は走り出していた。
「す、すみません、バランスが取れなくて」
「いえ、こちらこそ支えになれず申し訳ないです。足痛みませんか?」
もう一度差し伸べられた名前の手に向かって、男の手が伸びる。その男の腕を、駆け寄った降谷が──がっしりと掴んだ。
「その手を離してもらいましょうか」
「「?!」」
急な降谷の登場に、名前と男が揃って降谷を見上げる。「あ⋯⋯安室さん⋯⋯?」と目を丸くする名前と、「な、何だよ急に⋯⋯痛ぇんだけど。離せよ」と目付き悪く睨み付けてくる男。降谷は男を見下ろして淡々と告げる。
「見かけた瞬間から違和感はあったんです」
「は⋯⋯?」
「松葉杖はね、怪我をしていない側で突くんですよ。それを病院で教えないとは考えにくいですし⋯⋯そもそもその足って怪我してませんよね? さぁ、今盗った財布を返して下さい」
「え、財布?!」
声を上げたのは名前だった。慌ててハンドバッグの中身を確認し「わ、ない! あれ?!」とあたりを見回している。
降谷の双眸が、冷たく男を見据える。
「──さぁ」
「⋯⋯ッ」
男の腕を捻り上げる。男は悲鳴こそ上げなかったものの顔を酷く歪め、観念したように盗み取っていた名前の財布を投げ捨てた。
そんな男の態度に、降谷はより一層手に力を込める。今度は男の口から小さな呻き声が漏れる。そのままコンビニへと引き摺り込み、店員に警察を呼ぶよう依頼する。手早く拘束した男の身柄を預け、店から出る。
名前は所在なさげに降谷の戻りを待っていた。降谷は溜め息と共に呟く。
「だから気を付けてと言ったのに」
「⋯⋯はい」
「貴女はもっと人を疑わないと駄目です。こんなほいほい騙されてちゃ⋯⋯目が離せやしない」
「え⋯⋯?」
「いえ、こちらの話です。さ、歩けますか? 僕の家が近いのですぐに手当てをしましょう」
「⋯⋯? 手当て?」
「肘、怪我してますよ。それなりに深そうですね」
「えっ、わ、ほんとだ」
自らの腕の状態を確認した名前が、「そういえば痛いや」と他人事のように言う。硬いアスファルトの上、大男に押し倒されたようなものなのだ。肘の怪我だけで済んで良かったと言うべきだろう。
あと数秒。ほんの数秒早く駆け付けることが出来ていたら。名前が怪我をすることもなかったのに。
そう思い、無意識に奥歯を噛み締めていた。
この苛立ちが、一体何に対する苛立ちなのか。何による苛立ちなのか。
図りかね、名前の手首をやわく掴む。
「早く洗わないと。化膿でもしたら厄介だ。こっちです」
「えっ、いえ、あの」
驚き。困惑。迷い。
表情をころころ変えながら、それでも名前はさしたる抵抗をせずに降谷に従った。言葉通り歩いてすぐの降谷の拠点に早足で到着し、パタンとドアを閉めたところで、降谷は名前を振り返る。
「⋯⋯ほら。こうして簡単に一人暮らしの男の部屋に入ったりして⋯⋯襲われたらどうするんですか」
ぱちり、ぱちりと。名前の瞼が大きく上下する。リビングからハロが嬉しそうに飛び出してきたが、名前も降谷も、互いから一瞬たりとも目を離さない。
「⋯⋯安室さんも、“そう”なんですか?」
「そうだと言ったら?」
「あはは」
「アハハ、じゃないですよ、まったく」
ふっと降谷の表情が和らぐ。それを合図に、名前は屈んで足元のハロを撫で回した。
その数分後、大人しく手当てをされる名前と、手当てをする降谷と。
「びっくりしてお礼言うの遅くなっちゃいました。助けて下さってありがとうございました。安室さんて⋯⋯凄いんですね」
「いえ、たまたまですよ」
「ふふ、またそうやって」
穏やかでこそばゆい空気が流れる二人の間を、ハロが忙しなく行ったり来たりしていた。
[足跡、傷痕、何の跡]
さり様より、安室透とのおはなし