背中合わせの夜を綴じる
生まれた時からそこにいた。
「ちーママ、今日もお世話になります!」
「いらっしゃーい。今夜は煮込みハンバーグよ」
「やった」
千冬の母。だからちーママ。
同じ団地の、隣の部屋。同じ年に生まれた名前と千冬。気の合うママ友。名前と千冬は、そうして一緒に育った。
名前が幼稚園に通っている頃、両親が離婚した。看護師の母は生活のために夜勤に多く入るようになり、それから母が不在の夜は松野家にお世話になるようになった。
一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、同じ布団で眠る。それが日常だった。“そこ”にいるのが当たり前の存在だった。
そうしてすくすくと育ち、名前も千冬も年頃になった。さすがにこの歳になれば夕飯をご馳走になるくらいで、風呂は自宅で入るし自分の家で寝る。一人で自炊をしてみることもたまにあるのだが、誰かと食べたほうが数段美味しく思えるし、そもそも千冬の母の料理がこれまた絶品なので、自然と足が向いてしまうのである。
そんなある日のことだ。
母が夜勤の日、いつも通りに有り難く千冬の家を訪うた名前は、煮込みハンバーグの匂いに胸を躍らせつつ訊ねる。
「あれ、そういえば千冬は?」
「ああ、洗面所で何かゴソゴソやってるわよ。ちょっと見てきてくれる?」
「うん」
千冬も年頃だし、明朝のヘアセットの予習でもしているのだろうかと、「千冬ー?」と声をかけながらドアを開ける。
その瞬間、ツンとした臭いが鼻を突いた。
「わ、何この匂い⋯⋯うわ、何その髪!」
「あ?」
「あ? じゃないよ、どーしたのそれ!」
「抜いて染めたんだよ」
「それは見ればわかるけど⋯⋯」
そこら中に散乱したヘアカラー剤の残骸を見るまでもなく、名前は呆然と答えていた。
昼間学校で千冬を見かけた時は、確かに黒髪だった。生まれながらの黒髪だ。しかしそれがどうだ。ツーブロックのふさっとした部分が、今となっては光を反射しゴールドに輝いてしまっているではないか。
引き寄せられるように、その髪に指を通していた。
「うわぁ、きらっきら⋯⋯」
「触んなって」
「でもやっぱり傷んじゃうんだねぇ」
千冬のお小言には耳を貸さず、傷んでしまった毛先を撫でる。それから、丁度洗面所前の廊下を闊歩していた千冬の愛猫を抱き上げる。
「ペケー、おいでー。見てよこの千冬の髪、怖いでちゅねぇ」
「みゃあ」
くんくんと鼻をそよがせ目をくりくりと動かしているペケを、千冬が撫でる。「オレは何も変わんねぇよな、ペケ」と言うと、ペケは心地よさそうに撫でられた側の片目を閉じた。
ついでなのでカラー剤の片付けを手伝い、揃って食卓へ向かう。
「あ、来た来た、もうご飯出来るわよ⋯⋯って何その髪?!」
「うっせぇな、染めたんだよ」
「ま、お母さんに向かってうっせぇだなんて。あんただけハンバーグ抜きよ」
「ハァ?! ふざけんな」
「あはは、ふざけてるのは千冬だよ。ねぇちーママ」
「ねぇ名前ちゃん」
名前と千冬の母は、仲が良い。
顔を見合わせ笑っている二人を、食卓の照明をきらきらと弾いている長めの前髪の下から、千冬が仏頂面で見つめていた。
次の日学校へ行くと、学校中がどよめいた。
勿論、その反応は千冬の髪色に対してのもので、生徒指導を始めとする教師たちが千冬を呼び出すなどして早速話題になっていた。集団尋問から帰還した千冬に問うてみると、「元に戻せとかワケわかんねぇこと喚いてたけど、オレには関係ねーし」と言っていた。
見た目は完全に不良だった。
やっていることも不良だった。
しかしみっこは何も変わらない。昔からだ。だから名前と千冬の関係も、何も変わらなかった。
*
いつからだろうか。
毎日きっちりとセットされていたリーゼントが、重力に従って地を向くようになったのは。素のままの髪型は自宅で見慣れたものであるはずなのに、学校で見るそれは、何故だか特別可愛く、そして少し幼く見え、自分しか知らなかった秘密が世界中に公になってしまったような気がして、名前の心は妙な喪失感と不可思議な嫉妬とに苛まれた。
それからだ。千冬がどこか恋する乙女のように、飼い主を待ち焦がれる仔犬のように、誰かを慕っているように見えて仕方がなくなったのは。しかも“恋”などと呼べる可愛い感情ではない。激情と言ってもいい程の、クソデカ感情のように思えて仕方がないのだ。
その想いの向く先を、名前はやきもきとした心地で考えている。千冬をこんなに夢中にさせる人は、一体誰なのだろうと。
「千冬、最近変わったね」
「? そーか?」
「うん、なんか可愛⋯⋯いや、柔らかくなったというか⋯⋯あと優しくなったような⋯⋯上手く言えないや」
「⋯⋯? 何言ってんだオマエ」
「ふふ、ね、ほんとに」
自分の感じたことを的確に言葉に出来ないもどかしさに、名前は眉を下げ肩を竦める。名前のその困った笑顔を、千冬はじいっと見つめていた。
──優しくなったって言われても、オマエには元々、いつだって誰よりも特別に優しいんだけどな。
まさか千冬がこんなことを思っていたなんて、名前が知る由もない。
その後だ。千冬が変わったのは東京卍會に入ったからなのだと、名前が知ったのは。
*
秋だった。
世界が紅葉に色付き、美しさと侘しさと寒々しさとが入り乱れ、その変化に気持ちも忙しく移ろっていく。
そんな秋の、夜だった。
母の夜勤の日、いつものように松野家にお邪魔すると、そこに千冬の姿はなかった。聞くと、ここ最近あまり家に寄り付かず、帰宅しても自室に閉じ込もっているという。学校ではクラスが違うので、この数日間千冬が登校していたのかどうかは名前も知らない。とは言っても、千冬が家にいないことは別に珍しいことではないので、千冬の母もあまり気にしていないようだった。名前も例に違わず美味しい夕食を頂戴し、少しお喋りをしてから帰宅した。
風呂や明日の準備を済ませ、スマホを弄りながら過ごしていた、二十三時頃。唐突にチャイムが鳴った。名前は直感で思った。千冬かな、と。
玄関の戸の前には、やはり千冬が立っていた。久し振りに見たその姿は憔悴していた。生々しい包帯や絆創膏。目の下には隈。綺麗な白だった結膜はところどころが充血していて、全身には何か、名前がこれまでに触れたことのない空気が纏わり付いている。
一度、こくりと。息を呑む。
「⋯⋯珍しいね、千冬から来るの。珍しいっていうか何年振りっていうレベル。どーしたの?」
できるだけ“普通”を装って、声をかける。しかし千冬は硬く口を閉ざし、じっとどこかを見つめたまま微動だにしない。
「⋯⋯千冬? だいじょ──」
「悪りぃ。十秒だけだから」
「──⋯⋯っ?!」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
大丈夫? と問おうとした言葉を遮って、「悪りぃ」と言って、一歩。千冬が重たい足取りで一歩踏み出して、次の瞬間には──かたく抱き締められていた。
バタン。名前を抱き締めたまま玄関に入った千冬の背で、戸が閉まる。とくり。とくり。密着した胸のあたりで動いているのは、千冬の心臓だ。どっくんどっくんバクバクバク。これは名前の心臓。
──千冬に抱き締められている。
喜ばしいはずのこの事実を、名前は素直に喜ぶことができなかった。嬉しい、ではなくて。苦しい、が胸を締める。その苦しさは紛れもなく、千冬から伝播したものだった。
だからこそ言葉を発することができなかった。いや、発してはいけない気がしたのかもしれない。何かを言ってしまうとこの場から千冬がすぐにいなくなってしまいそうで、そのことが無性に怖くて、何も言うことができなかった。
ただ自分の心臓の音だけが、うるさい。
そのまま千冬が言った通り、十秒ほど──名前にとっては永遠にも感じられたが──が経過した頃だろうか。千冬の手が一度だけ、ぎゅっと名前の後ろ身頃を握って、それから。
音もなくそっと、身体が離れる。
「⋯⋯悪かった。ちょっとだけオマエの顔見て、ここにいるの確かめたくなっただけだから」
「ま⋯⋯まって!」
引き留めていた。
玄関の重たい戸を出ていこうと取っ手に伸ばしかけた千冬の腕を、必死に掴んでいた。
「待って、千冬⋯⋯話さなくていい。話さなくていいから⋯⋯一人でいないで」
「⋯⋯別に、オレは」
千冬は決して名前のほうを見ようとしはしなかった。名前を見てしまうと何かが揺らいでしまうとでも言いたげな素振りに、名前は一層強く腕を引く。
「い い か ら! 入って! ここに座って! はいここ!」
「⋯⋯イッテ」
無理矢理引き摺り込んだ名前の部屋。幼い頃によく遊んだこの場所で、とん、と。合わさったのは大きくなった背中と背中。半ば押し倒すように座らせた千冬の背中に、そっと背中を合わせる。
千冬はほんの僅かにだけぴくりと反応した。が、何も口にはしなかった。その場から動く気も特にないようで、静かな呼吸の気配だけが、触れ合った背中から伝わってくる。
床に置いていた右手の指先をそっと動かしてみる。もし動かした先に千冬の手があって、それに少しでも触れることができたなら、そのまま握ってみようと思っての行動だった。しかし指先には何も触れず、ただ空を這っただけだった。
それから少ししてのことだ。千冬の吐息が微かに震え始めたのは。
名前は息を詰めた。だって、きっと、きっと。──泣いている。もし少しでも離れていたら、気付かなかったと思う。それくらい感情を押し殺して、千冬は泣いているのだ。けれど背中を合わせていたから。わかってしまった。
胸を突かれた。
眉を寄せ、唇を噛む。幼き頃から恋心を育んできた千冬の心が、こんなに叫んでいる。こんなに苦しんでいる。それなのに。名前には何もできない。たった一言呟かれた「バジさん⋯⋯」という言葉の意味を、あてもなく考えることくらいしか。
名前は膝を抱え、何もない天井を無力感とともに仰いだ。せめてその身を、理由も探さずに抱き締めてあげられる関係だったら良かったのに、と。
床に置かれた千冬の右手が、後ろ手に名前の手を握ろうと彷徨っていることにも気付かずに。
背中合わせの夜を綴じる
ゆう様より、幼馴染両片想い