幼馴染の進化形態
地平線の遠くに太陽の名残が落ちていく。昼間あれほどまでに明瞭だった空と雲との境界が、少し、ぼやけていく。夜も近いというのに蒸し暑い空気が纏わりつく。その不快感に研磨は眉を顰めた。早く冷房の効いた部屋に帰りたい。その一心で帰路を辿り、心持ち普段より強めに自室のドアノブを押した。
そしてはたりと足を止めた。
「おかえりー」
「⋯⋯⋯⋯」
「うわぁ、嫌そうな顔」
名前がいた。
研磨の部屋の、研磨のベッドの上で。名前が寛いでいた。ひらりひらりと手を振っている。
「部活お疲れさま。毎日遅いね」
「⋯⋯名前一昨日も来てたじゃん。暇なの」
「そう、暇なの。わたしも何か部活やればよかったかなぁ」
でも、研磨たちみたいに夢中になれないと思うんだよね、わたし。
そう口にして、名前はごろりと寝返りをうった。研磨の枕に顎を乗せうつ伏せになり、上目で研磨を見上げてくる。
「部活でも何にしても、“そういうの”に出会えるのって結構稀有なことだと思うんだ」
「⋯⋯そうかもね」
聞いているのかいないのか、あまり抑揚のない声で相槌をうつ研磨を見て、名前は怪訝そうに首を傾げた。
「? なぁに?」
「いや、着替え⋯⋯」
「いーよー、お構いなく」
「おれはお構うんだけど」
「なにが?」
「汗かいたし下着も替えるけどいいの」
「ふふ、ちゃんとあっち向いてます」
何でもないことのように背を向ける名前に、研磨の口から溜め息が漏れた。
「ていうかなに⋯⋯名前のそのカッコ。肌出すぎ」
「だって暑いんだもん」
夏だ。毎日暑いのは当たり前なのだが、今日は取り分け暑かった。それは研磨も認める。しかしだからと言って、年頃の異性の部屋にホットパンツにキャミソールで乗り込むなどどうかしている。しかもベッドの上で。すっかり女性らしく変化した身体のラインを、惜しげもなく晒して。
その無防備さに、そしてその裏にある研磨への信頼──名前は意識していないのもしれないが──に、研磨はもう一度、溜め息を吐いた。
「⋯⋯誰の前でもそうなの」
「そうって?」
「暑いからって、そんなカッコ。高校生なのに」
薄手のティーシャツと短パンに着替えた研磨が、人差し指で名前をさす。研磨に背を向けて横になっていた名前が、ここでは律儀に「もう振り向いてもいいの?」と確認してから、今一度うつ伏せの姿勢を取った。
「そりゃあ普通の友達の前ではさすがに⋯⋯幼馴染と、あとは親友くらいかなぁ」
「クロと、おれ?」
「うん、幼馴染はね」
「ふぅん」
一瞬見え隠れした嫉妬を、興味なさそうな呟きで掻き消した研磨が名前に近づく。音もなくすすっと近づいて、そのままぎしりとベッドに腰を掛けた。特段珍しいことではなかった。二人で研磨のベッドの上、スマホを弄ったりゲームをしたりして、たまに意味もない会話を成す。そんな時間は結構昔から存在していた。
名前がこんな時間を、同じく幼馴染の黒尾と持っているのかどうか、研磨は知らない。知らないし、知らなくていいと思っていた。
しかし、今日は顔を出してしまった。普段は抑え込んでいる気持ちが、嫉妬心により呼び起こされてしまった。
こんなに無防備な姿を晒け出す異性の相手が──いくら幼馴染とはいえ“男”という一個体が──自分以外にいると聞いただけで嫉妬が沸き起こったことに、研磨は自嘲の息を吐く。結局は自分も男なのだと思い知らされる。
そんなことを考えていると、たった今掻き消したはずの嫉妬心が、むくりと首を擡げてしまった。それをもう一度掻き消すのも何だか面倒で、研磨は名前に向かって徐に手を伸ばす。
「でもさ、名前。幼馴染っていっても、おれも男なのにね?」
「⋯⋯? けんま⋯⋯?」
名前が顔を向け、目を見張る。
華奢な肩に掛かっている紐に、指を掛けていた。男子にしては細めなはずのその指は、名前の身体に添えた途端、酷く無骨で乱暴なものに見えた。
「幼馴染だからって信頼し過ぎ。名前は男ってものを分かってない」
「だって⋯⋯研磨、わたしにそういう気になるの?」
「さぁ」
「さぁ⋯⋯って」
名前が口籠る。研磨の意図を掴めず途方に暮れた表情だ。顰められた眉を視線でなぞってから、研磨は片膝をマットレスに乗せ、名前に身体を寄せる。
ぎしりと、軋んで。
「名前はどうなの」
「どう⋯⋯? ──っきゃ」
名前の肩を軽く押し、仰向けに押し倒す。名前の両脇に手を付き囲うと、耳に掛けていた研磨の金髪がはらりと落ちた。ついでに顔を少しだけ近付ける。名前が来ると研磨の枕に残る、名前のシャンプーの匂い。鼻腔を満たすその直接的な甘さに、研磨は一瞬だけ、視線を斜め下に泳がせた。
それから視線を名前に戻す。呆気にとられた名前がまるまるとした双眸で見上げてくる中、いつも通りに、問う。
「⋯⋯どう、こうされて何か思う?」
「ど⋯⋯きどき、します、です」
「そう」
名前の頬は、紅く染まっていた。
軽く茹だったように赤味がさした頬を目線だけで撫でてから、覆い被さった時と同じく流れるような動作で研磨は身を起こした。
「ほらね。名前だって、おれにそう思ったりするわけでしょ。異性なら誰だっていい時が、人間にはあるんだよ。だからちゃんと気を付けて」
「──っ、違うもん!」
叫ぶような、縋るような。
そんな声だった。
背を向けて座り直そうとした研磨のシャツの背をぎゅっと引っ張って、名前は懸命に何かを否定した。
シャツを引かれたまま、研磨は顔だけで振り返る。ベッドの真ん中にぺたりと座り研磨の服を掴んでいる名前は、俯いたその口からもう一度、同じ否定の言葉を発した。
「違うもん、わたし⋯⋯わたしは昔から研磨だけだもん⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「なのに“誰だっていい”なんて、そんな誤解しないで⋯⋯」
泣きそうな声だ。声を震わせながら研磨のシャツを握りしめる名前は、言ってしまってから我に返ったようで、今にも泣き出しそうな顔で研磨を見上げる。
その表情に、研磨の鳩尾がぞくりと反応した。名前の泣き顔は、昔から可愛い。唆るのだ。出来もしないくせに懸命に涙を堪えようとやわらかそうな唇をきつく結んで、悩ましげに眉を下げたり寄せたりして、涙が落ちてしまわないように瞬きを我慢する。
出来もしないくせに。
だから、可愛いのだ。
研磨は満足げな猫のように目を細め、ただ、名前を見つめる。それに気付いたらしい名前は、思いがけず気持ちを伝えてしまった驚きや後悔を滲ませつつ、意図が読めない研磨の表情を複雑そうに見遣る。
「そ⋯⋯その顔はなんの顔なの⋯⋯」
「おれだけのためにその顔したの、はじめてだなと思って」
「え⋯⋯?」
研磨は知っていた。
名前が研磨に好意を寄せてくれていることを。研磨も、名前を特別に想っていることを。
知っていたからこその、先程の嫉妬だったのかもしれない。おれを好きなのに。好きなくせに。他の男の前でもそんなに無防備になるなんて。
そんな気持ちが確かにあった。
だから、言わせたかったのかもしれない。研磨のことが好きなのだと。名前が好きなのは研磨なのだと、名前の口から言わせたかったのかもしれない。そうして確かな事実を作るとともに、名前と自分の間に幼馴染以上の関係を結びたかったのかもしれない。
「“昔からおれだけ”なんでしょ。実ってよかったね」
「え⋯⋯実⋯⋯?!」
研磨の指先が、名前の髪先を掬う。研磨のその行動に、その眼差しの色香に、名前の顔面は瞬く間にぼんっと音を立てて発火した。
「えっと⋯⋯その、つまり⋯⋯?」
「うん」
「研磨もわたしを⋯⋯その⋯⋯すきってこと?」
「うん」
漸く事態を理解した名前は、真っ赤に染まった顔で瞳に涙を溜めながら、「んんもう何これ! 研磨のばか!」と叫んでいた。
幼馴染の進化形態
ももか様より、S気があってちょっと意地悪な研磨くん