かたちないもの
最近よく、考える。
わたしの女の子としての期限は、彼にとってわたしが女の子であれる期限は、一体いつなのだろうと。
◇
ウィン、と機械的な音を立てて玄関の電子錠が回った。
三人がけのソファに全身を預けぐでっと横になっていた名前は、肘掛けに乗せていた頭を少しはみ出させるようにして、視界が逆さまの状態で御幸を迎え入れた。
「おかえり〜〜」
「うお、何してんの、驚かすなよ」
「おかえりを言おうと思って」
「うん、ただいま。で、何してんの」
「⋯⋯悪しき心の浄化中?」
「は?」
ぽかりと開いた御幸の口。それにくすりと笑ってから、腹筋に力を入れ身体を起こす。今度は背凭れに両肘を乗せ、御幸を見上げる。
「お仕事お疲れさま。どうだった? 収録」
「どうもこうも、一秒でも早く帰りたくて仕方なかった。マジで何で野球やってるだけじゃ駄目なんだよ⋯⋯」
目深に被っていたキャップを脱ぎながらぶつくさと零す御幸の、いつもと変わらぬ言い草に笑ってから、名前は背凭れに顎を乗せ両腕の間に顔をうずめる。じっと御幸を見上げていると、それに気付いた御幸が不思議そうに視線を寄越した。
「? 何?」
「⋯⋯⋯⋯可愛かった?」
「何が?」
「アイドル」
「⋯⋯アイドル?」
何のことだよ、と言いたげなその表情に、名前はすぐに後悔した。聞かなければよかった。
オフシーズンの今時期、御幸にはメディア関連の仕事が降り掛かる。プロ入りして数年、年々名を挙げ認知度が高まったことももちろんだが、やはり、うってつけの理由はその顔貌であると思う。多少トークに面白みが欠けていても、それを補って余りある風貌。御幸の容姿からプロ野球に興味を持ち始める人もいるに決まっていて、球団もそれを理解しているのだ。
野球をしていない御幸をテレビ画面で観るたび、名前は嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気持ちを抱いてしまう。SNS不精ということもあり身近な人しか知り得なかったはずの御幸が、全国に放送され知れ渡る。それに嫉妬しているのだ。とんだ独占欲に我ながら呆れてしまう。素直な気持ちで喜べない自分を、心底嫌だと思う。
その上、本日の“これ”である。
御幸自身も嫌うテレビ番組の収録。息が詰まるような時間を耐え抜いてきた御幸を、部屋中を安心感で満たして迎えてあげたかったのに。あんな訝しむようなトーンで、共演した野球好きで有名なアイドルのことを「可愛かった?」なんて問うて。アイドルなんて可愛い子がなる職業なのだから、可愛いことなど決まりきっているのに。
──聞かなければよかった。
しかし覆水盆に返らず。御幸の耳にはしっかりと届いていて、数秒を待たずして名前の意図を理解されてしまった。
「あー⋯⋯なに、それが“悪しき心”ってやつ?」
少し迷って、こくりと頷いていた。
──怖いのだ。
野球の神様に愛された御幸と、大した取り柄もない一般人である名前。公にできない関係。否、例え大っぴらに交際ができていたとしても、御幸の肩書きと容姿に惹かれ寄ってくる女性は数多いることだろう。
今のところ御幸は名前と一緒にいてくれているし、信頼してくれているのか合鍵も預けてくれているし、表立って新しい女性の影も見えない。が、なんせ御幸に寄ってくる女性といえば、アナウンサーだのモデルだの女優だの、軒並み“芸能人”であるのだ。御幸が身を置いている環境上当然のことではあるのだが、如何せん相手が強過ぎる。御幸の好みに嵌まる子が現れたり、御幸にほんの僅かでも魔が差してしまえば、名前に対抗する術はない。
御幸が、どこかへ行ってしまう。
そんな未来がいつだってすぐそこでほくそ笑んでいそうで、怖いのだ。
「テレビで観る人って、実物だともっと可愛いって言うし⋯⋯それに一也のファンだって公言してる子だったから⋯⋯ごめんなさい、嫌な気持ちになったよね」
「いや、全然」
ぐりぐり、と頭頂部を撫でられる。
名前がこうして気持ちを顕にしてしまった時にしてくれる、御幸特有の撫で方だ。
わかっている。面倒だと一蹴されたり、鬱陶しく思われたり、そういう面倒くさいことを言ってしまっていることは自覚している。だから普段は懸命に抑え込んでいる。
それでも時折こうして、溢れてしまう。
そして言ってしまってからすぐに後悔するのだ。こんなことを言うたび、御幸の心が離れていってしまいそうで。「ごめんなさい」と言い繕う。しかし御幸は億劫がったりあしらったりせず、こうして頭を撫で、いつも言ってくれるのだ。
「心配すること何もねぇよ。つーかさっさと帰りてぇってことしか考えてなかったから、正直あんまり印象に残ってねぇし」
そう言葉を掛けてもらうと、安心できた。一時の安心だ。不安はまたすぐに首を擡げる。それでも、一時でも心の平定を保てるのだから、御幸がそう言ってくれているのだから、十分過ぎるのだ。
でも、でも。
今日はどうしても止まらなかった。嫉妬の裏に隠していた不安の根幹が、積もり積もった不安を糧に育ち続けていた根幹が、ついに顔を出してしまった。
「⋯⋯嘘だもん」
「ん、何?」
「あんな可愛い子が印象に残んないなんて、嘘だもん」
「⋯⋯どうした? 卑屈になって」
ちなみに嘘じゃねぇけどな、と笑ってみせながら、御幸の声には名前を気遣う気配が滲んでいた。
その優しさに余計、止まらなくなる。
「だって⋯⋯だってわたしね、一也。野球選手でもなければ芸能人でもない、普通の人間なんだよ。それも一也より三つも歳上の」
「うん、知ってるけど」
「ふふ、そう、知ってるの。知ってるけど、きっとわかってはいないんじゃないかな」
“知っている”と“理解している”は別物だ。そう名前は思う。
「わかってねぇって、何が」
「例えばね、一也が二十七になったらわたしは三十。三十なら三十三。やばいでしょ」
「? だから何が?」
有限だ。若さには期限がある。
どれだけ努力をしようとも、どれだけ維持に努めようとも、繕いきれない年齢はいつか所々に現れるようになる。
「今はまだ、いいんだろうけど⋯⋯」
生きていれば着々と、年月が積み重なっていく。悪いことではない。皆が通る道だし、自信を持って歳を重ねていけるような人生を送りたいとも思う。
それなのに。
「誕生日がくるのがね、怖くなっちゃった」
御幸と付き合うようになってから、年々誕生日が怖くなる。御幸との年齢差は変わらないのに。誕生日を迎えるたび名前だけが先に進んでしまっている気がして。名前だけに、“何かの期限”が迫っている気がして。
年に一度の祝福の日であるはずが、素直に喜べないのだ。
結婚や出産のことを考えればいやでも焦ってしまうし、かといって御幸に──プロ野球選手という特殊な職業であり、且つまだ急ぐ年齢でもない御幸に──催促したり迫るようなことはしたくない。それなのに御幸の周りにはいつだって若さと美しさとを備えた人物が蔓延っていて、自信のなさに惹起される劣等感と、漠然と定まらない将来への不安とに日々苛まれてしまうのだ。
話すうち、いつの間にか俯いていた。
名前のいつにない不調に、御幸が数呼吸ぶん、思案しているのを感じる。それから徐に動く気配がして、直後。ぎしりとソファが軋む。背凭れに身を預けたままの名前にぴたりと身体を寄せ、御幸は普段通りの口調で話し出す。
「なぁ、名前はさ、この一年どうだった?」
「この一年⋯⋯? いい一年だったよ。一也と変わらず一緒にいられたし、仕事でもプライベートでも人間関係はほんとに恵まれてるし、健康体だったし、美味しいものもいっぱい食べたし、一也の試合観て笑ったし泣いたし、楽しかった」
「なら胸張ってひとつ歳取りゃいーんだよ。怖がるなんて勿体ねぇ。人生経験と名前の魅力が増したってことだろ」
「──⋯⋯」
御幸がそう思ってくれていることは、嬉しい。凄く。胸を張って一緒に人生を歩んでいけるのであれば、こんなに嬉しいことはない。しかし。
「⋯⋯ありがとう。でもちょっと違──」
「わかってる。まぁ最後まで聞けって」
ぽんぽん、と頭の上で御幸の手のひらが上下する。
伝わって、いるのだろうか。名前の不安は、正しく御幸に伝わっているのだろうか。頭を撫でてくれる体温の安心感に身を委ね、御幸の言葉の続きを待つ。
「つーかさぁ、それは逆の場合だって同じだろ。何で名前の方が下手みたいに思っちまうんだよ?」
「だって明らかにわたしの方が何も持ってないし⋯⋯っていうか逆って⋯⋯年齢差はどう転んでも逆にはならないけど⋯⋯」
「いや、差のことじゃなくて。てかそれってそんなに気にすることか?」
「一也は気にならないの?」
「まったく」
心底気にしていなさそうな言い振りに、思わず笑ってしまった。笑ってしまえるほど気持ちのいい言い振りだった。御幸が裏表のない性格であるからこそ、本当に“そう”であるのだと感じられて、頬が緩む。
「それで、さっきの続きだけど。俺がもっと年食ってさ、例えば三十五になって色んなピークを越えたとするだろ。そん時お前の前に二十代で顔も背格好も超どタイプのやつが現れて、しかもそいつがお前に熱烈アタックしてきたら、お前も俺よりずっと若いそいつのこと選びたくなるか? ってこと」
「ならないよ」
「へぇ。何で?」
「だってわたしは一也だからこんなに好きなんだもん。いくら見た目がドストライクで若いからって──」
そうだ。名前は、御幸が御幸であるから好きなのだ。もし仮に御幸の言うような人物が現れたとしても、一時の感情で靡く未来は想像もできない。万が一可能性があるとすればそれは名前が本気になった時のみであるが、御幸を差し置いて好きになるような人類は果たして存在するのだろうか。というレベルで、御幸のことを好いている。例えその人物が、御幸との関係が最悪の時に現れて慰めるように手を差し伸べてくれたとしても、その手を取らない自信がある。
「な、同じだろ。俺だって、名前っつー存在が好きなんだよ。俺にとっては、名前とそれ以外の女。ただそれだけの括りだ。だから歳上だとか歳下だとか、何歳離れてるだとか、そんなのは関係ねぇの」
腹部に手が回って、身体ごと抱き寄せられる。御幸の大腿の上に横向きに座るかたちで抱えられ、真っ直ぐに見上げられる。
「大事なのは、名前が名前であることだけだぜ」
「⋯⋯っ」
「だから、もし仮に名前より歳下でモデルだかアナウンサーだかやってるヤツがよくわかんねぇアプローチしてきたところで、俺が靡くんじゃねぇかとか、そんな心配は一切しなくていい。不毛すぎて有り得ねぇから」
御幸の親指が名前の頬を滑る。泣いてはいないのに涙を拭うような仕草を取るものだから、一瞬どきりとしてしまった。
「⋯⋯っていうのを、俺が実感させてやれてねぇってことなんだよな、問題は」
「えっ、ううん、わたしの問題だよ。環境因子は仕方ないもん。わたしがさっぱり割り切ったり、漲る自信を身に着けたりしないとこの先も同じ⋯⋯って聞いてる?」
何かをじっと考え始めた御幸に問うてみる。が、返事は返ってこない。思わず「あは、聞いてないや」と零していた。
御幸の意識が戻ってくるまで暫くかかりそうだったので、御幸の前髪の先を弄りながら時間を潰す。そうするうち御幸が不意に「──わかった」と呟いた。漸く発されたのはたったの四文字。しかしそこに込められた尋常ではない剣幕に、思わず身を引きつつ「な、何が⋯⋯?」と訊ねる。
やはり、返事は来ない。
名前には何のことだか全くわからないが、御幸には何かがわかったらしい。そして説明する気はないらしい。それを悟った名前は「そっかぁ、わかってよかったねぇ」などと適当な相槌をうち、御幸の屈強な体躯に擦り寄るようにして体重を預けた。
御幸のくれた言葉が、どれもこれも嬉しかった。
◆
そうして数ヶ月後、「御幸一也 電撃結婚」の文字が世間を賑わせることになる。
発表の直後から、御幸はこれみよがしにあちこちで愛妻家であることをアピールするようになり、それと同時に他の女性への素っ気なさにも箔が付いていった。球団からは女性ファンの減少が危惧されていたが、結果として「イケメンでチャラそうなのに硬派なところがまたいい!」と女性ファンの心を掴むことになるのだから、顔面の力とは恐れ入るものである。
◆かたちないもの◇
ひなた様より、歳の差を気にするヒロインちゃんと、歳の差なんて微塵も気にならない御幸一也