押して駄目でも押してみろ
「名前さんご馳走さまー! またねー!」
「はーいおやすみー、悠仁」
大きく振られた手に手を振り返し、名前は隣に立つ五条を見上げた。夕飯を外食で済ませ、高専まで戻ってきた時のことだ。
「悠仁は素直で可愛いねぇ」
「すごい食うけどね。宿儺の分も食ってんじゃない?」
「いーじゃんいーじゃん、わたしたち使い道のないお金ばっかりあるんだしさ。育ち盛りなんだからたんと食べてもらわないと」
ぽふぽふと下腹部を叩きながらにこやかに笑う名前の顔を見て、五条はふと思い付く。
「そういや名前って昔から誰かに何か食べさせんの好きだよね」
「ふふ、バレてた」
「なんで?」
たいした意図もなく会話の流れで問うた五条に、名前も世間話を続ける口調で「んー、そうだなぁ」と答え始める。
「わたしねぇ、呪術師じゃなかったらパティシエになりたかったの」
「パティシエ」
「そう。まぁパティシエじゃなくても食を提供できればよかったんだけど、お菓子は可愛いしわたしも好きだから」
「ああ、名前も甘党だしね。それで?」
その職に就きたかった理由を促された名前は、もう一度ぽふぽふと下腹部を押さえた。
「食べることは、生きること。生きることは、食べること。なんて言うじゃない。ほんとにそうだなぁって思うんだ。肉体は自らが食べたものでできてるし、美味しい食べ物は心を整えて健やかに豊かにしてくれる。だから美味しそうに食べてる姿って、なんか幸福の象徴みたいに見えるの。好きなんだよねぇ、それ見てるの。幸せだなーって思えて」
「⋯⋯じゃあ呪術師は、なんで?」
「んー⋯⋯わたしはね、たまたま呪霊をどうこうできる側だったでしょ。これは努力とかではどうにもならない素質だから、それなら使わないと与えた神様もびっくりしちゃうかなぁって」
「神様とか信じるタイプなんだ」
「うん。意外?」
「いや、あんまり」
けろっと答えた五条に笑ってから、名前は不意に瞼を伏せる。
「とは言っても、呪術師は『神様がびっくりしちゃうから』なんて理由だけじゃ割に合わないじゃない、直接的に命が懸かってるし。だからね、呪術師の仕事も巡り巡って誰かが今日も美味しくご飯を食べられることに繋がってるのかもなぁ、って思うことにして、何とか頑張ってるの」
ズクリ、と五条の胸が音を立てる。それは何かに心臓のあたりを射抜かれた、或いは刺し貫かれた感覚に近い。かつて聞いたことのない音ではあったが、五条はその発生理由をきちんと理解することができた。
名前を、──愛おしいと。思ったからにほかならない。
名前の言葉を聞いた刹那、これまでに名前が見せた、誰かが食事をしているところを見守る笑顔がいくつも脳裏を埋め尽くした。やわらかな笑顔の裏に存在していた想いを知って、胸が疼いた。そういえば自分はいつも、名前の笑顔を見ていた気がする。
だからこそこんなにも様々な場面を覚えている。
今この瞬間だ。ただの同僚だと思っていた名前が、その笑顔が、“無性に守りたい存在”へと変貌したのだ。恋に落ちた──いや、落ちていたのかもしれないが──まさにその瞬間を、五条は自分で目の当たりにした。
夜空を仰ぎ、思わず笑ってしまう。
「⋯⋯アハハ、やばいな」
「? 何が?」
きょとんと見上げてくる名前を見下ろして、五条は告げる。まるで少年が宝石でも見つけたような無垢さを滲ませたようでいて、しかし酷く大人びた穏やかな口調でもあった。
「僕って、名前のこと好きだったんだ」
「⋯⋯は?」
「いやー、もともと顔は好みなんだよね、長いこと一緒にいるから特別意識はしてなかったけど。でも今、明確に自覚した。──僕、名前が好きだ」
たっぷりと、たっぷりと沈黙を取って、名前はやっと口を開く。その表情は困惑しきっていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯そ、⋯⋯⋯⋯そんなことを急に申されましても⋯⋯」
「だって気付いちゃったんだもん。それならすぐ言わなきゃじゃん。僕が言わない間に誰かに名前を奪われちゃうかもっていう、そんな可能性が存在してることが有り得ないし許せないからね」
「な⋯⋯」
何をどう突っ込もうか刹那考え、すぐにやめた。所謂告白をしてもらった立場にある名前が物申すことではないし、というかまず名前は、五条の想いを受け止め且つ五条に対する自分の気持ちを把握しなければならないのだ。
つい先刻まで五条がそうであったように、名前もまた、五条のことを恋愛対象として捉えたことがなかったからだ。
取り敢えずこの場ではどんな言葉を選ぶべきかと迷い口を噤んでいる名前に向かって、五条はあっけらかんと告げる。
「てことで、返事は急がないから。これからよろしくね」
「え、な⋯⋯何を⋯⋯よろしくされるの⋯⋯?」
上機嫌に鼻歌を歌いながら一歩先を歩く五条の背中を見た名前から、「こわい⋯⋯」とひとつ、呟きが落ちた。
*
五条は、あの日から変わった。
「ねぇねぇ名前ー」
「おっはよーん名前ー! 今日も可愛いね」
「あっ、待って名前言い忘れちゃった、好きだよ」
「名前の今日の任務、さっき僕が片しといたからデート行こー」
「ねー、今日は晩飯食べに行かない?」
暇さえあれば名前に付き纏い、あれやこれやと何かしらの五条の痕跡を残していく。名前は返事もしていないまま、ただ向けられる好意の波に揉まれていた。どれほどの波かと言うと、鈍感そうな虎杖にまで「名前さん、五条先生から何か恨みでも買っちゃったの? ヘーキ? ウザいほど付き纏いまくる新手の嫌がらせなんかなーって思って」と心配されるほどだ。
そんな日々が続く、とある夕暮れのことだった。暮れなずむ空を背負い、足元に長い影を伸ばした五条が、ぴらりと薄い紙を掲げる。
「そういやこの間さ、映画のチケットもらったんだ、今度の休み一緒に行こーよ」
「悟が買ったんじゃなくて?」
「うん、ホントにたまたま貰った」
「へぇ、そういう事ってほんとにあるんだ⋯⋯ちなみになんの映画?」
「今話題になってるホラーのやつ。結構楽しそうだよ」
「あ⋯⋯ごめん、わたし怖いのはちょっと⋯⋯」
遠慮や断るための建前ではなく、本音だった。本当に苦手なのだ、その類のものは。故に自ずとおずおずと上目で見上げ断ると、五条は驚愕と言ってもいい表情で「えっ?!?!」と声を上げた。
「呪術師にホラー駄目な奴とかいんの?! だってこんだけ長いこと呪霊と血生臭く闘ってきてんのに?! 世間のイメージ的には呪霊イコールお化けでしょ」
「だ、だって⋯⋯わたし呪術師だから呪霊ノットイコールお化けだもん⋯⋯」
「えー、何それ。思わぬギャップ萌え」
「ギャ⋯⋯えぇ?」
五条の言葉に眉を寄せる名前の頭を、五条はぽふんぽふんっと叩く。
「でもそれなら仕方ないね。今度別の映画観に行こう」
優しい手付きとは不釣り合いに、しゅんと項垂れる五条。その様が捨て犬のように見えてしまって、良心が痛む。気付けば名前は思わず申し出ていた。
「あの⋯⋯悟」
「ん?」
「その、あんまりちゃんと観れなくてもいいなら⋯⋯一緒に行く?」
まるで期待を持たせるような申し出ではないか。もしこの先、五条の想いを断るつもりがあるのなら、決してこのような振る舞いは許されない。しかし口を衝いてしまっていた。もう遅い。そう思った時にはやはり、五条は嬉々として顔を上げていた。
「ほんと」
「⋯⋯うん。悟、すごく観たそうだから」
観たいのが「映画を」なのか「名前と」なのか、ぱあっと明るくなった五条の表情を見れば一目瞭然としてしまった。途端に名前の胸がつきりと痛む。ここ最近の五条は変だ。調子が狂う。何故、どうして、こんなに一生懸命に名前を求めてくれるのだろう。どうしてこんなにも、名前の知らなかった顔を曝け出すのだろう。
何年も共にいたはずなのに、何故、今になって。
*
「ひぃぃぃっ!」
「うわぁああぁ!」
「ひ⋯⋯っやばいやばいやばい⋯⋯!」
「おっ、おわっ⋯⋯このシーン終わったら教えてぇええ!」
スクリーンの明かりをがっちりと閉じた瞼に浴びながら、名前は悲鳴を上げていた。ほかの客には聞こえないよう極々弱めた、しかし五条にははっきりと聞こえる声を終始上げながら五条の服やら腕やらを掴んで離さない。そんな名前に、五条の口元は緩みっぱなしであった。正直映画の内容は頭に入ってこない。そんなことよりも、名前の縋る先に自分がいるという一種の優越感を存分に味わっていた。役得である。
しかし暫くすると、怯えっぱなしの名前が流石に不憫に思え、五条は口を開いた。
「ごめんごめん、こんなにも苦手だと思わなかったんだ、勘定が甘かった。出ようか」
「え、でも、悟観たいんじゃ⋯⋯」
「いーのいーの、チケットは貰いもんだし、観る機会はまたいくらでもあるからさ。それよりこのまま観てたら名前の任務に障りそうだし」
「任務は大丈夫なんだよ、相手が呪霊だから。でも夜に一人でトイレ行ったりはできなくなっちゃうの。ありがとう」
そうと決まれば素晴らしい速度で退散をキメた名前は、防音の重たい扉を颯爽と出て、ロビーの空いている席に腰を下ろし、まったく手を付けていなかったチュロスを頬張り始めた。向いの席に座って、五条もストローに口を付ける。
「⋯⋯? 何笑ってるの?」
「いや、歴戦の呪術師が夜トイレに行けなくなるなんてね、と思ってさ。伝説になれるよ」
「もー、いいじゃんその話は」
「可愛いって言ってんの」
「⋯⋯もう」
まったく慣れないままだ。
あの日を境に“こう”なった五条の言葉に名前は毎度、照れくさいような恥ずかしいような嬉しいような、そしてどこか気不味いような後ろめたいような気持ちを抱く。どうしてなのか。分からないままだ。
視線を伏せ、もう一口齧りついた名前を見下ろし、五条は徐ろに口を開く。
「僕ってさぁ」
「うん?」
「背あるしルックスも抜群だし金も力もあるし、名前のことすっごい大事にするんだよね」
「ふふ、なんか未来の話入ってる」
「その未来を実現したいんだけど、何が足りないんだろーね」
「──⋯⋯」
何を、言えばいいのか。
今の五条の言葉が独白なのか、返答を求めているのか、それすらも分からないというのに、名前は一体何を言うことを許されるのだろう。
話題から逃げるように雑踏へと視線を向けた名前の横顔に、五条が声を掛ける。
「あ、砂糖ついてるよ」
「あ⋯⋯ありがとう⋯⋯どこ?」
「ここ」
「──っ」
五条の手が伸びてきたその瞬間だ。ちいさな電流のような何かが、走った気がした。
触れたのは思いのほかふにりと柔らかい五条の指先。それが名前の柔らかな唇とやわく反発し合い、唇をなぞるように拭った。それなのに走った感覚は柔らかさの欠片もない、電流のようだった。
「⋯⋯名前? どうかした? 顔赤いよ」
「⋯⋯⋯⋯、え」
五条に言われ、慌てて両手で頬を覆ってみた。熱い。確かに熱を持っている。名前は何度も「⋯⋯あれ?」と言いながら顔中をぺたぺたと触り確認する。その挙動をきょとりと見ていた五条は、戯けるようにこう言った。
「⋯⋯あっれー、もしかして僕のこと少し意識てくれてんの?」
「⋯⋯っ?」
「へーぇ」
にまにまと寄越される視線から隠れるように、名前は顔全体を覆う。
当然の結末だったのかもしれない。
決してスマートとは言えなかったかもしれないが、こんなにも四六時中好意を振り撒いてもらって、加えて一緒にいると安心できて、心地が良くて、それでいてわくわくしていて、たまに変なところが切なくなって。
きっと、とっくに、落とされていたのだ。
【押して駄目でも押してみろ】
ふと恋を自覚し、不器用ながらも口説き落としていく五条のおはなし