嘘か真か選んでね


 開け放った窓。校庭から吹いた風にカーテンがおおきく膨れて名前の頭をすっぽりと覆った。後ろに座る友人がくすくすと笑うのを聞きながら、名前はカーテンを直しつつ外を見る。新緑の匂い。初夏の風。風に舞う陽光。心地がいい。カーテンのはためきや日光など気になることはあれど、名前は窓際のこの席が好きだった。

 朝のHRをぼんやりと景色を見てやりすごし、さて一限の準備でもしようかと鞄を開いたところで、名前は「あ」と声に出していた。英語の教材をまるっと忘れてきてしまっていたのだ。思い返してみれば、昨夜予習したあとに仕舞った記憶がない。机の隅にでも置いたままにしてしまったのだろう。

 少し考える。ノートは他教科のものを使い回せる。予習したおかげで大方の内容も頭に入ってはいる。が、やはり教科書はないと授業が厳しいかもしれない。しかし。名前は困った表情で隣の席を見遣る。

 ──暇そうだ。
 暇そうに机から足を投げ出し背凭れにどっさりと背を預け、黒板と天井の間くらいをぼうっと見つめている。まだ一度も話したことのない彼のその佇まいは、声をかけるのにそれなりの勇気を必要とした。


「ま⋯⋯松田くん」
「⋯⋯」
「あの⋯⋯松田くん?」 
「んあ?」
「ごめんね、その⋯⋯次の英語の教科書忘れちゃって⋯⋯一緒に見せてもらってもいい?」
「⋯⋯いーけど」


 返答までの微妙な間とそのぶっきらぼうな言い方に、名前の心はしょんぼりと下を向く。後悔した。何故昨日、予習後すぐに鞄に入れなかったのだろう。おずおずと机を寄せながら昨夜の行いを悔いていると、「⋯⋯オイ」とまた無愛想な声がかかる。名前は慌てて顔を上げた。

 
「はっ、はい?!」
「別に怒ってねえから、んな肩身狭そうにすんなよ」
「え⋯⋯えっ、そうなの?!」


 驚きの声を出す名前を見て、どういう心境なのか──自分から「怒ってない」と言い出すあたり、自覚もあればこういったことも一度や二度ではないのだろうが──、松田は眉を顰めた。

 
「んな驚いてくれるなよな。朝は眠ぃんだよ⋯⋯いや、まあ眠くなくてもこんなもんかもしんねえけど。そんなに怖えもんか?」
「え、うん⋯⋯絶対怒ってるって思った⋯⋯」


 直球で問われ、思わず首肯していた。頷いてしまってから、不味いことを口走ってしまっただろうかと上目で松田を見る。しかし向けられたのは悪戯っぽい笑顔と、案外小気味良い笑い声だった。

 
「すっげー素直に言うじゃねえか。アンタも大概いい度胸だぜ?」
「いや、その⋯⋯ごめんね、悪気はなくって⋯⋯あれ、それって余計悪いのかな、ほんとごめんね」
「? そんな謝られても。俺は褒めてたつもりだったけど」
「えっ、分かりにく!」


 この時けらけらと笑った松田の顔に、名前の心は酷く安堵したものだ。そしてこの笑顔はこの先、名前が「松田」と聞くと思い出す笑顔となる。


  
 この日を機に名前と松田は少しずつ会話をするようになった。それは校舎のどこにでもある、ありふれたひと時だった。
 

「おはよー松田くん」
「おう」

「今の授業眠かったねぇ」
「俺は寝てた」
「知ってるよ、隣ですから。鼾かいてたよ」
「は、マジ」
「ううん、嘘」
「⋯⋯オイ」
「ふふ」 

「また明日ねー」
「おう」

 
 そしてそれは時を待たずして、名前にとっての“特別”へと昇華を遂げる。ある夜、気付くのだ。明日が楽しみになっていることに。松田に会いたいと、知らずのうちに思っていることに。

 こんなに夜明けが待ち遠しいのは、生まれて初めてのことだった。


*
  

 とある休み時間のことだ。
 ギィ、と椅子を引き立ち上がった松田が、「今日あちぃな。そこ風入るか?」と名前の脇の窓に寄ってきた。開いている窓からは程よい風が流れ込んでいて、端に寄せただけのカーテンの裾がふわふわと揺れている。
 
 松田は窓の手摺に肘を乗せ背を凭れかけるようにして、名前を見下ろす形で体勢を落ち着けたようだった。背に風を受けてそよそよふわふわ、松田の癖のある髪も揺れている。

 やわらかそうに動く毛先を数秒見つめてから、名前は頬杖をついた。

  
「そうだ、松田くん今日の英語の宿題やってきた?」
「⋯⋯?」
「あはは、何のことだ? って顔してるけど⋯⋯あったよ?」
「マジかよ」
「マジです。ちゃんと聞いてるふうに見えてたけど、何か考え事でもしてたの?」
「⋯⋯覚えてねえ」


 天井を見上げ「俺ァ日本男児だっつーのによお」などと呟いている松田を励ますように、名前は付け加える。

 
「でも、そんなに多くないからきっと間に合うよ」
「そーか、んじゃ昼休みでいいか」
「突然の余裕⋯⋯! 今やれる時にやっておけばいいのに」
「だってあちぃもん」
「あはは、昼休みだって暑いじゃない」
「んー⋯⋯お、そういや前に英語の教科書見せてやったよな? 今度は俺に宿題見せるとかどうよ」
「えー?」
 

 ただただ面倒で先延ばしにしたいだけの口上を笑いながら聞いていた時だった。名前のみっつ前の席で、二人の女子生徒がちらちらとこちらの様子を窺っているのが目に入る。小声ながら会話の内容も耳に届いてきた。 
 

「えー、どうする?」
「聞いてみようよ」
「でも松田くんもいるよ?」
「うーん⋯⋯でも最近名前と話してる時の松田くんはなんていうか、あんまり怖くなさそうだからきっと大丈夫!」


 これを聞いた名前は思わず笑ってしまった。今となっては松田に対して“怖い”という感情は露ほども抱かなくなっているが、名前も最初はそうだったから、彼女たちの気持ちは非常に良く分かる。
 
 同じく会話が聞こえていたらしく仏頂面を作る松田に向かって「やっぱり慣れないと怖いってさ」と笑うと、松田の手刀がぽこりと落ちてきた。


「何するの」
「何かムカついたから」
 
  
 と話していると、意を決したらしい二人がこちらへとやってきて、それでも少し言いづらそうにしながら話しかけてきた。
 

「ね、あの、名前⋯⋯違ったらごめんね」
「なあに?」
「名前と松田くんって⋯⋯付き合ってるの?」
「え?」「は?」


 ぴたりと揃って飛び出た声はふたつ。
 思いもしなかった問いかけに名前と松田、双方素っ頓狂な声を上げていた。
 
 
「あっ、違った? 最近噂になってて気になっちゃって⋯⋯」
「え、そ、そんな噂あるの?」
「うん、結構いろんな人が⋯⋯ううんっ、やっぱり何でもなかった、ごめんねっ」
「あっ、待って、」


 終始松田の顔色を窺いながら話していた彼女たちだったが、ついに松田の眼差しに耐えきれなくなったのか、逃げるように離れて行ってしまった。至極残念に思う。確かに松田の雰囲気はお世辞にも友好的とは言い難いが、それを理由に離れてしまうのは余りにも勿体ない。いやそれよりも、噂の詳細をもう少し聞いておきたかった。


「行っちゃった⋯⋯どーしよう、誤解されちゃってるみたい、わたしたち」


 困惑したふうに口にしてみせたものの、名前の表情は別段困ってなどいない。内心では物凄く喜んでいるのだ。噂になるということはそれだけ松田と一緒に過ごせているからだろうし、その時間が傍からは仲睦まじく見えているということだろうから。

 しかし、──松田はどう思っただろうか。

 喜んでいるのは名前だけで、松田にとっては不本意なことかもしれない。面倒なことになったからと言って距離を置かれてしまうかもしれない。

 そんなの、嫌だな。

 視線を伏せながら松田の反応を待つ時間が、やけに長く感じられた。
 
 
「どーしようってお前⋯⋯んなのしたいヤツにはさせときゃいーだろ。他人の視線なんていちいち気にしてたら生きにくいぜ」
「え⋯⋯」
「何だよ?」
「ううん。⋯⋯強いんだよねぇ、松田くんは」


 予想もしなかった答えに感心するとともに、敬慕の念を抱く。
 
 他者からどう見られているかを気にせずに生きるというのは、口で言うより簡単なことではない。多少のことでは揺らがない“自分”という確固たるものを持っていなければならない。孤立を恐れず、自信を失わず。高校生の──いや、“名前には”まだ、難しい。

 そんなことを思っていた、その時だ。

  
「⋯⋯オメーは?」
「ん?」 
 
 
 ぶわ、とカーテンがおおきく靡く。

 強い風を受け大きく翻ったカーテンは、名前と松田をすっぽりと覆った。教室内のすべての生徒との間に、一枚の薄い白布が隔たりを作る。影だけを透かして覆い隠した
その向こう。松田に半ば強引に顔を持ち上げられ上を向かされていた。

 顔に、松田の手が触れていて。
 細い吐息さえ掠める距離に屈んだ瞳が、名前の双眸を雁字搦めにしている。


「苗字は⋯⋯誤解されると問題あんのかよ?」


 今にも触れてしまいそうな場所で動く唇に、初めて見る真剣な瞳に、名前は真っ赤になって言葉を失う。こんな、こんなの。恥ずかしい。どうにかなってしまいそうだ。逃げ出したくて、せめて視線だけでも逸らそうとするが、絡め取られた瞳ではそれも叶わない。
 

「⋯⋯どーなんだよ」


 追い打ちをかけるように囁かれ、名前は震えそうになりながら音を紡いだ。

 
「も、もんだい⋯⋯ない、です⋯⋯」
「そりゃよかった」


 ──やっぱり、このままでいい。
 怖いと嫌厭したままで。松田のこんな顔を知っているのは自分だけがいい。誰も気付かないで。名前だけに許された特権であってほしい。

 カーテンの中で見せた松田の表情を見て、薄情にもそんなことを思った。




 
[嘘か真か選んでね]


あさっち様より、高校生松田と同級生のおはなし