星の欠片を掬っている


【いってきまーす! 今日は夕方まで学校です。冷蔵庫に朝ごはん入ってるよ】

 
 ホワイトボードに並んだ整った文字と、添えられたちょっと下手な──いや、癖のある──イラストを見て、御幸は少し寝癖のついた髪を掻き上げた。
 

「まぁ、一緒に住んだからって俺に都合よく会えるわけじゃねぇんだよな⋯⋯」


 同棲を開始して早一ヶ月が経っていた。
 野球選手の生活スケジュールは特殊だ。学生の名前とではどうしたって生活リズムが異なる。日々の多くは日本のあちこちを移動しているし、ホームや近郊での試合など自宅に戻れる日があっても帰宅は日付を跨ぐ。片や名前は朝から講義のことが多く──先日希望の企業から晴れて内定を貰い就活は落ち着いた──、御幸が起きた時には既に家を出ている。

 今日は同棲開始後はじめての、御幸の丸一日の休日だ。そんな時くらい一緒に過ごしたいと思ってしまうが、本日は月曜日であるがゆえ、名前はもちろん学校がある。


「⋯⋯これがアイツの本文だしな」
 

 まだ眠気を引きずった目で歯を磨きながら、御幸はもう一度、ホワイトボードに残された痕跡を目でなぞった。





 今日は一日中講義と卒論だった。疲れたな、と思う。
 
 高校までは毎日決められた時間までみっちり授業があって、それが当たり前であったから、そのことに疑問も不満も大して抱いてはいなかった。しかし大学生になり、講義が一つだけの日があったり、突然休講になったり、学校に来なくていい日さえあったりするうち、今日のような日は憂鬱だと感じるようになってしまった。

 学生の本文だというのに、慣れとは恐ろしい。

 兎にも角にも長い一日を乗り切った。蓄積した疲労を資料と一緒に鞄に押し込み、講義室を出ようとした時だった。


「名前ー」
「はーい?」


 講義室の一角で話している四、五人のグループに名を呼ばれる。

 
「次の試験の情報交換も兼ねて帰りにカフェ寄ろうかって話してるんだけど、名前もどうー?」
「わー、いいねいい──あ、」


 ぼんやりと疲れた頭で深く考えずに「いいねいいね!」と二つ返事をしかけて、はたりと口の動きを止める。 
 

「ごめん、今日だめなんだった、ちょっと早く帰りたくて」
「あら、そっか」 
「誘ってくれたのにごめんね、ありがとう」
「ううん。じゃあまた次の機会に」
「うん!」


 大学生も四年目ともなれば情報の大切さは身を持って知っているが、それでも「そんなことよりも」と言いたくなってしまうくらい、早く帰って御幸に会いたい。 
 
 今頃あの家でひとり、何をしているだろう。試合動画を観たり、分析したり、情報を整理したりしているだろうか。

 そう考えて、名前は小走りしていた足を一瞬止めた。いやそもそも、の話だ。──御幸は夜に名前と過ごすつもりはあるのだろうか。
 
 今度は普段通りのペースで歩き出す。
 別に「授業が終わったら一緒に過ごそう」と約束をしていたわけではないのだ。ただ、名前が思い込んでいただけだ。久し振りの御幸の休日なのだから、名前の学校が終われば一緒にいられるはずだと。

 急激に不安が首を擡げる。傲慢な思い込みだったかもしれない。帰ったら御幸は家にはいないかもしれない。同棲に息が詰まり──名前は普段から結構一人の時間があるが、御幸は違う。御幸が帰宅するとたいてい名前がいる──休日くらい一人で羽根を伸ばしたいと思っているかもしれない。

 事前に確認しておけばよかった。今日をどう過ごすのか。聞いておけばよかった。いやしかし。休日の予定の把握は煩わしく思われてしまうだろうか。それとも同棲という状態においては当然のことなのだろうか。

 わからない。難しい。

 校舎を出ながら、まだ掴めない、他人と居を同じくする中で互いにとって心地の良い距離の取り方を思案していた、そんな時だ。
 

「⋯⋯ん⋯⋯?」


 視界に入ったちいさな既視感に、名前は目を凝らす。校門の前。乗り付けた光沢のある車。そこに凭れる男の影。西日に映えるその壮観さ。
 

「え⋯⋯えっ?! かっ、かずっ、?!?!」
 

 悲鳴に近い独り言だった。 
 サングラスで目元を覆ってはいるが、ひと目でその人だとわかった。佇まいが違う。オーラが違う。大学というこの場所とは余りにも馴染みが悪い。異質と言ってもいい。こんなの、知る人が見れば一瞬でバレてしまう。名前は天を仰ぎたくなった。

 こんなに、──目立ってしまうのか。

 そんなことを僅か一秒足らずの間に考えながら、名前は大慌てで駆け出していた。 


「ちょっ⋯⋯ちょっ、ちょっ⋯⋯?!」


 ちょっと一也?! 何してるのこんなところで?!

 そう言いたいのだが、驚き過ぎて言葉にならない。取り敢えず御幸の目の前まで息を切らして駆け寄ると、「おいおい、いつから俺は『ちょ』になったんだよ」と可笑しそうに言われる。名前は眉を寄せる。そんなお巫山戯を言っている場合ではない。

 返事もせずに、右へ左へと忙しなく首を振り回しながら、怪し気な視線が向けられてはいないかとSPかの如く目を光らせる。危なかった。さっき誘いを受けた彼女らと一緒に校舎から出て来ていようものなら、手っ取り早くバレてしまうか、或いは一度他人のふりをして通り過ぎるか、どちらかだった。

 そう胸を撫で下ろしたのも束の間。

 まだまだあちらこちらに学生は散っているわけで、通りかかった女子二人のうち片方が訝しむような視線を寄越したことに気が付く。
 

「あれ⋯⋯ねぇ、あの人御幸に似てない?」
「みゆき? 誰? ユーチューバー?」
「ううん、野球選手の。格好いい」
「あー、ごめん、わたしそういうの知らないんだ。みゆきって言うから女の子の名前かと思ったくらいで」


 という会話が聞こえ、名前はサッと青くなった。これは、不味い。非常に不味い。モタモタしていては更に多くの学生の目に留まってしまう。この短時間でさえ一人に怪しまれたし、名前と同じく今の会話が聞こえていたらしい男子三人組に至っては、「え⋯⋯マジで御幸じゃね?」「絶対そうだって! あの御幸! ガタイが違ぇもん」「つーか一緒にいるの苗字じゃね? ちょっと行ってみようぜ」である。
 
 不味いどころではない。結構アウトではなかろうか。
 

「やっ、やばいバレちゃうっていうかバレたかもっ、早くっ、早く乗って!」
「何だよせっかちだな。せっかく来たのに大学案内してくんねぇの?」
「出来るわけないでしょ!!!」


 名前にしては珍しくヒステリックな声が出た。それも致し方あるまい。何年も懸命に隠し通してきた関係なのに。こんなかたちで。どういうつもりなのかも知らされずに公にするなど。
 
 とにかく人目を避けようと、動く気がまるでない御幸の頗る重たい身体をぎゅっぎゅと押して運転席に押し込み、名前は駆け足で助手席へと回る。急いでドアを閉める。しかし乗ったところで完全に人の目からは逃れられない。


「だめだ、乗っただけじゃだめだ、濃いフルスモークでもない限り見えちゃう! 早くっ、早く出して!」
「こらこら、安全運転させてくれよ」
「いいから出して!」
「はは、誰かに追われてんの?」
「笑い事じゃないんだってば、あの男の子とかわたしの知り合いだし、一也は有名人なの! 自覚を! 自覚をお持ちになって?!」
「一応持ってるけどな。つーかいーんだよ、わざとなんだから」
「──へ」


 やれやれ、といった様子で車を発進させる御幸の横顔を、名前は穴が空くほど見つめた。


「何? そんなに見つめてもらっても今はキスくらいしかできねぇけど」 
「いや何言って⋯⋯ていうか今わざとって聞こえた気がして⋯⋯」
「? そう言ったけど」
「え⋯⋯?」


 名前の頭は混迷を極めた。一体御幸は何がしたいのか。わざとって、何か、つまり名前と御幸の関係を暴露したいということか。いやそんなまさか。もしそうであればこれまでの努力が水の泡すぎる。

 説明を求める視線を送ると、御幸は可笑しそうに笑った。


「魔除けだよ、今更だけどな」
「魔⋯⋯な⋯⋯なんの魔除け⋯⋯?」
「そりゃ男の」
「は⋯⋯」


 ぽかりと口を開ける名前の頬を笑って摘んでから、御幸は前を向き口を噤む。信号が青に替わるのを待つフリをしながら、ハンドルに掛けた人差し指を二度叩いた。今日、名前がいなかった数時間のことを思い出す。
 
 ──静かだったのだ。

 ついこの間まではいつも一人で静まり返っていた部屋なのに。別に何とも思っていなかったのに。名前と住むようになってから、一人きりの静寂というものがなくなった。帰れば名前がいて、起きれば──今朝のように名前がいなかったとしても──名前の形跡がそこかしこにあって、静けさを味わう間もなく御幸も家を出ていたから。だから、今日のように日中長い時間一人でいることは初めてだった。

 思っていた以上に、静かだった。

 静けさばかりが満ちる部屋の中、それを埋めるかのように急に独占欲が湧いた。名前には俺がいるのだと、彼女を取り巻くすべての者に見せつけたいと思った。大学という、御幸が存在しない名前の生活空間を乱したくなった。

 今まで随分と一人にさせてきたくせに、名前の生活に興味を示してこなかったくせに、名前を自分の手元に置けるようになった途端これだ。同じ家にいれるからこその遣る瀬無さに、たった一日で音を上げている。名前はこの気持ちをいつも味わっているというのに。

 我ながら甚だしく身勝手な話だと思う。名前が約四年をかけて作り上げてきた居場所に、“御幸一也”の名と顔を利用して風穴を開けようとするなんて。

 そう思うのに、止めることはできなかった。世間にバレたって構わないとさえ思った。つくづく自分本位な人間だ。

 口を閉ざす御幸をしばらく見つめてから、名前は気を取り直したように話し出す。
 
 
「ちょ⋯⋯ちょっと嬉しいとか思っちゃったけど⋯⋯ダメだよ、そんな簡単にバラせるものじゃないんだから」
「まあな」
「ていうかどうしたの、急にこんなこと」
「だよなぁ」
「さっきからすごい他人事っぽい返事⋯⋯!」
「いーじゃん、多分バレてはねぇだろうし」


 しれっと言う御幸に名前は項垂れる。御幸はそれで良いかもしれない。が、名前はそういうわけにもいかない。明日からもここに通うのだし、何より知り合いに目撃されている。

 
「よくないよぉ、もし一也だってバレてなかったとしても、絶対何か聞かれるもん⋯⋯男関係にはまるで縁が無い女子大生やってきてたのに、こんなとこ見られちゃって⋯⋯」
「何で彼氏いるっつってねーの?」
「絶対ボロが出ちゃう⋯⋯っていうか自慢したくなっちゃうから。でもそんなに自慢の彼氏なのに誰にも会わせられないって絶対怪しまれるし、ただの虚言妄想拗らせみたいに取られちゃうかもだし⋯⋯」
「はは、色々大変だな、お前も」
「ふふ、おかげさまで」


 これまでの御幸はあまり名前のプライベートに関わってこないタイプであったから、「彼氏はいないことにしている」と話したことはそういえばなかったかもしれない。だから気を悪くしてしまうかもしれないと危惧したが、どうやら杞憂に終わったらしい。むしろ嬉しそうにしているまである。“自慢の彼氏”のフレーズが効いたのだろうか。

 
「よし、どっか行こうぜ。せっかくのオフだしさ。今から行けるとこならどこでも連れてくぜ」
「やったあ。じゃあ、甲子園浜」
「はは、言うと思った」


 想起されるのはほんのひと月前の会話だ。同じように問われ、同じ地を所望した。しかしあの時とはまったく違う。車内の雰囲気が。二人の雰囲気が。あの時は夜の闇に落ちてしまいそうだったのに、今の名前には、その夜に向かう侘しい夕暮れも美しく映る。

 あの海は今、この夕焼けを映してどんな色をしているだろうか。
 
 
「けどむーり。明日はまた試合なんだから」
「どこでもって言ったのに」 
「今から行けるとこならっつっただろ」


 笑った御幸の左手がハンドルから離れる。目は前を見据えたまま、左手だけが真っ直ぐに伸びてきて。名前の頭をぽんぽんと撫でた。

 
「そこは、また今度な」
「──⋯⋯」


 名前は下唇を押し上げ、上目で御幸を見る。甘いマスクに甘い声。おまけに頭ぽんぽんときた。ずるい。格好いい。やっぱりバレてしまえばよかっただろうか。この人が彼氏なのだと、豪語してしまえばよかっただろうか。こんなに格好よすぎるのだ。是非自慢したい。

 そんなことを考えながら、太腿の上の手のひらへと視線を落とす。手掌に乗った夕陽ごと握ってみる。この拳の中にまたひとつ、名前は欠片を閉じ込めた。ちいさなちいさな。温く瞬く。銀河を流離うような人生の中で掬う、塵屑みたいなしあわせの欠片だ。

 


 
◆星の欠片を掬っている◇
 

リオ様より、「海と宇宙って同じかな」「彗星みたいな夜だった」続篇