たとえば白と黒だけだとして
──陣平くん。
そう遺影に呼び掛ける母の声は、毎日聞いていた。いつからかその声で母の調子が凡そ分かるようになった。
しかし今日の声は、これまで聞いた数え切れないもののどれとも少し違っていた。
「わたしも近々、そっちに行くことになりそうだよ」
二日前のことだった。
入退院を繰り返しながら続けてきた治療。それらが全て役目を終え、残る介入は緩和ケアのみであることを、主治医に伝えられたのは。
「零くんが、最後になりそうだねえ」
「⋯⋯そうだな。全員を見送るなんて、そんな役割やりたくなかったけど」
「これだけヤンチャしてきたのにこの歳まで元気なんだもん、もう何しても死なないよお、零くんは」
「あはは」
もうギネスに載ってから天国おいでよ、なんて笑う母の笑顔は、そして安室の笑顔は、余命宣告をされたばかりとは到底思えぬ穏やかなものだ。そのいつもと変わらぬ空気感に、なんでそんな強かでいれんだよ、と行き場のない憤りさえ覚える。
だって自分は。もうすぐ母がこの世から居なくなるという揺るぎのない未来が目前に来て、狼狽えているというのに。
二人とも、心の何処かで準備をしていたのだろうか。病が分かったその日から。いつか来るこんな日のことを描いて。「わたしの大切な人たちはいつも、急にいなくなっちゃったから。時間を貰えたわたしは幸せだよ」、と。そう言っていた母の顔を思い出す。
最近よく考えるのだ。
父を亡くしてから歩んできた人生は、母にとって途方もないものだったのだろうか。それとも、振り返ってみれば案外早いものだったのだろうか。現し世を離れることへの想いよりも、“やっと父のもとへ”という気持ちのほうが、強いのだろうか。
「⋯⋯零くんのこと、ついにひとりにさせちゃうね。ごめんね」
「ひとりなんかじゃないさ。男二人で楽しくやっていくよ」
安室が、男二人、と口にした際にこちらを見るものだから、「俺かよ」と笑ってしまう。
確かにこの歳になった今でも安室のことは兄のように思っているし、いつか来てしまう母がいない未来の世界でも、きっと変わらず関係は続いていく。というか、母がいなくなってしまうその時、心を支えてくれるのはきっと安室の存在だ。
そんなふうに慕われていることなど知らないであろう安室は、母に向けて言葉を継いでいく。
「それに、この役割を君にさせることにならなさそうなのは、心底良かったと思ってるんだ」
「その格好良い台詞、わたしが言いたかったのになあ」
「ハハ、駄目駄目。君より先に僕が天国に行ったら、あいつら全員に追い返される」
「ふふ」
先に逝く者と。見送る者と。
別れの時間を与えられたことは、いつも突然残される側であった母たちにとっては本当に幸せなことなのだろう。しかしだからこそ。残される側の辛さを、母は知っている。それを安室に味わわせてしまうことが、苦しいのだろう。
「僕が⋯⋯いや、僕たちが失ってきたものは余りにも多いけれど、それでもここまでやってこれたのは、確かに君がいてくれたからなんだ。⋯⋯ひとりじゃない時間をこんなにくれて、本当にありがとう」
「⋯⋯ちょ⋯⋯ちょっとやだ、泣いちゃいそう、まだ死なないんだからやめてよー⋯⋯そんなのわたしだって同じだし⋯⋯それに、一緒にいる時間なんてまだまだあげるよ。わたし、零くん程とは言わないけど、きっと結構しぶといと思うんだよね」
皆生きていれば、それぞれが辛く苦しい過去を経験している。しかし二人が抱えてきたものの重さは、とても推し量れない。それは確かに、二人でしか分け合えない痛みと想い出だ。
いや、それはそうと。
「──なあ、しんみりしてるとこ悪いけど、さっきから言ってんの何?」
あまりにも気になり過ぎて居ても立っても居られなくなってしまった。口を挟む雰囲気ではないと承知しながらも、ついに口を挟む。
「「? 何って?」」
「だから、零って。誰? まるで安室のことみたいに口にしてるけど」
「「⋯⋯え???」」
部屋の中の空気が固まったのを肌で感じる。安室と母は揃ってきょとんと目を開き、それからゆっくりと顔を見合わせた。母はともかく、安室のこんなに驚いた表情は珍しい。
青天の霹靂とはこのことなのだろう。
暫く呆然と顔を見合わせ続ける二人から、何かしらの反応が返ってくるのを辛抱強く待つ。長い。その長いアイコンタクトで一体何を話しているのか。そろそろ感心してしまう。ていうかもういい加減口に出して話してくれよ──、と痺れを切らして言いかけた直前で、漸く二人は口を開いた。
「誰って──」
「僕のことだけど──」
「⋯⋯は? 安室透のどこに『零』が入ってんだよ。いつからそんな渾名つけ始めたわけ?」
大真面目に答える。兄の如く慕ってきた日々かれこれウン十年。安室を零と呼んでいるだなんて、そんな話は聞いたことがない。
しかしこれを聞いた安室は、突然腹を抱えて笑い出した。
「はは、何だ、まだ信じてたのか?」
この時の降谷の顔ときたら。こののち、理不尽なことや怒りを覚えることがあった際に「まあでもあの時の安室の顔に比べりゃあな」と思えば大抵のことはどうでもよくなる程度には、腹立たしいことこの上ない表情だった。
「⋯⋯⋯⋯いや、信じる信じないとかじゃねえんだけど⋯⋯?」
漸く振り絞った声は、自分でも分かるほど酷く間の抜けたものだった。信じる信じないの話ではない。そもそも普通の人間は、母の友人が「偽名を使っているかも」とは疑わない。そんなのは漫画の中だけの話だ。
一体どういうことだよ、と見遣った先の母は、笑いながら首を傾げ安室に問うている。
「変だねえ。もうずーっと前に安室透は居なくなって、もとの零くんになったのにね。その時に言ってなかったっけ?」
「うーん、どうだったかな⋯⋯なんせもう知ってるものだと思ってたから」
「わたしもわたしも! ただ慣れてるから『安室』って呼び続けてるだけだと思ってた! ていうか本名解禁されてから、わたしずーっと“零くん”って呼んでなかった?」
話を振られる。迷うことなく即座に返答が出来た。思い返すまでもない程に、母の呼び方は変わっていなかった。
「いや、少なくとも俺の前では『安室さん』っつってたぜ」
「え⋯⋯そうだったんだ⋯⋯無意識って怖⋯⋯」
長年続けてきた偽る努力。それはいつしか努力ではなくなり、身に染み付いた“普通”となる。母の言う解禁というものが為されてからも、息子である自分の前では、無意識にこれまで通り“安室透”と位置付けていたのだろう。
──ここではたと気付く。
それ程までに染み付いていた無意識が、今このタイミングで、更なる無意識に置き換えられたのだということに。
母も同じことを思っていたようで、考え込む仕草で呟いた。
「⋯⋯もしかしたら、自覚以上に堪えてるのかなあ、もうすぐ死ぬこと。少なくとも今までの無意識が素に上塗りされるくらいには」
「馬鹿だな、堪えてないわけないだろう」
「ふふ、零くんに馬鹿って言われたの初めてじゃない?」
「だって僕も堪えてるからね。いくらずっと覚悟してたこととはいえ⋯⋯そんな他人事みたいに言われると怒るさ」
「──⋯⋯」
困ったように。哀しそうに。切なそうに。無言で眉を下げてぎこちない笑顔だけを見せる母と。同じような表情で見返す安室。先程憤りさえ覚えた「いつもと変わらぬ空気感」は、彼らの努力で作られていたものなのだと知る。
己のなんと未熟なことか。
人知れず項垂れていると、母は「──まあ、それはそうと」と話題を区切った。そして改めて二人で顔を見合わせてから、あまりにも不思議そうな表情を貫いて、再度こちらに向き直る。
「「本当に、言って⋯⋯なかったっけ⋯⋯?」」
「言 っ て ね え よ」
ふざけないでほしい。どういう神経をしてたら逆にこちらを疑えるのだろう。そんな話、一度聞いたら忘れるはずがないではないか。というか場の空気もシリアスなのかコメディチックなのか、どちらかにして欲しい。
「何、意味分かんねえ、安室透は本名じゃないってこと? 零だ?」
「あっはは、大混乱」
「そりゃ混乱もするっての。マジでちゃんと説明してもらわねえと人間不信になりそう」
「ふふ」
「ふふ、とかいうレベルじゃ⋯⋯おい母さん笑い過ぎ」
最終的に、降谷の長い長い説明に渋々納得はしたものの、なかなか溜飲は下がらない。おおかた不機嫌そうな顔でもしていたのだろう。愉快そうにしている降谷に諭すような口調で話し掛けられる。
「そんな顔するな。⋯⋯世の中、白か黒かだけじゃ回らないだろう? 僕みたいなヤツが世界のあちこちで回すほんの一役を担ってるってことさ」
「かっこつけてんじゃねえよ」
[たとえば白と黒だけだとして]
「宵恋を編む」番外篇、安室透の本名が降谷零なのだと知った時のおはなし