地獄からでも祝福するよ
「五条くーん、おかえり〜〜、助けてぇ〜〜〜」
情けない声が五条を呼んだ。
高専敷地内に鬱蒼と生い茂る木々の間。眩しい太陽の光も疎らにしか届かぬ、到底人間の通り道とは思えない場所で、名前がひらひらと手を振っている。
「? 何してんの」
「髪が引っかかっちゃって⋯⋯自分で取れないの。もう三十分もこのまま。みんな出払ってて電話も繋がらないし⋯⋯さすがに諦めて泣く泣く切るところだったんだ、取ってくれる?」
小さなトンネルのように開いた低木の隙間に四つん這いで半身を突っ込んでいる名前の後ろ髪が、枝葉に絡み付いていた。
しかもただ引っかかったのみならず、なんとか自力で脱出できないものかと、手の届きにくいところをあれこれ弄ってしまったものだから、かえって絡まってしまって酷い有様になっていた。
「枝折りゃいーじゃん。名前パワータイプなんだし」
「わたしのパワーは植物を傷付けるためのものじゃないの」
「へー。てか何してたらこんな場所でこーなるわけ?」
問われた名前は、気不味そうに目線を逸らす。
「ね⋯⋯猫追っかけてて⋯⋯」
「ハァ?」
「わたし無類の猫好きなんです⋯⋯キュートな野良猫ちゃん見かけたからつい⋯⋯だって可愛くて⋯⋯わたしもくぐれるかななんて思っちゃったりして⋯⋯こうなりました⋯⋯」
「プ、自分のサイズ過小評価しすぎでしょ」
馬鹿にしたように笑う五条は、「阿呆だ、阿呆がいる、阿呆が」と許可もなく携帯のカメラで撮影し出す。ひとつ歳下の後輩に好き勝手遊ばれ、名前はぐすんと泣き言を零した。
「どうして通りかかったのが五条くんだったんだろう、夏油くんだったらよかったのに」
「あ?」
「夏油くんならすぐに助けてくれるもん」
「俺も助けないとは言ってないけど」
「だから“すぐに”って言ったのですが⋯⋯?」
「へぇ、助けて貰えるとホントに思ってたんだ?」
「え〜〜〜?!」
名前の頓狂な声が高専に響く。その、直後だった。
「あれ、名前さん何してるんですか、大丈夫?」
「夏油くん!!!」
五条とは別任務に当たっていた夏油の待ちに待った帰還に、名前は涙を滲ませながら喜びの声を上げる。
「おかえり! さすが特級術師は仕事が早いね待ってたよ! お疲れのところごめんなんだけど、助けてくれる? 五条くん揶揄うばっかで全然助けてくれないの」
「アハハ、すみません、悟の気持ちも少し分かります。絵面が面白すぎる」
「⋯⋯うう」
五条に話したことと同じ顛末を泣く泣く語った名前に、「やれやれ、これじゃ名前さんが野良猫だ」と困ったように笑った夏油が手を伸ばす。
名前の酷く乱れた髪に、触れるか、触れないか。
いや、僅かにだけ。微風に吹かれたよりも弱く。名前は触れられたことにも気付かないほど僅かにだけ、指先の皮膚が掠めただろうか。
その刹那のことだ。
残像さえ捉えられない速度で、五条が夏油の手を払った。バシッ、と響いた音はまさに戦闘中のそれ。さすがの夏油もピクリと眉を動かして五条を見る。
「⋯⋯痛いんだが?」
「あっそ? ご愁傷サマ」
ケロリとそう言って。代わりに髪を解き始めたのは五条の指。その様子を夏油は呆れと可笑しさとが半々に混ざった表情で眺めていた。
少しののち、何とか枝からは取れたものの毛羽立ってしまった髪を一房掬って、五条は言う。
「髪切れば? 長いと邪魔だろ。戦闘に限らずさぁ」
「⋯⋯五条くんは短くしたほうが好き?」
「んや? 別にどっちでも変わんねーんじゃん?」
「⋯⋯ちょっと夏油くん今の聞いた?」
「私はロング好きですよ。お似合いです」
「うぅ、優しい、沁みる⋯⋯」
めそめそと泣き真似をしてみせる名前を、小馬鹿にした表情で五条が見下ろす。
「ハッ、お世辞だって気付けよ」
「うわ! 可愛くなーい! 後輩が可愛くない!」
「別に可愛くても嬉しかねーし。はー、疲れた疲れた、解散解散〜」
ひらりと手掌を翻して寮へと戻っていく背中。長く伸びた影が物陰を曲がって見えなくなるまで見送って、名前はぽつりと呟いた。
「⋯⋯わたし個人のことはともかく、どっちの長さが好きかくらい、教えてくれればよかったのにな」
五条が触れた毛先を人差し指と親指で弄り俯く名前を、困ったように夏油が見遣っていた。
⁑
ザッ、と靴底が石段を擦る。
段差に沿って歪に伸びた影は、夕日を受け何段分もの長さを駆けていく。
「⋯⋯夏油くん、死んじゃったんだね」
「ん、お疲れさーん」
高専の石段。その中腹に腰を掛け、五条は黄昏れていた。名前の声に一瞬だけ振り返ったきり、こちらを見ようとはしない。そんな五条の隣に人ひとり分の隙間を開けて名前も腰を下ろす。
「死んじゃったっていうか、僕がやったんだけどね」
「うん」
暮れなずむ世界の片隅。
寒々とした冬の夜が押し下げていく橙の淵を見上げて、五条の言葉に頷く。
夏油が率いた百鬼夜行。首謀者の死を以て幕が下りた未曾有の事件。親友を手に掛けた五条と。親友に野望を絶たれた夏油と。
二人を想って、項垂れる。
この世界は残酷だ。そんなこと、ずっと前から知っているのに。それでも、どうして神様は、この子たちから数少ない大切なものを尽く奪っていくのだろう。なぜ、あの頃のままでいさせてくれなかったのだろう。そう思わずにはいられなかった。
何か声を掛けたくてここに来たのに、何も言葉が出てこなくて。只々五条の心情を想像しては視線を落とす。
そんな折だ。五条がケロッと問うてきた。
「ねー、名前」
「ん?」
「呪詛師になったとはいえ、好きだったヤツが死ぬのは辛い? 殺した僕が憎い?」
「⋯⋯はい?」
ぱちくりと大きく瞬いた瞳が五条を見つめる。好き、とか。憎い、とか。どうやら五条は、何かを誤解しているらしい。
「⋯⋯夏油くんは可愛い後輩だったよ。もちろん、呪詛師になっちゃってからもね。でも後にも先にもそれだけかな」
──それに、五条くんを憎むなんて、どうしてそんなことができるの。そんな顔をしてる五条くんを、さ。
もうひとつ付け加えたかった台詞を心で呟く。
憎まれた方が楽なのだろうか。なぜ殺したのかと。名前に罵られたほうが、五条の心は少しばかりか楽になるのだろうか。
まあ仮にそうだとしても、そんなこと、名前はしてはあげないけれど。
「ふふ、わたしって、夏油くんのこと好きってことになってたの?」
「あれー、好きだったんじゃないの? 傑のこと」
「残念ながらね」
「でも学生時代さぁ、好きなヤツいるって話してたじゃん、硝子たちと」
「うん。聞いてたんだ?」
「まーね。ちょっと耳に挟んだだけだけど。それに傑と仲も良かったし」
「うん。わたしこれでも友達は多い方なんだ」
納得がいかなそうな雰囲気で名前の返答を聞いていた五条は、夕日の映った白髪を少し傾げて問う。
「じゃあ誰だったの」
「んー、今もまだ好きだから言いたくないなあ」
「えっ、今も?! ちょっと待って何年⋯⋯ひーふーみー⋯⋯うっわ超一途!」
「そうかなあ」
今まで伝えなかったのは、別にこのままで良かったから。
いつ死ぬかもわからぬ世界で。親友さえ手に掛けなければならないような世界で。五条と同じ時代に生きて、かつ仲間であること以上を求めるのは、とても強欲な気がしたのだ。
それに、五条がこうして名前の想い人に興味を示すこともなかった。五条にとって名前は、色恋沙汰の対象ではないのだと自覚している。
しかしむくりと好奇心が首を擡げる。
もし今、名前が想いを打ち明けたら。五条は一体どんな反応を見せるだろう。この状況は夏油の置き土産だ。それならば。何年も守ってきた沈黙を破るのも悪くはないなと思う。
「いーじゃん教えてよ」
「えー、聞きたいの?」
「うん」
「困るかもよ?」
「なんで?」
「だって、──五条くんだから」
眼差しが五条を射抜いていた。
その瞳の熱さを追従するように落ちたのは静かな告白。五条くんだから。その言葉が放たれた途端、瞬く間に静寂に包まれた空気をゆっくりと吸い込んで、名前は眉を下げる。
「⋯⋯ほら、困っちゃった」
「あ、いや──」
「言っておくけど冗談とかじゃないよ、ほんとだよ」
「マジで⋯⋯?」
「うん」
頷いて、じっと五条を見つめる。僅かに開いたその唇から、どんな言葉が飛び出してくるのか。固唾を飲んで見守っている自分がいた。期待はしていない。けれどできれば柔らかな拒絶であってほしい。五条の口の悪さには慣れているが、だからといって傷付かないわけではないから。
思わずこくりと唾を飲み込んだ、その直後のことだ。五条の唇が、やおら動く。
「そしたら僕ら、──両想いってやつなんだけど。しかも随分前から」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?」
今一度静寂が満ちる。ぽかんと口を開け阿呆のような表情を作る名前を横目に、五条は膝に肘を乗せ指を組んだ。
*
昔はこの気持ちに、気付いていなかった。
きっかけは夏油が呪詛師になったことだろうか。皆で共に過ごした日々を“過去”として屠ろうと図った──図っただけで出来なかったわけだが──時、はじめて、名前へ抱く気持ちが現在進行系であることを知ったのだ。そこでその心情の名を自問して、はたと気付いた。
でも、名前はきっと、夏油が好きだった。
だから無意識のうちに嫉妬して、あんな態度を取ってしまっていたのだろう。五条の数ある黒歴史のひとつだ。
五条も、名前に気持ちを伝えるつもりはなかった。
あの日、夏油が姿を消して身に沁みてしまったから。大切な者の存在を“良い意味での枷”として生きていくことを、五条はしたくなかった。それに夏油の離反の一因となった五条のことを、名前は恨んでいると思っていたから。
だから名前の気持ちを聞いて、あまりにも驚いて、気が付いたらぽろりと口走ってしまっていたのだ。
「あ、こっちこそ言っとくけど、冗談じゃないから」
「う、うそ⋯⋯」
「ホントだって」
「だって今までそんな素振りなかった!」
「そんなことないよ。てか名前だってそんな素振りなかったじゃん」
「いやわたしこそそんなことないもん⋯⋯てことはわたしたち只々お互いに鈍感だったってこと?」
「⋯⋯信じたくないけどね」
微妙な沈黙が流れ、名前はもじもじと指先を弄る。暫くしてから、悪戯な表情で五条を上目に見遣った。
「⋯⋯さっきの話だけど、」
「ん?」
「やっぱりちょっとだけ憎いかも。この話夏油くんにして、盛大に笑ってほしかったな」
「そうだね。僕も同じこと考えてたよ」
【地獄からでも祝福するよ】
ゆきの様より、高専時代からの片想いが実るおはなし