この拍動はきみだけの
鍵を差し込んだ瞬間には、家の中から声がしていた。
「おっかえりー! マイスウィートハニー!」
「あれっ、悟?」
いるはずのない姿を認め、名前は目を丸くした。靴を脱ぐのも待たずに抱き締められた玄関で、記憶を辿る。悟は確かに「今回は三日間。寂しいからって浮気しちゃダメだよ」と言って、出張に行った。
昨日のことだ。間違いない。
とすれば、悟が間違っているのか。それとも名前が間違っているのか。
過去には時間の流れを歪められる呪霊も居たしなあ、と悟の腕の中で一応カレンダーアプリを確認する。
「やっぱりまだ一日しか経ってない」
「名前に会いたくて超巻きで仕事してきたからね」
「二日分も巻けるの怖すぎ!」
「まあねー」
いつも通りの軽い調子で返しながらのことだった。何かに気が付いたような素振りを見せてから、悟は名前の髪や首筋に顔を近付け、問う。
「⋯⋯名前、今日の任務なんだっけ?」
「ん? また恵の引率みたいなのだったよ。少し見ない間にまた強くなってた」
「⋯⋯あとは?」
「あと? その後ご飯に連れてったけど⋯⋯」
「ほんとにそれだけ?」
「?」
まるで匂いでも嗅ぐように、悟の鼻が首筋を辿る。擽ったい。ちいさく笑って身を捩ってから、服の首元を引っ張り自分でも嗅いでみる。
「⋯⋯? なんか匂う? 任務もすんなり片付いたし、変なものも食べなかったんだけどな」
「いや、恵の匂いがすんだけど」
「え?」
恵の、匂い?
もう一度嗅いでみる。が、普段と同じ匂いしかしない。というかそもそも伏黒の匂いとか知らないのだが。何故悟はそれを識別できるのだろう。強いからって何でもありなのか。それともただ変態なだけなのか。
ツッコみたいことがあり過ぎて咄嗟の言葉を継げないでいる名前を余所に、悟は再度くんくんと鼻を鳴らす。
「何で名前から他の男の匂いがするわけ?」
「⋯⋯する?」
「ちょっと恵と話つけてくる」
「えっ、ちょっ、待って」
空気がぴりぴりと痛い。怒っている。どうやら悟は何事かを誤解しているらしい。今にも飛び出して行ってしまいそうなその背中に抱き着き、慌てて制する。
「悟、誤解だよ」
「何が誤解? 普通にしてたらこんなに匂いするわけないんだけど」
「いや犬ですかって──⋯あ、もしかして!」
藁にも縋る思いで今日一日の行動を振り返っていた名前は、思い当たる節に必死の声を上げる。
「なに」
「たぶんあれだ、帰りに電車乗ったんだけど、ちょうど退勤ラッシュの時間でやばくてさ。朝よりはマシだけどそれでもやばくて! 恵が壁際で周りの人達からそれとなーく庇ってくれてたの。その時かな」
何故こんな。必死の言い訳をしなければならないのだろう。これではまるで、本当によからぬことをしてきたみたいではないか。
ただ後輩と任務に当たり、ただ後輩にご飯を奢っただけなのに。
「⋯⋯だからって近付き過ぎじゃない? てか伊地知とかに車出させなよ」
「だって超満員だったんだもん、不可抗力だよ⋯⋯任務の場所的に車は渋滞に捕まるし、早く帰って美味しいもの食べたかったし⋯⋯それに別に抱き締められたとかそんなわけでもないし⋯⋯知らないおじさんに潰されるのはわたしも嫌だし⋯⋯」
つらつらと。出てくるのはどこまでも言い訳じみた言葉だ。きっと違うのに。悟が欲しがっている言葉は、名前が言うべき言葉は、もっと別のものなのに。何故取り繕うような言葉ばかりが出てきてしまうのだろう。
だから、やはりというべきか。
悟の腹の虫が治まるはずもなく、「取り敢えず行ってくるから。恵のとこ」と、抱き着く名前を背中にくっつけたまま、玄関の鍵を開けようと手を伸ばしている。
「待って、だめ、何しに行くの」
「話すだけだよ」
「そんなわけないじゃん⋯⋯」
これほど不穏なオーラを纏っていながら、話もなにもあったものではない。というか何故悟はここまで怒っているのだろう。普段であれば、冗談めかして指摘する可能性はあれど、ここまでの激昂は見せなかっただろう。そもそも相手は伏黒である。未成年の教え子相手に、あまりにも余裕がない。
「悟⋯⋯どうしたの? 出張で何かあった?」
思わず問うたその瞬間だ。
一瞬、悟が息を止めて。それから何かを諦めたような、失望したような、そんな吐息が腹の底から溢れ出た。
「ハァ⋯⋯逆だよ、何もないから怒ってんの」
「⋯⋯?」
「だって──僕だけじゃん」
「悟、だけ」
「コッチは名前に会いたくてちょっと無理して任務終わらせて帰ってきたのにさ。名前はちっとも喜んでないし、恵とイチャイチャしてるし。早く会えて浮かれてんの、僕だけ」
「──っ」
胸が、じくりと痛んだ。
予定よりずっと早い悟の帰還に驚きが勝り、思い返せば確かに、──喜びを顕に出来てはいなかった。
きっと悟は、名前の驚いた顔、そしてそこから破顔へと変化するのを楽しみにしていたのに。
名前は幾秒か俯いてから、「ちょっといい?」と悟に身体の向きを変えさせる。玄関の扉に背を預けさせ、その身体の両脇に手を付く。身体のサイズ的に悟に覆い被さることは出来ないが、とにかく当時の様子を再現する。
「こんな感じだったの。恵と、電車の中で」
触れては、いなかった。
きっと伏黒の中でも葛藤があったはずなのだ。「有象無象が名前に触れないように守るに決まってるよね?」と恐ろしい笑顔で笑う悟と。「名前に一ミリでも触れたら恵といえど許さないから」と冷たく言い放つ悟。二つの顔に執拗に責められていたことだろう。
どっちに転んでも迎えるのは最悪の結末だ。
ゆえに懸命に「すいません、少しだけ我慢してください」と言って、周囲からの物量を凌ぎ切ってくれたのに。まさかこのようなかたちで危機に瀕しているなどとは、伏黒も思うまい。
「わたし、びっくりするくらい何も思わなかった。ドキっとか、キュンとか。少しくらい芽生えてもよさそうなシチュエーションだけど、皆無だったの。なんだかおっきくなったなーって、親みたいなこと思っちゃっただけだった」
こてん、と悟の胸板に頭を預けてみる。拒絶は、されなかった。そのことに少し安堵して、言葉を続ける。
「電車に乗ってる間中ずっと、悟だったらよかったなって思ってた。今ここにいるのが悟だったら、どんなによかったかなって。悟だったら、満員電車に託つけて人前で思いっ切り甘えて⋯⋯きっとちょっと恥ずかしくて、すごく幸せなのになって」
とくり。とくり。
名前の鼓膜に直接響くのは、やわらかな鼓動の音。ひとつ聞くたびにひとつ、愛おしさが募る。この人が生きているから名前も生きているのだ。こんなに愛おしい鼓動はこの世にふたつとない。
「急いで帰ってきてくれてありがとう。ほんとは今でも悟がいない夜はなかなか寝れなくて、実はこっそり悟のパジャマと一緒に寝ています」
寂しかった。帰ってきてくれて嬉しかった。大好き。そのことを伝えるだけなのに、こんな言い方になってしまった。
恐る恐る見上げる。
次の瞬間には、きつい抱擁が待っていた。
「いや待って、何今の突然のカミングアウト。チョ〜〜〜可愛いんですけど⋯⋯ってなる僕ちょろくない?」
「あははっ」
⁑
「⋯⋯ってことがあったんだよ」
「それは大変でしたね。伏黒くんが無事で本当に良かったです」
胃が凭れるので脂身は結構です、と赤身を焼いている七海の向かいで、名前はカルビを口にしながら愚痴を零していた。
「七海先輩も彼女がいたら、他人の匂いが付いたらすぐわかる?」
「気色悪いこと言わないで下さい」
「だよねぇ。何でわかったんだろう、恵だって別に香水とか付けてるわけでもないのに」
「変態なんですよ」
「やだ怖いなぁ」
そう言いながら嬉しそうに笑う名前を見て、いっとき手を止め七海は思う。こんな惚気を聞くのも案外悪くない、と。
【この拍動はきみだけの】
うみ様より、「流れる星の落つところ」番外篇、五条の嫉妬