ベテルギウスを囲んだそれは
カラリと窓がサッシを滑る。
ベランダへと通ずるおおきな窓を開け放たれた途端、室内の喧騒と熱気を帯びた空気が一気に流れ出てくる。サッシを跨いで一歩、そしてもう一歩。ベランダへ出てから後ろ手に窓が閉められる。静けさが戻る。
名前は出てきた人物へと声を掛けた。
「御幸くんも避難?」
「そう、喧しすぎ」
「ふふ」
同意を込めて笑って、室内を見る。
もみくちゃだ。
皆お酒が回り、いい感じの酔いを通り越してどんちゃん騒ぎになっている。お酒でも飲んでいなければとてもついていけない。が、名前は体質的にまったくお酒が飲めないし、プロになって早数年、いつものことながらお酒は控えているという御幸もまた、ほぼ素面である。
逃げ出したくもなるというものである。
高校を卒業してからというもの、この時期に野球部同窓会と称して集まるのも、今年で何年目だろうか。毎年、倉持の暮らすちいさなアパートに押しかけて、ぎゅうぎゅう詰めになって。
そしてこのベランダで、御幸と夜を眺める。
「仕事どう?」
「変わんないかな。忙しかったり忙しくなかったり、すごくやりがいを感じたり、もう辞めたいって思ったり」
「確かに去年も同じこと聞いたな」
「ふふ」
覚えている。去年もこの場所でこうして肩を並べ、同じことを話した。寒々とした空気の中で、触れそうなくらいまで近付いていた肩のあたりだけあたたかいような気がしたことまで覚えている。
「夜はやっぱ冷えるな」
「冬だからねぇ。御幸くん、寒いの苦手だよね」
「うん。知ってた?」
「うん、毎年言ってるから」
「ははっ、そうだっけか」
その横顔を見て、名前の胸がとくりと鳴る。やっぱり好きだな。ずっと。出会った頃から、御幸が好きだ。
でも──今日で、最後。
その覚悟で来た。消し方もわからないのに、この恋心を消すために。
伝える言葉も、伝え方も、頭の中で何度も繰り返してきた。それでもなかなか口を開けない。今日で最後にするのだと思うと、そう簡単に踏み出せるものではなかった。
けれど、進みたいと思ったから。
やっぱり踏み出さなければならないのだ。
長年積み重ねた恋心は思っていたよりも厚みがあったようで、片想いであったにも関わらず喪失感で胸がいっぱいになる。片想いというものにも、どうやら存在する意味はあるらしい。
なんか、もう泣いちゃいそう。
震えそうになる唇を決死の思いで抑え込み、ちいさく声を出してみる。
「──そういえばね、」
「うん?」
「わたし先週、友達の結婚式に行ったの。ほら、御幸くんも同じクラスだったことのあるこの子。覚えてるかな」
スマホの画面を見せる。高砂席を囲むようにして同級生で集まって撮ったものだ。良い式だった。愛と、未来への希望に満ちていて。幸せな空間だった。
写真を見て、「⋯⋯苗字しか分かんねぇ」と眉を寄せる御幸に笑ってから、続ける。
「初めてだったんだ、結婚式出たの。結婚とかって、ずっと未来のことだと思ってたのに⋯⋯でももう、いつの間にかそういう年齢なんだよね。思っちゃったもん、『わたしも遠くない未来でこんなふうになれたらいいな』って。⋯⋯だから、わたしも区切りをつけなきゃと思って。そろそろ先に進まなきゃいけない時が来たんだなぁって」
「⋯⋯?」
手摺に手を掛け、不思議そうに首を傾げる御幸を目に焼き付ける。この言葉を口にしたら、御幸のこの表情を見ることは、きっとできなくなる。この先御幸は名前のことを「自分に好意を持つ人物」と認識した上で接してくるのだから。
「わたしね、ずっと⋯⋯ずっと、御幸くんが好きなの」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え」
「だからわたしを、振ってほしいんだ」
瞠目する御幸を正面から見つめる。そのまま話し続けようと思ったが、御幸の表情の変化を目にしてしまうのがなんだか怖くなってしまって、視線を逸らす。ベランダから見える街灯の麓に彷徨わせる。
「この気持ちを手放したくなくて⋯⋯っていうか手放す方法がわかんなくて、いつまでも叶わない恋をしてたかった気もするのに、でもいつまでも囚われてないでちゃんと次に進まなきゃっていう焦燥感もあるの。矛盾してるよね。でもやっぱり、終わらせなくちゃと思って。だから御幸くんに引導を渡してほしいんだ」
躓きながら話す間、御幸は相槌を打つでもなく、ただ静かに、名前の言葉に耳を傾けていた。それから御幸が口を開くまで、随分と待ったように思う。
「その⋯⋯ずっとって?」
しかも返ってきたのが予想とは違う反応で、面食らう。情け容赦なくひと思いに振ってくれたらいいのに。それとも名前の想いの詳細を知り受け止めることが、御幸なりの誠意だとでも言うのだろうか。
と邪推するものの隠すことでもないので、素直に口を開く。
「ずっとはずっとだよ。高校生の時から。告白しようって思ったこともあるんだけど、でもあの頃は甲子園までは邪魔したくなくて⋯⋯でもその次はプロの準備があって、プロになったらもっと大変で、何時如何なる時も邪魔になっちゃう⋯⋯なんて言い訳をして、今日まで逃げてただけなのかもしれないけど」
「逃げるって何から?」
「? そりゃあ、断られることから?」
「⋯⋯ってかさ、誰かが言ったの? 邪魔だって」
「⋯⋯?」
なんか御幸くん、怒ってない⋯⋯?
言葉の端々に微妙な尖りが見え隠れしてやいないだろうか。しかも問われる内容にも違和を感じる気がしないだろうか。
「えっと、気を悪くしないでほしいんだけど、たまたま遭遇しちゃったことがあって⋯⋯その、御幸くんが告白されてるところに」
人目に付きにくい場所だったそこを通り掛かったのは、本当に偶然としか言いようがなかった。盗み聞きをするつもりはなかった。けれど、通り過ぎることも引き返すこともできず、釘にでも打たれたようにその場で硬直してしまった。
交際を申し込む女子生徒と。それに返事をする御幸の声。今でも耳に残っている。
「──ごめん。今は野球のことしか考えらんねぇんだ」
「わかってるよ。野球の次でいいの」
「気持ちは嬉しいんだけどさ。野球以外は邪魔っつーか⋯⋯ごめん、これ以上言われると、コッチも言葉がキツくなるだけだぜ」
これを聞いて、自分が告白したわけでもないのに、まるで自分が振られたかのような気持ちになった。すっと指先の体温が失われて、心臓が嫌な音を立てて。
その上で名前から想いを伝える強さなどは持ち合わせていなくて、自分を拒否されるのが怖くて、心が萎縮してしまった。
その次は、いつだったか。
プロになった御幸が何かのインタビューに答えていた。
「結婚? いやー、俺はいーっすね。一人が気楽だし、正直重荷なんで。野球ができればそれで」
ああ、御幸くんだな、とかえって安心さえしてしまった。こうしてブレずにいてくれるから、今日、決心がついたのだ。
こんなことを言っていた御幸も、いつかの未来で結婚したりすることもあるのかもしれないが、変化は誰にだってある。その時に後悔なく受け入れ、祝福するためにも、この恋を過去にしたいのだ。
「あー、確かにそんなこと言った気もしなくもねぇか⋯⋯ってか苗字こそ、高校生の時から男には興味ねぇって言ってただろ」
「そう言っておかなきゃ大変なんだもん、マネは色目使ってるだとか男目当てだとか⋯⋯女の敵は女なんだよ」
「はは、怖ぇな」
どうしてだろう。何故御幸は、こんな会話の運び方をするのだろう。焦れったい。まどろっこしい。わからない。
「⋯⋯ねぇ、何でこんな話するの?」
すると御幸は、困ったように溜め息を吐いて頭をがしりと掻いた。
「⋯⋯まぁその、なんだ、俺も背中押されてここにいるわけなのよ」
「?」
物凄く悪い歯切れでそう言って、クイ、と親指が背後を示す。その方向へと反射的に振り返る。その瞬間、名前は飛び上がり「きゃーーーー!!」と悲鳴を上げていた。
野次馬根性丸出しでベランダの様子を覗く元チームメイトたちの姿が、ところ狭しと並んでいたからだ。気が付かなかった。御幸を見ないようにしていたから、全く気が付かなかった。一体何をしてるんだ。
名前と目が合った途端、待ち切れなかったらしい沢村が勢い良く窓を開く。
「上手くいったんすか?! カップル誕生?!?!」
「うるせぇなマジで⋯⋯頼むから引っ込んでてくれよ、まだ話の途中なんだから」
「あっ、まだ途中でしたか! それは失礼しやした! なんかイイ感じだったからてっきり! では戻りますのでもう一度どうぞ!」
「そのまま一生出てくんな埋めるぞ」
わはははは、と笑い声を残してピシャリと窓が閉まる。途端に訪れる静寂。突然の露見に頭が付いていかない。今の会話は、どういうことだろう。だって、これではまるで。まるで──
ぶんぶんと
困惑しきった名前は、ぽそりと呟くように声を出した。
「⋯⋯御幸くん⋯⋯?」
「あー、そのー、なんつーかほら⋯⋯わかんだろ、そーいうことだよ」
「⋯⋯い、言ってくれなきゃわかんないもん、ちゃんと」
きゅっと唇を結ぶ。溢れてしまう。きつく結んでいなければ、きっと、嗚咽が溢れてしまう。力の入る頬に、冷えた御幸の指先が触れる。
「⋯⋯わかんないって言うわりに泣きそうだけど?」
垣間見えるのはお得意の意地悪な笑みだ。突然なんで余裕なの、とぷうっと頬を膨らませ、こんがらがる心をそのまま垂れ流す。
「やだ、わかんないよ、だって勘違いかもしれないし、自惚れなのかもしれないし、だってこんな⋯⋯こんなこと⋯⋯なん⋯⋯なんで?」
終いには「なんで?」である。これには御幸も「なんでって聞かれてもなー」とくつくつと肩を揺らす。
「苗字は恋愛とか興味ないタイプかと思ってたんだよ。まったく可能性感じなかったぜ。気持ち隠すの上手すぎじゃね?」
「御幸くんこそまったく⋯⋯」
「俺はあんま感情出るタイプじゃねえから」
「えぇ⋯⋯いやいやまって、わたしからは結構メールとかしてたよ?」
「ああ、駆け引きもなんもねぇメールな」
確かに、だ。駆け引きも何もないメールではあった。それは認める。だって気取られたくなかったから。けれど繋がりは持っていたかったから。好意を感じ取られて避けられるより、ずっとこのままでいたかったから。
まさか長年のそれがこのようなかたちで裏目に出るとは誰が思おうか。
しかし名前だけのせいみたいに言われるのも癪なので、名前も一応反撃してみる。
「じゃあ、あのインタビューとかは⋯⋯?」
「んなの方便に決まってんだろ。『ま、本当は本命がいるんでバリバリ願望ありますけどね』なんて言ったらめんどくせぇのなんのって」
「ほ、方便⋯⋯」
そうだ。インタビューを受けるような有名人が、皆が皆本音を言っているわけがない。それなのに、“御幸だから”というただそれだけの理由で勝手に鵜呑みにしてしまっていた。
「⋯⋯アイツらはいっつも無理やり背中押してくんだけど、俺はこのままでいるつもりだったんだぜ」
「え、彼ら気付いてたんですか」
「そー、ほら、倉持がさ」
「あぁ⋯⋯、さすが」
倉持の納得の聡さに何度も頷く。が、背中を押されていたということにはひとつも気が付かなかった。少し悔しい。
「⋯⋯御幸くんはどうしてこのままのつもりだったの?」
「んー、俺、野球馬鹿だからさ、きっと寂しい思いさせちまうし、俺なりに大事にしてもそれは世間一般のものとはかけ離れてんだろうなって我ながら思ってんだよ。だからどうせ脈無しならこのままが一番いいか、なんて⋯⋯逃げてたのは俺の方なんだぜ。でも今さっきの話聞いて、苗字がいつか誰かと結婚するとこ想像したら、いい男ぶるの無理だったわ⋯⋯って何?」
「いやそのっ、御幸くんの口からそんな台詞がわたしに向けられて出てくるなんてちょっと信じられなくて⋯⋯照れます⋯⋯」
顔を隠すようにあたふたと手を動かす名前を可笑しそうに眺めて、御幸が笑う。
いつかのあの頃のように、あどけなく。
「なんか随分遠回りしちまったみてぇだし、優良物件とは自分でも言えねぇんだけど⋯⋯俺んとこ来ねぇ?」
「行く!!!!!!」
「ははっ、いらっしゃい」
胸に飛び込む。あたたかい。冷気の中に、御幸の体温だけがひどくあたたかい。諦めていたぬくもりだ。まさかこんな日がくるなんて。
感極まる名前の頭を、おおきな手のひらが撫でてくれる。夢みたいだ。夢なのかもそれない。「もうずっとこのままでいいな、醒めなくていい⋯⋯」と呟いて顔を上げる。不意に窓が目に入る。その瞬間、名前は御幸の腕の中ということも忘れて飛び上がった。窓の向こうから、これでもかとニヤついた面々に拍手などをしながら見守られていたからだ。
「きゃーーーー! なんで! さっき退散したのに!」
「うお、痛ぇ⋯⋯」
名前の頭突きをくらった顎を擦る御幸の遥か上空。星座の瞬く冬空に、名前の悲鳴が木霊した。
◇ベテルギウスを囲んだそれは◆
リオ様より、もどかしい未来夢ハッピーエンド