まるで花の欠片のようで


「なー、お前らなんかあったのかよ?」


 倉持にそう聞かれたのは、自主練も撤収し各々の部屋へ戻ろうという時だった。誰もいない寮の廊下。ジジ、と音を立てる蛍光灯の薄暗い明かりが周囲の闇を絶妙に引き立てている。

 
「え、何が?」
「すっとぼけんじゃねーよ。今日まったく喋ってねぇだろ」
「喋んない日くらいあるだろ」
「お前らにはねぇよ。それに名前ちゃんは何か元気ねぇし」
「俺らにはないって⋯⋯」 


 その言い方に少し笑ってしまいそうになりながら、いや確かに、俺らが喋らずに一日が終わることはねぇなと思う。
 
 なんでコイツはこういうことに気付いてしまうのだろう。感心半分、煩わしさ半分の気持ちで、しかし早々に白旗を揚げる。

 実は俺も少し、困っているからだ。
 
    
「いやー⋯⋯なんかさぁ、口利いてくんなくて」
「は? 名前ちゃんが?」
「他に誰がいんだよ」 
「⋯⋯⋯⋯一体何したんだよお前」

 
 コイツ今「“名前ちゃんがそんなことするなんて、”一体何したんだよお前」って言おうとしただろ。言葉はなくとも、返答までに要した時間が如実に語っていた。

 分かるぜ。俺だってそう思うんだから。

 
「それが分かってりゃこんなふうにはなってねぇんだけどな」


 一階と二階、それぞれの部屋への別れ道の階段下に着いたところで、倉持は徐に壁に背を預けた。どうやらもう少し話すつもりらしい。

  
「心当たりねぇの?」
「ない」
「んなわけねぇだろ。きっかけとかよ」
「うーん⋯⋯きっかけねぇ」


 思い返すのは昨日のこと。
 名前の教室にスコアブックを届けに行った時だ。名前のペンケースにいつも付いているラバーマスコットがふと目に留まり、何の気なしに口にした。
 

『そういやそれ、随分ぼろぼろだよな』
『うん!』
『なんで嬉しそうなんだよ。新しいのにしねぇの?』
『⋯⋯⋯⋯え?』
『え?』


 この時のいやに驚いた名前の表情が、べっとりと脳裏を占める。何故名前はあんな顔をしたのだろう。
 
 そしてこの会話以降、名前は俺に対して口をぴたりと閉ざしてしまった。というか、明らかに避けられている。話をする段階まで到達できない。少しでも俺の気配を察知しようものなら、光の速さでその場を離れてしまう。それならばとトライしたメールや電話も悉く無反応だ。


「それだろ。あんじゃねぇか、心当たり」
「だって本当に誰が見たってぼろぼろなんだぜ。色も褪せてるし所々裂けてるし。誰かから貰った物だったのか⋯⋯よっぽど大切なものをボロ呼ばわりされて怒ってんのか?」


 いやしかし、仮にそうだとしてもここまで俺を避けるだろうか。名前の反応を説明するには不十分な動機に思う。

 こうして首を捻る俺を尻目に、倉持は軽い動きで背を離し、意地悪く口角を持ち上げた。

 
「ははーん、こりゃ男だな」
「はぁ?」
「ま、ちゃんと謝るこったな」
「何か分かったのかよ?」
「⋯⋯これだから野球馬鹿は」


 それだけを言って自室へと向かっていく背中に、俺の声なき声がぶつかる。野球馬鹿だなんて。なんつー罵言だよ、自分のこと棚に上げすぎだろ。



 

「捕まえた」
「⋯⋯っ」


 翌日の昼休みに入った瞬間。俺は名前の教室へと向かった。移動教室だったようで、すっからかんだった教室で待ち伏せすること一分ほど。教科書を抱えて戻ってきた名前は、俺を見るなり踵を返し脱兎の如く駆け出した。

 普段鈍臭いくせに、一体何の隠し能力を発揮しているのか。うまい具合に人混みをすり抜け、ちょこまかと進路を変え、名前は逃走する。なかなか捕まってくれないが、しかしこちとら現役野球部。

 程なくして名前の肩を掴む。

 昼間は人気のない、野球部のグラウンドへと続く道の途中だった。 

 
「名前。何か気に障ること言っちまったなら謝りてぇから、ちゃんと話せ」
「⋯⋯」


 走った所為だろう。肩で息をする名前が、俺を見上げる。怒っている、というよりは。悔しそうで、どこか寂しげな瞳に見える。

 俺、何しちまったんだろうな。

 内心はらはらしながら名前を見つめる。どんな言葉が出てくるか。待つ。名前が口を開いてくれるまで待ってみる。

 が、待てども待てどもその口は開かれない。

 いや、話したそうにはしているのだ。しかし話し難いことなのか、何か躊躇われることがあるのか、とにかくもじもじと口を噤み続けている。ついには俺のほうの痺れが切れてしまって、思わず溜め息が出てしまった。

 出てしまってから、はっとする。

 まるで「そんな態度ならもういいわ」とでも言うような溜め息だったのではないか。今回のことは俺の言葉が引き金だったくせに、あたかも口を開こうとしない名前に罪の意識を与えるかのような。不機嫌で相手をコントロールしようとするような。
 
 案の定、目の前の名前は怯えたような、後悔したような、泣き出しそうな表情で俺を見て、それからゆっくりと俯いてしまった。
 

「⋯⋯悪い」
「ううん。わたしが⋯⋯わたしこそごめんなさい。こんなの、一也くんだって嫌になっちゃうよね」
「名前、違ぇんだって」


 思わず抱き締めていた。上手くいかない。歯痒い。ただ理由を聞いて、謝りたいだけなのに。寧ろ俺のほうが。名前に嫌われたのかと心中穏やかじゃないのに。

 腕の中で俯いたままの名前は、今一度「ほんとにごめんね」と呟いて、それから言葉を続けていく。
 
 
「わたし、怒ってるわけじゃなくて⋯⋯しかもこんなに引っ張るような内容でもないんだけど、意地になっちゃって引くに引けず、気付けばこんなことに⋯⋯くだらなくて一也くんのこと怒らせちゃうかもしれないけど、聞いてくれる?」


 ぽつぽつと話し始めた名前の姿に眉を下げる。いじらしく、愛おしいと思ってしまうのだから弱ったものだ。


「怒んねぇよ」
「聞いてみなきゃわかんないじゃん」
「大丈夫だって」
 

 抱き締める腕を解き、ほら座ろうぜ、と手を引きグラウンドが見えるベンチへと誘う。おずおずと腰を下ろした名前は、膝に教科書、ノート、ペンケースを乗せた。
 

「これ⋯⋯この、ぼろぼろだって言ってたやつ」
「うん」


 名前の人差し指がペンケースに揺れるそれを優しく撫でる。

 
「⋯⋯一也くんに初めてもらったものなの」


 ──わたしの宝物。
 
 そう溢す名前の瞳に、懐かしさと愛おしさが宿る。不意に胸のあたりがちいさく絞まるような感覚。ああ、この瞳はきっと今、過去の俺らを映してでもいるのだろうか。

 そう思いながらも、俺はきょとんと目を開いていた。

 
「⋯⋯⋯⋯これを⋯⋯俺が?」
「うん」


 名前が言うには、俺がコンビニで買ったお茶にたまたま付いていた、当時流行っていたキャラクターのマスコットなのだという。「いらねーからやるよ」、だなんて台詞を吐いて、名前にあげたと言うのだ。

 ──まっっったく覚えてねぇ。
 
 ので、「悪りぃ、まったく覚えてねぇ⋯⋯」と素直に口にした。 


「ううん。ずっと前のことだし、一也くんが覚えてないのも当然なのに⋯⋯なのにわたし勝手にショック受けちゃって⋯⋯そのうちどんどん悪いことばっかり考えるようになっちゃったの。わたしばっかり好きなのかなとか、好きの比率が違うのかなとか⋯⋯なんか、自分でも扱いきれない感情が膨れて、怒りなのか悔しさなのか悲しさなのか、ぐちゃぐちゃして⋯⋯結果避けまくることになって、ごめんなさい」


 なでなで、とマスコットを撫でるその仕草はきっと、これまで何度も何度もしてきたものなのだろう。
 
 名前が何年も俺を好いてくれていたことは知っている。だからこそ、俺が何も覚えていないと知った時の名前の心境を思うと、申し訳なさに見舞われる。

 
「気を悪くしないで聞いてくれよ」
「うん」
「これはさ、名前のこと好きとか嫌いとか、そういう話じゃねぇんだ。俺ほんとこういうの──日頃の些細なことみてぇなの、あんま覚えてなくてさ。それにガキの頃は──あ、それっていつの話?」
「試合で三回目に会った時だから、小学生」
「回数まで覚えてやがる⋯⋯まぁとにかく、小学生の頃なんて鳴の妹としか思ってなかったし⋯⋯あ、いや、悪気はなくて⋯⋯」
「ふふ」
 

 記憶の得手不得手の分野は性別で違うと聞く。へぇ、そんなもんか、なんて思っていたけれど、いざ現実として突き付けられると、罪悪感に似たものを覚える。

 覚えていないことで、大切にしたい人の大切な記憶を共有できないことが。そのことで相手を傷付けてしまう可能性があることが。こんなにも堪える。

 ゆえに言い訳じみたことをつらつらと述べてしまった。だが当の名前は、何故だか可笑しそうに笑んでいる。思わず突っ込む。

 
「何だよ」
「一也くん、狼狽えてる」
「そりゃあ、ちょっと予想外のことだったし」
「⋯⋯こんな話で呆れた?」
「お前にとってそれだけ大事ってことだろ、呆れねぇよ」


 きっと名前はこの先も、日々のささやかなことを覚えていてくれるだろう。

 記憶の欠片を花籠に詰めて、生が終わるその日まで、大切に抱えて生きていく。時折取り出して思い出しては愛でて、生きていく糧にして。

 俺には出来ない。

 出来ないけれど、隣で名前が覚えていてくれるのならば。「あの時はこうだったよね」と語る名前の横顔を、ずっと見ていられるのならば。それは“幸せ”という言葉に満ちた未来のように思える。

 
「てか呆れるもなにも、マジでずっとファンしててくれて嬉しいのが本音なんですけど」
「へへ」


 はにかむ名前を見て、俺のなかに散らばった少ない記憶の断片を集めてみる。まだ子どもだった名前から向けられていた眼差し。幼気で真っ直ぐな瞳に、あの頃の自分はきっと気付いていなかった。
 
 
「今ならあの頃のお前も抱き締めてやれるのにな」
「やだー、ロリコンじゃん」
「何だって? うるせぇ口は塞ぐぞ」
「あははっ、わ、」

 
 んむ〜〜〜! と出所を塞がれた声が、嬉しそうにくぐもっている。そして不意に思い出す。倉持の言葉。
 
 男って、──俺かよ。


◆まるで花の欠片のようで◇

 

yui様より、謡炎番外篇