霹靂
麗らかな春の陽気と心地よい揺れ、そして程よい疲労感。練習試合後のバスの中、眠りに落ちるのは一瞬のことだった。
◆
「──鳴くん。めーくん。ねーってば⋯⋯めーちゃん」
緩やかな目醒めだった。
鳴の名を呼んだ声音はいつもよりやわらかく、まるで幼子をあやすような響きを持っていた。コイツ、こんな声も出せるんだな、と思う。
「んぁ寝てた⋯⋯何⋯⋯つーかめーちゃんて呼ぶなし⋯⋯」
起き抜けの力のない声。懐かしい呼び方に、小学生の頃に出会った名前の姿を思い出す。兄の一也と一緒になって揶揄ってきた名前とは、随分と言い合いをしたものだ。
「あはは、鳴くん寝起き悪いんだね」
「⋯⋯俺の寝起きがいいとでも思ってた?」
「ふふ」
可笑しそうに笑う名前から感じられるのは肯定の意。自分で言っておいてなんだが、寝起きが悪いと思われていたのならそれはそれで癪である。
「起こしちゃってごめんね。もうすぐ着くよ」
「ん⋯⋯」
寝惚け眼を擦る鳴を、名前の双眸がじっと見ている。
鳴は思わず、ぱっと視線を逸らした。目が醒める心地だ。
一也そっくりな瞳で、なのにちゃんと女の子の瞳で、まっすぐに鳴を見てくる。困惑するのだ。いまだに慣れない。出会ってからもう何年も経つというのに。一也の面影がどうしてもちらついてしまう。
図らずも出かけた溜め息を既で飲み込み、僅かに空いている窓の隙間から細く細く吐き出した。
◆
学校に戻り、ミーティング前に荷物の整理を始めた時だった。背後から声を掛けられる。
「オイ鳴、ちゃんと礼言ったのか?」
振り返り「雅さん」、と応じてから首を傾げる。
「礼って? 誰に何を?」
「苗字に。お前、バスで寝てる間ずっと寄しかかってたんだぞ」
「へー、そうだったんだ。道理でね。なーんか寝心地よかった気してたんだよね」
「⋯⋯」
他人事のように相槌を打つ。
思い返すのは今朝、バスに乗る前のことだ。「俺はひとりで座んの! もしくは名前だけ! 狭くならないし野郎と違っていい匂いするから!」と、半ば強制的に名前を隣に座らせた。人数の関係上相席は免れなかったからだ。
けど礼っつーかさ、寧ろ光栄に思ってるんじゃない? なんて、軽口を叩こうとして、原田を見て。
鳴は直ちに口を噤んだ。
減らぬ憎まれ口に原田の血管が切れてしまう気配を感じる。
「雅さん顔怖っ」
「⋯⋯オイコラ」
「はいはい、探してくればいーんでしょ。分かった分かった」
ひらりと翻る手のひら。面倒な説教は勘弁だ。雷が落ちる前に、すたこらさっさとその場を離れる。
名前はすぐに見つかった。
練習試合で使用した備品の整理に集中しているようで、鳴にはまだ気付いていない。礼を伝えるつもりは端からないので、ちょっとちょっかいでも掛けて“名前を探した”既成事実でも作っとくか、と足を踏み出したその時だ。
響いたのは短い着信音。
鳴のものではない。反射的にぴたりと足を止め、名前の挙動を見守る。名前は鳴には気付かぬまますぐにスマホを取り出し、確認を始めた。
その瞬間、ふわりと名前の周りの空気が和らいだ気がして。
鳴はむっと唇を結ぶ。画面を見る名前の表情に、無性に腹が立つ。無意識に近寄っていた鳴は、気付けば顰めた声で問うていた。
「──誰?」
「ひぃ⋯⋯っ、め、鳴くんか⋯⋯びっくりした⋯⋯」
まったく気付いていなかったのだろう。肩を大きく跳ねさせて勢いよく振り返った名前は、鳴を認めて安堵の息を吐いた。
「メール、一也?」
「うん。青道も今日練習試合だったから。よくわかったね」
「まぁ分かっちゃう自分にムカつくんだけどね」
「あはは、なんで」
鳴は知っている。
もしかしたら名前自身も自覚はないのかもしれないが、名前は大分、一也のことを好いている。否、兄として好く感情のほかに、強い尊敬と憧れと。
昔から見てきたから、知っている。
だからてっきり、一也を追って青道に進学すると思っていたのに。予想に反して稲実に来るのだと知った日には、素っ頓狂な声で「なんで???」と問うたものだ。
そんな鳴の反応に面白そうに笑った名前は、「なんででもいいじゃーん」とだけ答えたのだった。
その時のことを思い出し、今一度口を開く。
「ねえ、なんで青道じゃなくて稲実来たわけ?」
「えー?」
きっと最初は、もう一度はぐらかそうとしたのだと思う。しかし鳴が殊の外真面目な表情をしていたから、名前もその言葉を飲み込んだようだった。
「んー⋯⋯それ、言わないとだめ?」
「別にダメではないけど」
「でも聞きたいんだね」
「なんか改まってそう言われるとムカつくな」
「あはは、ムカついてばっか」
「名前のせいだよ!」
ムキーッと怒る鳴を笑って窘めて、それから名前は少しだけ首を傾げた。
「言ってもいいんだけどね。でも鳴くん、言わなきゃわかんない?」
「は?」
何だろう、この瞳は。
じいっと鳴を見上げてくるその瞳に、見たことのない意図が溶け込んでいる気がする。悪い心地はしない。けれど、名前から向けられるのは初めての感覚だ。
暫く見つめてみる。しかしどんなに瞳を覗こうとも、どんなに理由を考えようとも答えは分からず、更にはまるで試すような言い方にもじわじわ苛立ってきて、最終的に「言ってくんなきゃ分かんないし!」と投げやりに答えていた。
「それはねえ──お兄ちゃんに稲実の情報流すためです〜〜!」
「はぁ〜〜っ?!」
裏返りかけた大きな声が出る。
何だ、アレか、スパイってことか。いや、あり得る。兄想いの名前なら、そんな嘘のような狂行もあり得る。
とすれば、今さっきの意味深な瞳は気のせいだったのだろうか。
「あははっ、なーんて。さすがのわたしもそんなことはしません」
「お前マジふざけんなよ」
ぎゅ、と鼻翼を摘む。憎たらしいことこの上ない。意図せずとも力が入ってしまう。名前はひーんと情けない声を出し、鼻の詰まった声のまま「鳴くん自分の握力知ってる?!?!」と喚いている。
じたじた、と暴れられて。「一割も力入れてないんだけど」と手を離す。
「もー、痛かったあ」
「名前が悪い」
「それはごめんなさい」
「うわ、急に素直にならないでよ。調子狂うじゃん」
「ええ、わたしいっつも素直なのに」
「“一也と比べたら”、だろ」
「またそんなふうに言う。そこがお兄ちゃんの良いところなんだよ」
「うるさ」
いつもこうなってしまう。昔からだ。一也と言い合っているところを見てきているからか、鳴相手だととやかく揶揄ってくるきらいのある名前とは、気付けば犬も喰わぬ言い合いを展開してしまう。
「まぁいいか。で、さっきの答えだけどね」
「なんだ、教えてくれんの?」
「うん。どうしても内緒にしたいってわけじゃないし」
眩しい陽光に、茶色がかった前髪が透けている。束の間伏せた瞼の上を、風になびいてさらさらと揺れる。その毛先ぎりぎりで瞼が持ち上がって。ぱっちりとした綺麗なかたちの目が、鳴を捉える。
「なんで稲実に来たかって、そんなの、鳴くんがいるからに決まってるじゃん」
「は⋯⋯?」
先程と同じ瞳だ。鳴の心が何かを感じ取る。これは、この感じは。
しかし、まさか。名前が?
あり得るだろうか。いつも喧嘩ばかりで。兄ラブで。今までそんな素振り一度も見せていないくせに。こんな言葉と、こんな瞳で。ひたむきに見上げてきて。
心は名前の意図を掴んでいるのに、思い出がそれを否定する。こんがらがる。
「⋯⋯ほんとに、言わなきゃわかんない?」
「いや、⋯⋯え」
鳴に似つかわしくない困惑しきったちいさな声に満足そうに笑った名前は、「んー、でもやっぱはっきり言わないのは性に合わないなあ」と、姿勢を改める。す、と息を吸って。開かれた唇の隙間から、声が出ようというまさにその瞬間だった。
「あっ、いたいた、鳴さーーーん、 ミーティング始まりますよ!」
多田野だった。
忠犬の如く嬉しそうに尻尾──否、手を振っている。
「あらら、残念。また今度だね」
それだけを言い残して多田野の元へ走り寄っていく名前の背中を、鳴がぽかんと見送っている。
「いやいやいや⋯⋯マジで?」
◇霹靂◆
らいう様より、謡炎逆ver