ずっと迷子だ
「えっ?! DNAって目に見えるんですか?!?!」
「うん。見てごらん」
透明なコニカルチューブ内の透明な液体の中で、透明な糸くずがゆらりと揺れる。
チューブを手渡すと、彼は、名前に倣ってそれを蛍光灯に翳した。
「うわっ、え、これですか?」
「うん」
へぇ〜とかわぁ〜とか、微妙に言葉にならない感嘆を漏らし、彼はチューブをゆっくり傾けた。
ゆらり。ふよふよ。
光を受け、透明な糸くずが泳ぐ。この糸くずこそがデオキシリボ核酸、いわゆるDNAである。
「うわ〜〜〜僕、DNAって初めて見ました」
「ふふ、そうだよね」
「……綺麗ですね。こんなのが身体に入ってるんだ……」
そう呟く彼の横顔を見上げ、名前は気づかれぬ程度に弱く息を付いた。
──わたしは君のその純粋さが、少し怖いよ。憂太。
実験室の扉が遠慮がちに叩かれたのは、夜も深まりに深まった、最早未明と言ったほうがいい時間だった。
「どうぞー」
「あ……こんな夜中にごめんなさい。たまたま前を通り掛かったら明かりがついてて……」
そう言う憂太の手には毛布が抱えられていた。名前が寝落ちしてしまっていた場合のことも考え、一度部屋に戻り毛布を取ってきてくれたのだろう。
本当に優しい青年だ。
「心配してくれたの。ありがと」
「いえ、そんな……」
「憂太は? こんな時間にどうしたの」
「あ、僕は……なんだか目が冴えちゃって」
「そっか」
下眼瞼に薄っすらと隈が見える。ここ数日ハードな任務があたっていたが、その隈が任務によるものなのか、それ以外の理由によるものなのか。
名前には、わからない。
「おいで。寝れないなら少し話そうよ」
手先でちょいちょいと手招く。それを見た憂太は、少し迷ってから実験室内へと足を踏み入れた。隣の席へ座るよう促してから、マグカップを二つ手に取る。
「何飲む? お酒でも少し引っ掛けたほうが眠れそう?」
「未成年です……」
「あ、そうだった」
冗談めかして笑ってからフラスコにミルクを注ぎ、アルコールランプにかける。その様子を、憂太は何も言わずに興味深そうに見ていた。
くつりとミルクが気泡を生じ、優しい香りが鼻腔をくすぐる。ショ糖を二匙加え一回ししてから火から降ろし、マグカップへ分け注ぐ。
「アハハ、カップはカップなんですね」
「ふふ。一人だったらビーカーでもいいんだけど。せっかく憂太が訪ねてきてくれたし、このくらいはね」
憂太の肩がクスクスと揺れる。それだけで、冷え冷えとした実験室に温度が宿ったようだった。
「はちみつとメープルシロップとチョコ、どれがいい?」
「えっと……はちみつでお願いします」
「わかった。わたしはちょっとだけリキュール入れちゃお」
ほかほかと湯気が立ち上るカップを目の前に置く。「いいにおい」と目を細めてから、憂太はひと口含んだ。
「美味しい……ところで名前さんはこんな時間まで実験ですか?」
「そう。なんか気分が捗っちゃって。ちょうど面白いところだよ、見てみる?」
と誘ってみたところで、冒頭の場面に戻るというわけである。
「このちいさくて細くて頼りないものに、生物としてのすべての情報が詰まってる。たったひとつの塩基配列が狂うだけで、その配列によっては個体にとって享受しがたい変異をきたすってわけ。わたしの身体も、憂太の身体も、このDNA情報から作られてるんだよ」
「……じゃあ、僕のDNAを取り出したら、名前さんには僕の全部がわかっちゃうんだ。ハハ、すごいなぁ」
「──……」
無垢な笑顔から視線を外し、ほろ苦いミルクを啜る。
──わたしには、君がわからない。
何故こんな時間まで眠れないのか。そんな夜に何を考えているのか。誰を想って、夜を越えているのか。
憂太もたくさん見てきたはずだ。理不尽極まりないこの世界の汚さ。命の脆さ。心の危うさ。
それなのに何故、こんなに無邪気に穏やかに笑っていられるのか。時には非情にも成り得る強さを持っていながら、何故、こんなに優しいのか。
そして何故、名前の好意にはこれっっっっぽっちも気付かぬのか。結構アピールしているつもりなのに。
実際五条にも「こんなにアピールしてるのにねぇ、アハハ、可哀想に。僕が慰めてあげよっか?」と言われる始末である。
ちなみにこの際無性に腹が立った名前は、試作中の超超超劇薬を五条に投げつけたのだが見事に跳ね返され、五条の代わりに劇薬を被った床一面が一瞬で溶けて終わった。
いや、五条とのことはどうでもいい。いつの日か無下限すらすり抜ける夢のような劇薬を作るまでである。
とにかくだ。
──わたしには、君がわからない。憂太。DNAを覗いたって、憂太のこと、ひとつもわかんないんだよ。
そんな言葉を、飲み下した。
【ずっと迷子だ】終